ラルシュかなの家の生活

横井 圭介
ラルシュかなの家アシスタント

  12年前、イエズス会の修練者を辞めた当時、こうして「社会司牧通信」の原稿を執筆していようとは夢にも思いませんでした。

  私は愛知県に生まれ、キリスト教はおろか宗教に触れる機会が皆無の家庭で育ちました。むしろ「地位」、「名誉」、「学歴」や「財産」が幸せのバロメーターであり、皆と同質でいることが良いという価値観を植え付けられてきました。

  私は落ちこぼれでした。幼稚園に入ると、周りの子たちが出来ることが、いつまで経っても出来ないという経験をしました。幼馴染みの女の子たちからは「頼りない」と言われました。そんなみじめな思いを誰かに打ち明けることもできず、辛さを理解されないまま成長していきました。

  とある地方の大学に入学した後も、自分に自信がなく、それでいて「世の中こんなもんさ」と上から見ているような、醜い歩み方をしていました。友人たちには彼氏・彼女という存在がいましたが、私にはそのようなものもなく、周りを憎み自分すらも憎んでいました。

  そんな日々の中、たまたま潜り込んだ刑法の基礎ゼミで、「ローマに旅行に行こう」という提案が持ち上がりました。2000年のことです。担当教授の秋葉悦子先生いわく、「ローマには以前お世話になったピタウという神父がいる。今は教育省の次官(大司教)であり、その彼に会いに行こう」という話でした。

  鬱屈した毎日を過ごしていた私は、この話を聞いた時に「何が次官だ、どうせ偽善者だろう」、そういう思いが先に立ったのをよく覚えています。しかし同時に「この人物に会っておけば、何かコネが生まれるかもしれない」という小狡い考えが浮かび、ローマ行きを決めました。

  深夜、空港に着いたとき、ピタウ先生が立っていました。護衛と思われる人もおらず丸腰でした。私たちが彼に近づくと、満面の笑みを浮かべながら、「ようこそ、いらっしゃいました」と学生一人一人の手を握りながら挨拶をしてきました。私は、その手の温かさと眼差しに打たれ、思わず泣いてしまいました。

  その涙の理由が、今なら分かります。「横井さん、よく今まで生きてこられましたね、私は知っています。あなたに私は会いたかったんだよ」というイエスの語りかけを感じたのでした。帰国して2年後、そのピタウ先生から洗礼を受けることになろうとは、思いもしませんでした。
 

  それから4年の月日が流れ、イエズス会に入会し修練期を過ごしました。今まで自分を縛ってきた「他者と比較する文化」から抜け出せず、一喜一憂しながらもがいていました。11月になり、「病院実習としてラルシュかなの家へ行ってください」という修練長の指示を受け、のちに所属することになるコミュニティの門を叩いたのです。

  1か月の滞在でしたが、初日から居心地の良さを覚えました。言葉を話さないなかま(かなの家では「利用者」のことを「なかま」、「職員」のことを「アシスタント」と呼びます)から、「あなたがいてくれて私は嬉しい」、「よく来てくれました」という声にならない声を聞いたような気がしました。実習に来る前までは「皆から受け入れてもらえるだろうか」、「上手く実習を終えられるだろうか」、「良い評価が与えられるだろうか」、そんなことばかり考えていました。しかし、それは見事に崩れました。

  「どうやって役に立とうか」という思いから一転、逆に「迎えられる」という経験をしたのです。なかまは目の前の人物を、肩書や財力、立場、国籍で区別することはしません。一人の人間として、いつもありのままの姿で迎えます。

  ラルシュを創設したジャン・バニエ(1928~2019)も、最初はおそらく「障害者を助けたい」という思いがあったのではないかと思います。しかし、やがて知的障害を持つメンバーが、現代社会に失われた「祝う」、「赦す」、「人と人とのつながりを生み出す」という賜物を持つことに気が付き、ラルシュは世界中に広がっていきました。私の経験した「迎えられる」という感覚も、そこに根付いていると思います。
 

  2007年の秋に、正式にかなの家の一員に加わりました。働き始めて間もなくのこと、ゼリーを作るという仕事を任せられることになりました。なんと、あろうことかゼラチンを入れ忘れ、冷蔵庫にはオレンジジュースが40個のカップに・・・。一般的に考えられるのは「たかがゼリーすら作れないのか」という叱責、もしくは落胆。私の顔は真っ青でした。しかし食卓に行くと、なかまから「美味しいな、横井さんは作るのが上手いなあ」と言われ、本当に驚きました。

  しばらくして、ある女性アシスタントとの関係が悪化するという事態に陥りました。声も態度も大きい私は、周りから悪者と見なされてしまいました。そして、それまで所属していたグループホームから離れ、別のホームに移ることになりました。新しい家に来た初日「なんで皆、分からないのか、あいつのほうが悪いんだ」という怒りと、恥ずかしさとで胸がいっぱいで、押し黙ってメンバーと夕食をとっていました。「明日、かなの家を辞めると責任者に言おう」という考えすら浮かんできました。すると、食事が終わり食器洗いをしているとき、なかまのNさんが「にぎやかになった、にぎやかになった。横井さんが来てにぎやかになった。僕は横井さんが来てくれて嬉しいよー」こんなことを言い始めたのです。

  私は「先輩アシスタントをいじめ、結局追い出され、この家に来た。皆も自分を嫌っている。これから誰からも相手にされないだろう」と思い込んでいました。それは、あっけなく崩されたのです。Nさんの言葉は、今まで私が見てこなかった景色を与えてくれました。
 

  時はさかのぼり、イエズス会の修練者時代、インドのケララで1か月間を過ごしたことがありました。そこで、インマヌエルという1学年上の修練者に出会いました。彼は、かつてプロのダンサーでした。教会の日曜学校で同伴したときに「おいヨコイ、踊ってみろ」と言われたのでした。

  私と言えば、体育の成績はいつも1。人前で踊ると「下手だなあ」と失笑を浴びた経験ばかり。とっさに「自分には不可能だ、恥ずかしい」と答えました。

  すると、インマヌエルは真剣な表情になり、こんな一言を放ちました。「何を言ってるんだ、お前は? お前を表現しろ、お前を表現するんだ!」

  そこまで言われたら、失笑を買うことを引き受けよう、そんな思いで「タコ踊り」を披露しました。

  終わった後、彼は真剣な表情をやや崩しながら「ヨコイ、やれたじゃないか、お前は。お前は自分を表現できるんだ!」
 

  かなの家で生活をする中で、このインマヌエルとのエピソードを色々な場面で思い返します。上手く行う、人から認められる、褒められる・・・そういうことが大事なのではなく、「表現すること」そのものに大きな意味があるのではないか?

  なかまはありのままの自分を「表現している」存在です。一方の私は、今でも表現することに壁があります。さらに、他者の表現に関して非寛容で、ジャッジを入れて駄目だとみなす傾向があります。ありのままで相手を迎えるということに関して、私はなかまから程遠いところにいます。

  この拙い文を読んで心に響くものがありましたら、どうぞかなの家を訪ね、なかまと「出会って」みてください。私が経験してきたような「新しい景色」が、あなたにも広がることでしょう。
 

 

 

 

《ラルシュかなの家》
〒421-2114 静岡市葵区安倍口新田65-5
Tel: 054-206-0830 Fax: 054-294-8070
https://larchejapankana.localinfo.jp/
Email: larchekana@s9.dion.ne.jp

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