チャオ(こんにちは)ベトナム -ジャパ・ベトナムの10年-
 ジャパ・ベトナム(JAPA VIETNAM=Japanese group of Private Assistance to VIETNAM/日本ベトナム民間支援グループ)という、会員300人の市民団体があります。イエズス会社会司牧センターに事務局を置いて、ベトナム市民による草の根自立プロジェクトを支援するジャパ・ベトナムの活動は、今年で10年目を迎えます。10年間に約30ヶ所、総額3,500万円を支援してきました。年間予算300万円あまりの小さなNGOのささやかな歴史をご紹介します。
それは天ぷらから始まった

 ベトナム、ホーチミン市郊外のクチという農村に、ベトナム戦争後に修道者が拓いた集団農場がありました。1990年5月、この農場で二人の「日本人」が出会いました。ジャパ・ベトナムの創設者の二人、石本暁美と安藤勇です。
 石本暁美は写真家として1989年に、日本のユネスコアジア文化センター主催のベトナム視察旅行に同行して、初めてベトナムを訪れました。特に中部の古都フエ、ホイアンに強く惹かれた石本は、翌90年4月に再び、単身でベトナムを訪れました。ホーチミン市を拠点に各地へ撮影に出かけていた石本は、クチ農場がすっかり気に入り、度々訪れていました。ある時、石本が皆に天ぷらを振る舞うことになったのですが、小麦粉が手に入らず片栗粉で間に合わせることにしました。ところが当日、農場に日本からお客さんが来ると聞き、「片栗粉を使った天ぷらでは格好がつかない」とあせってしまいました。その「日本人」こそ、安藤勇でした。
ベトナムの絵画1  安藤はベトナム戦争中の1971年、サイゴンでの会議に出席するために初めてベトナムを訪れました。73年には、当時所長をしていた上智大学アジア関係研究室の主催する「アジア交流ワークショップ」で、二十数名の参加者と共に再びベトナムを訪れました。このワークショップ参加者の中から、「戦禍にあえぐベトナムの復興に協力しよう」という声があがり、翌74年に技術者6人を派遣して電気工事とオートバイ整備の技術講習を行いました。77名が受講した講習は、戦局が激化して1回限りで終わってしまいました。
Page - 1

 1975年のベトナム解放後、インドシナ半島からの難民脱出が大きな問題となりました。1980年にはJRS(イエズス会難民サービス)が設立されて、タイを拠点にインドシナ難民の支援にあたりました。安藤も、日本に来たインドシナ難民・流民の支援に奔走しました(このころ、スペイン出身の安藤は、日本国籍をとりました)。難民脱出が一段落してきた89年、一人のイエズス会員がベトナムに難民帰還のための調査に出かけました。同年12月に彼から手紙を受け取った安藤は、ベトナム国内に自立をめざす草の根の試みが生まれていると知り、翌90年はじめから日本国内で募金を呼びかけはじめました。5月にクチで石本と会ったのは、その支援金を持ってベトナムを訪れたときだったのです。
一粒の麦が地に落ちて

 ベトナム滞在中から体調を崩していた石本は、帰国後「大腸ガン」の診断を受け、92年1月末に入院して、手術を受けました。けれども、3月はじめに退院するとすぐに、痛み止めの薬を使いながら、持ち帰ったプロジェクトを実現するために働きつづけました。5月12日に再入院した石本は、92年5月27日、51歳で亡くなりました。
わずか3年の間にベトナムの自然と人を愛しつくした石本は、ベトナムと日本で出会った多くの人々に強烈な印象を残して去っていったのです。私たちは、ご遺族から寄付された70万円をもとに「暁美基金」をスタートさせ、彼女が最後まで気にかけていたカオバン省立病院の医療プロジェクトを支援していくことにしました。

