霊性と社会問題

柳田 敏洋 SJ
イエズス会霊性センター「せせらぎ」所長

霊性の理解
  ドミニコ会の修道女で神学者のカーラ・ストリーター(Sr. Carla Streeter, O.P.)は、霊性を次のように定義している。「霊性とは現存である。」(“Spirituality is real presence.”)(1) そして「私が自分自身に在ること。それ自体が聖なるもの(the Holy)を示している」と述べている。この霊性理解は霊性の世界と現実世界を結びつけるものとしてとても示唆に富んでいる。

  社会問題にどのようにコミットするかはキリスト者に問われている課題であり、かつ信仰を持つ者として、社会に神の場からアプローチしようとするなら、霊性の次元を欠かすことができない。その際、霊性を「現存」と理解することは非常に意味がある。霊性を真に生きようとするなら、自分自身と世界、社会に対して現存することなしには霊性はありえないことになり、同時にご自身において既に世界に現存しておられる神に出会う場も、世界のただ中をおいて他にはない。

  霊性を生きるとは、決してこの世から退いてただ神への観想の世界にふけるのでもなく、現実世界から逃避することでもない。社会の問題をイエスの伝えた「神の国」という福音の場において信仰の立場から解決を図っていこうとするなら、霊性の次元なしに解決は不可能である。真正の霊性は社会のただ中で神を見出していく道である。それは、たとえ「神の国」について神学的、聖書学的に理解していたとしても、「神の国はあなたがたのただ中にある」(ルカ17:21)とイエスの言った「神の国」に自ら霊性の次元で目覚めていないかぎり、真の解決は図っていけないということである。

アガペといつくしみに目覚める
  では、「神の国」に目覚めて生きるとはどのようなことであろうか。それはどの人にも分け隔てなく及んでいる神の無条件の愛、すなわちいつくしみに心の奥底で響いて、エゴを越えて、無私の愛であるアガペを生きる者となることである。そこには、アガペを通して自分自身を存在肯定し、そこから他者へのアガペを生きるというありかたがなければならない。

  このようなアガペに目覚めて生きるとは、心の奥底に働く神の霊に目覚めるということである。教皇フランシスコは『いつくしみの特別聖年公布の大勅書』の中で、神のアガペをいつくしみとして表現し、それは抽象的な概念ではなく「実に『はらわたがちぎれるほどの』愛ということです」(6)と述べている。社会問題の解決に正義の観点は欠かせないが、それだけでは律法主義的な見方に捉われてしまいかねない。この点について教皇は、「正義とは神の意思に信頼してゆだねることであると理解されている」(20)と述べ、「救いをもたらすのは律法の遵守ではなく、…死と復活を通して救いをもたらし、わたしたちを義とするいつくしみを与えてくださったイエス・キリストへの信仰です」(20)と述べることで、イエス・キリストの中にいつくしみの本質を見出し、そこから正義を紡ぎだす大切さを訴えている。

  この世で苦しみを抱え重荷を負わされている一人ひとりの人、「もっとも小さなもの」にキリストがおられることを認め、そこに既にいつくしみが届いていることを知った上で、現実的な問題の解決、正義の行使を図っていくことが必要となる。

アガペを育むヴィパッサナー瞑想
  いつくしみを根源に据えるとは、アガペを根源に据えることであり、それはアガペそのもの(「神は愛である」(Ⅰヨハネ4:16))である神のみ心から社会を見ていくということである。そのアガペとは「存在の無条件の肯定」である。それを各自が心の奥底に育むことが霊性であり、現存していくとは自分の偏ったものの見方や考え方を絶えず越えて、「存在の無条件の肯定」から現実に向き合っていくことである。

  このような霊性の開発に、上座部仏教のヴィパッサナー瞑想が有効であると思っている。ヴィパッサナー瞑想は「今、ここをあるがままに気づく」瞑想であり、より具体的には「今、この瞬間の感覚、感情、思考に価値判断を入れることなくあるがままに気づく」ことである。これは座瞑想が基本となるが、日常の活動、仕事のただ中でも用いることができる。

