社会司牧通信 No 96  2000/6/15
私が出会ったイエズス会士-東ティモールとの連帯を通して
 どんな連帯活動も与えるより受けるものの方がはるかに多いのが常である。東ティモールとの関わりも私にとって恵みに次ぐ恵みを頂く場であった。その場に何人かのイエズス会士がおられたことは、これまた大きな恵みであった。
●フィロメノ・ジャコブ神父
 去る4月、9年ぶりに東ティモールを訪問した。吹き荒れた暴力の嵐の後の痛ましさと同時に獲得した自由の喜びに湧く東ティモールであった。カーラジオから懐かしい声が流れてくる。『東ティモール民族抵抗評議会』と教会双方の中で教育担当をしておられるフィロメノ・ジャコブ神父である。テトゥン語のため内容は分からないが、神父が東ティモール再建のキー・パーソンの一人であることを物語るものであった。
 フィロメノ神父との出会いは1988年に遡る。東ティモールが部分開放される1年前のことで、一般の外国人の入国は極めて稀であったが、八方手を尽くして奇跡的に入ることができた。ディリ空港に着いた私は真っ先にラハネのイエズス会神学院を訪れた。イエズス会の神父たちの中に民衆と闘いを共にしている方々がおられることは世界の連帯グループの間で良く知られていた。突然現われた日本人修道女に驚かれたフィロメノ神父だったが、私の訪問の目的が人権状況の調査だと知ると、電光石火、ジープを手配。国の数ヵ所を案内してくださった。
ヴィケケ教会では夜、神父の司祭叙階を祝う集いがあり、子供たちがかわいい声で「パドレ・ジャコブ、私たちと一緒に自由のために闘ってください」と歌って拍手喝采を受けていた。その直後のことである。軍を恐れた司会者がインドネシア語で司会を始めた。フィロメノ神父は烈火のごとく怒り、「テトゥン語に!テトゥン語に変えなさい!」と司会者に命令された。正義のためにはわが身に及ぶ危険を顧みない若い司祭の祖国愛の溢れに私は深く感動した。
 この方との出会いが、その後の私の連帯活動にとって決定的なものとなった。


●ジョアン・フェルゲイラス神父
 東ティモールの宣教師の中にインドネシア寄りの人々が多かった中で、フェルゲイラス神父は民衆の側に立ち尽くされた数少ない外国人聖職者の一人である。霊的指導を専門とされるイエズス会士の典型のような風貌の方で、この方の前に立つと私は自然に背筋が伸びている。24年間苦悶し続けた東ティモール人にとって、この神父がいかなる存在であったかを先ごろの東ティモール訪問で再確認した。
 5月のある日、元政治囚のフランシスコ・ミランダ・ブランコさん宅を訪問した。40歳半ばの精悍な男性である。彼は、東ティモールの解放闘争が武力中心から国際世論形成に移行した時期に地下活動家として闘争を担った一人で、そのため9年間獄中にあって死の苦しみを味わった。「自由のための苦しみのシンボルである十字架・獄中にあってパウロが書いた聖書の言葉・いつどんな時にも唱えられ聖母にやさしく力づけて頂くロザリオ」この三つを教えてくださったのがフェルゲイラス神父だった、神父なしに闘争を続けることはできなかった、と言う。度々彼ら政治囚を獄中に見舞う。フェルゲイラス神父の表情のえもいえぬ霊的深さ。それは、この“キリストたち”の霊的同伴者にして初めて可能な深さではないかと思う。
●洗礼者ヨハネ・林尚志神父
 日本で東ティモール連帯活動をしておられる林神父との出会いはある年の霊操の時である。私はどこに行っても何をしていても東ティモール人の苦しみのことで頭が一杯。霊操だからといって、それをどけて…ということは不可能に近く、個人面接でついにそれが出てしまった。「東ティモールでキリストの苦しみに特別な仕方で与っておられるイエズス会士がいます」とか何とか申し上げたような記憶がある。長年月、様々な人権活動をしてこられた神父によくぞそのようなことを言えたもの、と今では赤面の限りであるが、これが多分、林神父が東ティモールのイエズス会神父たちのことを知られたきっかけであると思う。こうして、その後、祈りや直接の訪問で東ティモールの兄弟たちとつながりを深めておられることを神父から折に触れて伺うことになり、“信仰への奉仕と正義の推進”に賭けるイエズス会士たちの力の源が深い兄弟愛にあることを今さらながらかいま見させて頂く思いでいる。
【編集後記】
下関便りのピンチヒッターに、中村さんが興味深い原稿を寄せてくださいました。次号の発行はベトナム旅行のため少し遅れて9月はじめになります。
(柴田)