ベトナムの絵画2

Page - 2

 こうして、石本なきあと、ジャパ・ベトナムは安藤を中心にボランティアの手で運営されていくことになりました。とはいえ、みんな素人。プロジェクトの管理から、申請の受付・審査、会員名簿や会計記録の整理、寄付集めに至るまで、試行錯誤でやってきました。なかでも、増え続ける申請額を前に、資金集めが最大の課題でした。最初の頃はオーストラリアやドイツのイエズス会、カリタス・オーストラリア(カトリックの国際援助機関)などの支援を得ました。また、91年からは国際婦人福祉協会(ILBS)という日本のグループから毎年、助成いただいています。
 そのILBSから最初の助成金を受けたときのこと。支援するはずだったクチのオートバイ整備実習施設に政府の建設許可がおりず、助成金を返上しなければなりませんでした。今から思うと恥ずかしい話ですが、ILBSの皆さんからは「なんと正直なことでしょう」とお誉めの言葉をいただきました。ともかくも、ジャパ・ベトナムはこうして組織として少しずつ確立されてきました。
みんなで重荷を分け合って

 さて、93年以降、ジャパ・ベトナムは年1回のベトナム支援先訪問ツアーとその報告会、年2回の会報発行を中心に、こつこつと募金活動を積み重ねてきました。支援先は、当初はホーチミン市周辺だけでしたが、今では北は中越国境のカオバン省から、ハノイ南のゲーアン省、
カンボジア国境沿いのビンフック省、ホーチミン東のビントゥアン省、メコン・デルタのソックチャン省まで、のべ10省に広がりました。 支援の内容も、道路・橋・井戸づくりからはじまって、学校や診療所の建設、農園や養魚池や養豚、山岳民族やハンセン病コロニーの教育支援、ストリート・チルドレンやHIV/AIDS患者のケア、車いすづくりや母子保健教育のスタッフ養成と、実に多様になってきました。
 こうした支援活動を支えるボランティアも多様です。会報の編集を一手に引き受けながら、「私は絶対にベトナムに行かない。リズムが合わないから」といっていたTさん。93年以来5年連続でツアーに参加し、「北海道ジャパ・ベトナム」を旗揚げしてオリジナル絵はがきをつくったり、ベトナムの女性写真家を日本に呼んで作品展を開いたりと大奮闘の写真家Yさん。92年にツアーに参加してベトナムにすっかり魅せられ、翌年から5年間ベトナムに日本語教師として滞在し、ジャパ・ベトナムを現地から助けてくれたOさん。現在もホーチミンに滞在し、いつも最新のベトナム情報を教えてくれるSさん。96年以降、毎年ツアーに参加して通訳してくれるだけでなく、独自の情報網でベトナムの最新状況をアドバイスしてくれる在日ベトナム人のTさん。自宅近くの駅前で2年間、連日たった一人で街頭募金しつづけたMさん。そして、92年以来、病気で入院・手術した年も、夫を亡くした年も欠かさずツアーに参加して、いまや支援先のことなら安藤よりも詳しいHさん。のべ30人以上のボランティアがジャパ・ベトナムに関わってきました。
Page - 3

 支援要請は今も増え続けています。年間300万円の予算に対して、2倍から多い年では10倍近い額の要請が来ます。最近は、ILBSやロータリー・クラブといった国内の助成団体の他にも、ヨーロッパ連合(EU)やスペインのNGOから大口の助成がおりていますが、それでも要請のすべてに応えることは到底不可能です。あまりの無力さにくじけそうな私たちですが、元気なボランティアと、あたたかく励まして下さる支援者の皆さんに支えられて活動しつづけているのです。

ベトナムの絵画

変わる? 変わらない? ベトナム

 ジャパ・ベトナムはこのように10年間にわたってベトナムと関わってきましたが、この間、ベトナム社会は主に経済面で大きく変わってきました。他方、政治や思想など、依然として変わらない部分もたくさんあります。ジャパ・ベトナムの支援するプロジェクトは、当然、こうした社会の変化と不変化に大きく左右されます。
 第一に、1986年のドイモイ(刷新・経済開放)政策導入や、その後のアメリカによる経済制裁解除によって、ベトナムに外国資本が流れ込み、経済が急速に発展しました。ホーチミン市などの大都市で進んだこうした発展は、他方でストリート・チルドレンや売春・麻薬・HIV/AIDSの増加といった社会問題を生み出しました。ホーチミン市で活動するベトナム人Vさんからの手紙では、政府はこうした問題になかなか手が届かず、Vさんたち数少ないボランティアの肩の荷は重いようです。
Page - 4