  例えば、歩いていて足が机の角にあたって「痛い!」と叫んで、自分と痛みを一つにしてしまうことがある。このような時、この瞑想では意識を切り替えて「足に痛みがある」と気づくようにし、「痛み」を感覚現象としてのみ捉え、「痛み」に善し悪しの価値判断をしない。同じように、相手の一言で怒りが湧いてきたとき、「今、怒りが湧いてきている」と気づいて、怒りと自分を切り離し、「怒り」を価値判断しない。またふと「自分は何をやってもダメだ」と思ったとき、考えに取り込まれないように心を切り替えて、「今、『自分は何をやってもダメだ』と思った」とただ気づくようにする。

  こうすることで、その都度、感覚、感情、思考に巻き込まれない自由な自己を生きることができるようになる。また感覚、感情、思考を価値判断することなくあるがままに気づき、その存在を認めることで、意識をアガペに戻し、存在の無条件の肯定であるアガペを育むことになる。さらに、このように離脱した心を持つことで、出来事を最も客観的に見る立場に立ち、アガペの場から識別できるようになる。この気づきは、生理的感覚のレベルから、生活や仕事のただ中で具体的な存在の無条件の肯定という意識に目覚めることを可能とし、活動のただ中で観想的であるという霊性の理想を生きることを可能としてくれるのである。

  このような心の態度は、自己中心的なエゴを乗り越える力となる。自分の利害得失を中心に生き、富・地位・支配への所有欲求を持つエゴこそが社会問題の根源であり、これが個人レベルだけでなく、集団レベル、民族レベル、国家レベルで、集団エゴ、民族エゴ、国家エゴとなる時に大きな問題を引き起こすのである。

  もちろん今日の社会問題は複雑な諸要素や諸条件が絡み合う中で現れてくるのであり、人間の尊厳に基づく社会学的観点や経済的・政治的観点、歴史的観点、文化人類学的観点、心理的観点などから取り組むことなしにふさわしい解決を生むことはできないが、それらを動員しても、最終的に霊性次元でのエゴの問題が解決されないかぎり社会問題の真の解決はありえない。ということは、個人の霊的回心が欠かせないことになる。

  これは簡単な問題ではないが、個人の霊性開発に取り組みながら国家体制の変更に民主的、非暴力的に成功した稀有な例としてミャンマーを紹介し、参考としていただきたい。

ミャンマーの民主化運動を支えた瞑想
  ヴィパッサナー瞑想は南伝仏教由来の瞑想法であるが、その中心地の一つがミャンマーである。このミャンマーでは仏教が伝来して以降、ヴィパッサナー瞑想が行われてきた。

  昨年秋、ミャンマーの総選挙でアウンサン・スーチー氏の率いる国民民主連盟が高い得票率を得て、長年軍事政権下にあったミャンマーの政治体制が、この春から民主主義的な政権に変わる。
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  アウンサン・スーチー氏は長い間、民主化運動の闘士として非暴力主義を貫き、ミャンマーのために働いてきた人である。実はスーチー氏の側近の多くがヴィパッサナー瞑想を体験している。側近の一人であるウー・ウィンティンは、何度も投獄されて拷問を受けた人である。逮捕され、眠らされず、頭に麻袋をかぶせられて殴り続けられるという苦しみの中で、民主化運動から手を引くように迫られたとき、ウー・ウィンティンはそれを拒否して「お前のためだ。自由というのはお前のことでもあるんだよ」と叫んで民主化運動に固く留まり続けた。(2)

  彼は憎しみや怒りに支配されそうになる心を離脱させるすべを、瞑想を通して学んでいたのである。彼は看守にいつくしみさえ感じるようになり、「自由はそれを失う恐れよりもずっと深いところにある」ことを学んだと語っている。相手に対する怒りや憎しみから心を自由にしてこそ、私たちは本当の平和を紡ぎだせる。ミャンマーの民主化運動は長期にわたったが、非暴力主義に忍耐強く取り組み、現実のものとしていった素晴らしい例といえる。

  社会問題の根源的解決のために、エゴを突破する霊性がなくてはならず、それを可能とするものの一つとして、意識の根源からアガペを育むヴィパッサナー瞑想に、キリスト者の立場から今後一層着目していきたい。

《注》
(1) Carla Mae Streeter, OP, “Foundations of Spirituality: The Human and the Holy; A Systematic Approach” (Liturgical Press, 2012)
(2) アラン・クレメンツ『ダルマ・ライフ-日々の生活に“自由”を見つける方法』(春秋社、2009)

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