コロナ禍にあって、水俣の地にて思うこと

葛西 伸夫
水俣病センター相思社職員

  水俣病センター相思社は、1974年、水俣市の南部、かつて劇症型水俣病が多発した漁村部から小高い丘を上がっていった高台につくられた。

  1969年の前年は、全国の大学で学生運動が起こり、多くの大学の授業が休講に追い込まれた年である。否応なしに社会と向き合うようになった学生たちのなかには、当時日本各地で発生していた公害問題に意識を向ける者たちが少なくなかった。水俣病の裁判支援の輪は大学伝いに日本中に広まっていった。授業が再開されても、休みに入る度にはるばる水俣までやってくる学生たちが数多くいた。彼らはいわゆる水俣病患者「支援者」となっていく。1969年、漁村部のうちわずか29世帯の患者家族が裁判に踏み切った。当時の水俣市長は橋本彦七。チッソの元工場長で、水俣病の原因となったアセトアルデヒド製造プラントの設計者でもある。経済も政治もチッソが握っている、まさに名実ともに城主であった。その町でチッソを訴えるということは、市民感情からすればクー・デターにもあたる行為ととれた。

  水俣では多勢に無勢の覚悟で訴訟に踏み切った患者や患者家族にとって、思いがけなく現れた彼らの存在は心強かったに違いない。しかし、劣勢だった裁判が、元チッソ附属病院長の細川一氏によるネコ実験(早期にチッソは動物実験によって自社の廃液が水俣病の原因であることを突き止めていた)の告白証言によって、勝訴が現実のものとして見えてくるようになると、原告たちの不安、すなわち城主を負かし賠償金まで手にしたうえ、この町で暮らしていくことの孤立感が、現実の不安として現れてきたのである。

  そこで「支援者」たちは、分散していた患者・患者家族たちがまとまることができ、物理・精神的に支えとなる「拠り所」を作ろうという「センター構想」を打ち上げた。それを全国に呼びかけると、3千万円を超える寄付が集まった。そうして勝訴判決の翌年、水俣病センター相思社がいまの場所に作られ、それから50年近い年月が経とうとしている。

  当初の目的である患者たちの「拠り所」としての相思社は、様々な変遷を経て、現在では患者相談窓口としてそのなごりを残している。いまでは「水俣病を繰り返さない世の中をつくる」ことを究極的な目標に据え、水俣病を伝えるために、資料の収集・保存・展示をしたり、講演活動や、水俣病関連地めぐり、あるいは地元の食産品の販売を媒介に「伝える」ことを行ったり、多岐にわたっている。

  「水俣病を繰り返さない世の中をつくる」。「繰り返さない」だけではなく、そういう「世の中をつくる」という理念が私はなにより大切だと考えている。水俣病事件を起こしたのは、主犯のチッソだけでなく、共犯の行政だけでもない。それらを生み出し、事件を長いあいだ黙殺していたのは私たちも構成する社会(世の中)であるからだ。

  事実、チッソ水俣病が解決を見ないうちから新潟水俣病を引き起こしている。ほかにも同じ工程を持つプラントは世界中に作られていたし、メチル水銀中毒事件は世界各地で起こっている。

  では世界中の「メチル水銀中毒」を監視していればよい/よかったのだろうか。福島原発事故も、放射性汚染水を太平洋に垂れ流している点や、事故処理や補償制度などでも水俣病に似ているという指摘がよくされる。世界の「汚染水」の監視や、事故処理や補償の法整備だけで十分だろうか。そのような対症療法で済むことならば、公害事件や環境汚染はもはや起こっていないのではなかったか。

  「歴史は繰り返す」とか、「人は歴史から学ばない」とか言う、偉人の言葉の断片を、私たちはなかば諦めがちに納得している。実際、歴史を詳しく紐解くと、社会は大事な経験、それも多数の人間が犠牲になって得た経験からも、結局は何も学ばず愚かな歴史を繰り返しているように見えるからだ。