 他方、農村では政府の財源不足のため、橋や道路、学校や診療所などのインフラ(生活基盤)整備は進んでいません。そのため、ある日本人学者が「ホーチミン市は東京並だが、一歩外に出ると第二次大戦前の生活水準。電気も来ていない山奥は江戸時代かそれ以前のような暮らしだ」と表現するような生活格差が生まれています。ジャパ・ベトナムが農村のインフラ整備を重点的に支援してきたのは、こうした事情があるからです。
 第二に、ベトナムの国際社会復帰にともなって、外国からの援助が増えてきています。日本のODAは数年前から再開されていますし、昨年ベトナムで刊行された『ベトナムNGOダイレクトリー/1999-2000』によれば、ベトナム国内で活動する国際NGOは271団体にのぼります。先に述べたような政府の財源不足のために、こうしたNGOなどの援助なしには運営が難しい学校や福祉施設も多いようです。
 しかし一方で、共産党の一党独裁は堅持されており、NGOや宗教団体の活動は、まったく自由というわけにはいきません。政府は外国NGOに登録を義務づけ、活動を規制しています。また、国内の宗教団体でさえ、今なお布教や社会活動(福祉施設や学校の運営)は制限され、ミサなどの「純粋な宗教活動」だけが許されています。ベトナムのカトリック教会は、フランス植民地時代から多くの学校や福祉施設を運営してきており、信徒の多い地域では住民をまとめてインフラ整備なども行ってきました。そのため、ジャパ・ベトナムの支援先には教会関係も多いのですが、彼らは今なお、政府との関係を慎重に保ちながら活動しています。
 仏教やキリスト教のメンバーの逮捕・拘留事件も相次いでいます。先日も、ソン・ラ省の少数民族モン族のカトリック信者が、省の役人や軍・警察関係者から、信仰を捨てるようにと脅迫されたというニュースが入っています。もちろん、外国の宗教団体は依然入国できません。そればかりか、あるベトナム政府高官は「外国のものであれ国内のものであれ、人権団体はいっさい許さない」と言い切っています(ヒューマン・ライツ・ウォッチ編『世界人権報告2000』)。
ベトナムの未来に力を

 小さな市民団体、ジャパ・ベトナムは、こうした大きなベトナム社会の変化(不変化)の中で懸命に活動してきました。迷うときもありましたが、いつも三つの原則に照らして判断してきました。それは、
  1. 最も貧しい人(共同体)、他に支援の手が届かない人(共同体)を支援する、
  2. 信頼できる責任者と顔の見える付き合いをする、
  3. 支援する私たちにとっても、支援される相手にとっても無理のない規模の支援をする-というものです。
安藤と石本の出会いと、二人のベトナムに対する情熱から始まったジャパ・ベトナムは、良くも悪くも「人間的な、あまりに人間的な」団体といえるかもしれません。ベトナムの草の根の市民に希望を託して、ジャパ・ベトナムはこれからも活動しつづけます。

4月末に会報『チャオ・ベトナム』10周年記念号が出ます。この記事は、その特集記事を参照しました。特に石本さんについての部分は、特集の小野浩美さんの記事に基づいています。ジャパ・ベトナムについてのお問いわせはセンター、柴田幸範まで。
柴田 幸範 【編集後記】
ジャパ・ベトナムも、もう10年になります。社会司牧通信も来年で100号です。 小さな組織で、よくぞ今まで続けられたものです。▲とはいえ、市民運動は企業や官僚組織とは違います。続けること自体が目的になっては、活力は失われます。新たな10年、新たな100号に向かって、リフレッシュしなくちゃ!(柴田幸範)