日本の“奴隷”労働制度 ~国際貢献という欺瞞~

柳川 朋毅
イエズス会社会司牧センタースタッフ

人権“後進国”日本
  2016年5月の末、日本の伊勢志摩において、G7の首脳が集うサミット(世界主要国首脳会議)が開催されました。サミットの実態やその意義はともあれ、少なくともこの7か国は、世界の“主要な先進国”であると自負していて、日本もその中に入っている訳です。もちろん、何において“主要”なのかといえば、それは第一に経済的に、あるいは国際情勢的にですが、それだけ大きな影響力をもっている以上、人道的な観点からも“先進国”であることが求められるでしょう。

  「日本は、国連で2000年に採択された人身取引議定書を締結していない唯一のG7参加国である」。米国国務省から出された2015年版「人身売買報告書」の日本に関する部分は最後、その一文で閉じられています。米国の基準では、日本は第二階層(人身取引撲滅のための最低基準を十分に満たしていないが、満たすべく著しく努力している国)に分類されています。G7の他の6か国を含む31の国と地域が、基準を満たした第一階層に分類されているのに比べて、日本の人身取引撲滅に取り組む姿勢は、 “先進国”並とはみなされていないのです。

  日本は国際社会から、その人権擁護の取り組みの遅さや不十分さを、再三勧告されてきました。2014年7月にジュネーブの国連欧州本部で行われた、国際人権(自由権)規約委員会による第6回日本政府報告書審査でも、いくつもの問題点が指摘されました。その中でも4つの項目、つまり死刑、「慰安婦」、代用監獄、そして技能実習生の問題がとりわけ重視され、日本政府の誠意ある早急の対応が求められました。

  「委員会は、外国人技能実習生に対する労働法の保護を拡充する法制度の改正にもかかわらず、技能実習生制度の下において、性的な虐待、労働に関連する死亡、強制労働にもなりかねない労働条件に関する報告が数多く存在することに、懸念をもって留意する」(総括所見16項)と指摘されているように、日本の「外国人技能実習制度(TITP:Technical Intern Training Program)」は数多くの問題を孕んでいます。今回は、「強制労働の温床」、「現代の奴隷制」といった批判が相次いでいる、技能実習制度について考えてみたいと思います。

外国人技能実習制度の本音と建前
  「強制労働の事案は、政府が運営するTITPにおいて発生している。この制度は本来、外国人労働者の基本的な産業上の技能・技術を育成することを目的としていたが、むしろ臨時労働者事業となった。『実習』期間中、多くの移住労働者は、TITPの本来の目的である技能の教授や育成は行われない仕事に従事させられ、中には依然として強制労働の状態に置かれている者もいた」(「人身売買報告書」2015)。米国からこう指摘されるように、この制度の一番の問題点は、その目的と運用実態がまるで乖離しているという点です。

  これまで日本政府は、外国人労働者の受け入れについて、高い専門性や技術を有する者は受け入れるが、いわゆる「単純労働」の分野では、日系人などを除いて受け入れないという姿勢を貫いてきました。

  けれども、一部の産業において労働力の供給が追いつかず、特に「3K(きつい・汚い・危険)」といわれるような職種では、深刻な人手不足が生じていました。それゆえ産業界からは、安く酷使できる労働力として外国人労働者を求める声が強くありました。

  そうした政府の国策と労働市場からの経済的なニーズとの間で、まるで抜け穴のように考え出され、その後拡充されてきたのが外国人研修・技能実習制度です。25年近くにわたりこの制度を推進してきた公益財団法人・国際研修協力機構(JITCO)によれば、「この制度は、技能実習生へ技能等の移転を図り、その国の経済発展を担う人材育成を目的としたもので、我が国の国際協力・国際貢献の重要な一翼を担っています」と説明されています(公式HPより)。つまり先進国である日本の進んだ技能・技術・知識を外国人に対して教えてあげることで、開発途上国の経済発展に協力してあげる、「国際貢献」のための制度だというのです。

  こうした受け入れ方は、1981年に「研修」という在留資格が導入されたことによって正式に始まりました。けれども「研修」というのは名ばかりで、実際には多くの企業で過酷な「労働」を研修生に行わせているという実態が指摘されるようになりました。研修生の行っているのは技術を習得する「研修」であって「労働」ではないのだから、労働の対価としての報酬も発生しないという理屈で、労働者としての権利も保障されず、最低賃金以下の報酬で働かされていたのです。

  その後、いく度かの法整備を経て、この制度はますます拡充していきました。ただし、それはもっぱら、一番の当事者である外国人研修生の視点からというよりは、受け入れる日本企業側の使い勝手の良さが第一に考えられた政策でした。