  水俣病初期、まだ原因も伝染や遺伝の有無もわからなかった「水俣奇病」時代、患者が多発した漁村部では、発症者の家族や家に近寄らなかったり、縁を切られたりするようなことが多発し、共同体が崩壊した。しかし、私はそれを差別と言って糾弾したりはしない。正体不明の伝染病の可能性がある患者に近寄らないことは、自分の身を守ることとして当然のことだからである。しかし、そのころの水俣では、それに加え患者の家への投石行為などもあったそうだ。それはやってはいけないことである。いま私たち相思社は、様々な活動を通して「水俣病を繰り返さない」ために「水俣病を伝える」ことを行っている。しかし、人間の歴史の必然として、また「繰り返し」てしまうのではないかという諦めがこれまでも幾度か心を掠めることがあった。しかし大いなる諦めに押しつぶされそうになったのは、まさにこの「コロナ禍」において露呈したいくつかの現実だった。

  時は65年ほど流れ、新型コロナウィルス感染症が流行している。正体が分からない点が多いところでは現代の「奇病」と言ってもよいだろう。科学技術や医学が進歩し、また、あらゆる情報が瞬時に手に入るかのような情報化時代となった現代となっても、人類社会は慌てふためいた。水俣市のとなり町の鹿児島県出水市では、熊本ナンバーの車に生卵が投げつけられるということが起きた。類似する嫌がらせは日本各地で起こった。社会が飛躍的な進歩を遂げたつもりでも、人間はこれほどまでに変わらないのかと暗澹たる気持ちになった。
 

  しかしそれはまだ小さな話だった。命や健康の犠牲から学んだ教訓がまったく反故にされたのは、コロナそのものよりも、コロナワクチン接種だった。通常最低でも3年はかかるといわれるワクチン開発を、製薬会社は1年足らずで開発し、3ヶ月強で治験を終了させた。それも人類が初めて実用するmRNAワクチンである。しかも日本は、それを日本人による治験を終了せずに特例で認可し、大規模接種を始めた。その結果いま、公式発表で接種直後の死亡だけでも1300人を超えている。薬害事件の疑いが間違いなく存在するというのに、ほとんどの場合因果関係を「不明」とし、明確な注意喚起もしない。しかも挙げ句には3回目の接種を呼びかけている。そしてワクチン批判は箝口令が敷かれ、マスコミが取り上げることはほとんど無い。

  これまで経験してきた薬害の経験はいったい何だったのかと思う。とりわけ日本は、1948年「ジフテリア予防接種事件」という予防接種における世界最大の医療事故を経験している。また、戦争で経験した全体主義や、戦争を開始させ破局に至るまで続けた情報操作への反省はいったいどこへいったのだろうか。

  「歴史は繰り返す」「人は歴史から学ばない」ということが白昼堂々と証明されていくことを愕然と飲み込むしかなかった。パンデミックの恐怖に駆られ、冷静さと思考をいとも簡単に手放してしまう人間の姿を、ただ諦めて眺めるしかなかった。

  私たちが地道に伝えている水俣病から得られる学びも、そのときは共感されても、社会に一定の条件が揃ったとき、同じように簡単に反故にされることが分かってしまったようで、本当に辛い。

  いったい、私たちは歴史の何を繰り返してきたのか、歴史の何を学べばよかったのか、検証する必要性を感じている。チッソが市民を犠牲にし、将来身を削って賠償金をはらうことになってまで生産を続けなくてはいけなかった原動力、そして人類の8割にワクチン接種をしようするという企ての原動力、それらはいったい何なのか。私たちはものごと(歴史や社会)の表層しか見ていないのではないか。その表層を動かす、地球に例えると地底の奥底を流れるマントルのような「本流」を見極めなくてはいけないときだと思う。
 

一般財団法人 水俣病センター相思社
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『社会司牧通信』第221号(2021.12.15)掲載

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