  例えば、1990年には大企業だけでなく中小企業でも研修生が受け入れられるようになり、1993年には、1年間の研修後、試験に合格した研修生は技能実習生としてもう1年滞在することが可能になる「技能実習制度」がスタートしました。また1997年には、実習の最長期間が2年に延長され、研修期間と合わせれば最長3年間日本に滞在できるようになりました。

  そうした中で、いくつもの問題、特に深刻な人権蹂躙が疑われる事案が相次いで明らかになりました。例を挙げればきりがありませんが、「人件費」を切り詰めようと最低賃金以下の低賃金で長時間働かせていたり、失踪を防ぐ名目でパスポートや預金通帳を取り上げ、法外な罰金や違約金を課したりといったことが平然となされていました。長時間労働や安全対策が十分でない作業によって病気やケガが頻発し、最悪の場合、過労死や自死に至ってしまった外国人もいます。そうした「労災」ですら、多くの場合は表ざたにならないようにもみ消されます。また、労働以外の生活の面でも、劣悪な住環境や食事しか提供せず、それにもかかわらず家賃や食費として多額の天引きを行うなどの非人道的な待遇も多く報告されています。外出や外部との連絡も厳しく制限され、中には恋愛や宗教上の行為までも規制されるという事案も見られます。もっとも悪質なのは、「強制帰国」をちらつかせることで、彼らの不満を封じ込めて逆らえないようにし、その支配関係の中でセクハラやパワハラといった犯罪的な行為が行われることです。

  制度のこうした運用実態が明らかになり、国内外から批判の声が高まる中で、2010年7月に「改正入管法」が施行されました。それによって、技能実習生は基本的に労働者として労働関係諸法令の保護下に置かれることになりました。けれどもむしろ不正が巧妙化して実態が見えにくくなっただけで、相変わらず深刻な人権侵害が多発しています。

  もちろん、すべての受け入れ先企業がこうした不正を働いているわけではなく、中には良心的な研修を行っている企業も存在します。けれども厚労省の監督指導では、毎年8割前後の実習機関で労基関連法違反が認められており、この制度が人権をないがしろにした労働の温床になっていることは明らかです。

奴隷ではなく兄弟姉妹として
  教皇フランシスコは、2015年1月1日の「世界平和の日」メッセージの中で、次のように語りました。「とりわけ問題なのは、国の法律によって移住労働者が雇用者に構造的に依存する状況が生み出されたり、それが許されたりしている場合です。たとえば、法的な在住許可が労働契約に左右される場合です。そうです。私は『奴隷労働』について考えているのです」。

  職業選択(職場移転)の自由がなく、強制帰国を脅しの材料に、むちゃくちゃな労働条件や生活環境を強要する。何か問題を起こしたり、労働力として“使えなく”なったりしたらクビにして送り返す。これはまっとうな労使関係ではなく、支配-服従の隷属関係です。国際的な基準に則れば、日本の外国人技能実習制度はまさに、「現代の奴隷制度」以外の何物でもありません。

  奴隷状態に置かれたり、苦役に服せられたりすることは、日本国憲法第18条でも、世界人権宣言第4条でも禁じられています。奴隷労働からの自由は、人類普遍の基本的人権といってもいいでしょう。労働者の権利を守る法律の筆頭である労働基準法も、強制労働を固く禁じています(第5条)。その証拠に、第5条違反には労基法上もっとも重い罰則が定められています(第117条)。ところが日本政府は、技能実習制度によって虐げられた外国人を、これまで一人も強制労働の被害者とは認定せず、加害者を人身取引犯として訴追することも行っていません。起きている被害に目をつぶれば、支援も対策も必要なくなるからです。

  現在日本には20万人近くの外国人実習生がいるといわれています。特に最近は、これまで主流だった中国人に替わり、ベトナム人が増えてきています。私の関わっている日本JOC(カトリック青年労働者連盟)でも、数名のベトナム人実習生と繋がりをもっています。私たちと繋がれているという時点で、彼らは“幸運な”ケースで、その裏には助けを求める手段すらなく、声にならない叫びをあげている外国人実習生の存在が容易に想像できます。
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  こうした人権軽視の労働を支える制度の根底には、「ガイジンだから」といった差別がまかり通っている現実があります。外国の人々を正しく「人間」として、「労働者」として、「隣人」として、「兄弟姉妹」として扱うのであれば、こうした横暴を許す制度を容認することはできないはずです。国際貢献というまやかしの言葉に騙されてはいけません。また同時に、安く使い捨てられる労働力を求めてしまう私たち自身の罪深さをきちんと認めるとともに、それを支えている私たちの消費行動も常に考え直す必要があるでしょう。

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