社会司牧通信  No.85  98/8/15
下関便り…(10)
21世紀の人類の方向を決める

太陽の昇る島・チモール(Timor Lolo Sa'e)
林 尚志(イエズス会労働教育センター)
 1990年、一人の母親が下関を訪れた。オーストラリアのダーウィンに住む東ティモール人だった。

 1975年末のインドネシア軍の侵攻で我が子を失いながら、祖国を離れて東ティモールの自由を訴える彼女の叫びと生き様に打たれた数人の下関市民から「下関・東ティモールの会」は生まれた。勿論、それ以前から、教皇の東ティモール訪問や日本のODAと、インドネシア軍の東ティモールに於ける軍事行動・人権抑圧問題は何人かの市民の心を叩いていた。
 東ティモールの子ども達への支援が下関の母親の立ち上がりのきっかけだった。1991年に一人の会員が直接東ティモールを訪れ、彼の地はもっと近づいた。そして「サンタクルスの虐殺」の悲報が多くの市民を断腸の思いに追い込んだ。心ははやれど、何が出来るのか。「水牛キャンペーン・医療支援へのカンパ・教育支援・国内への東ティモール問題の知らせ・国際的連帯行動・国内の議会対策等々」ささやかであるが絶えず試みた。

 全国的ネットワークとの共同行動は私たちの東ティモールへの関心と行動を拡げ、下関市内はもとより山口・島根県内と更に国際的な連帯の輪を拡げた。スハルト政権と日本政府の結びつきは重く、日本はインドネシアの28番目の州かという皮肉すら出る中で、なかなか見えない将来を重い思いと悔しさで見ながらも、東ティモールの中からの戦い、インドネシアの民主化の波、海外の東ティモール人と各国々の支援運動はその勢いを増していった。
  そして状況の変化は昨年からのアジア経済の危機と共に始まった。インドネシアの民主化の中で、東ティモールの若者とインドネシアの若者が連帯する姿が、壁を壊し出した。91年サンタクルスの悲劇を受けた集会で、日本に来ていたインドネシアの留学生が、自分たちの政府と軍隊はそんことはしないと怒って席を立とうとした時、拷問の傷跡のある東ティモールの青年が追いかけ、肩を叩き、将来を一緒に創って行こうと、インドネシア語で話しかけたのを見たとき、新しい希望を感じた。そして今年の10月、ここ下関の集会の中で、東ティモールの若者とインドネシアの若者が、インドネシア政府のやり方、軍隊の態度や行動には反対するが、自分たちはお互いに人間・隣人として尊敬して将来を創って行こうと握手したとき、一人の市民がこの握手の現場を見て、「下関・東ティモールの会」の活動を続けてきて本当に良かったと涙ぐみつつ感動を言葉にしていた。この地方都市で確認された事は、世界の各地で湧き出し、21世紀の奔流となるに違いない。
 100年以上前から始まった、日本の韓国への侵略は、その間違いがはっきり認められ謝罪と賠償が行われるまで、前向きの新しい未来は始まらない。1895年に「下関条約」が結ばれ、韓国併合の出発の地となった下関は、その100年の経験からも、段階的であっても東ティモールの自決権の行使を支援し続ける。様々な力関係、経済的利害関係にもかかわらず、この東ティモールの問題は、21世紀の人類の良心の方向を決定する一つの解決の急がれる重大な課題である。

<編集後記>

 やっと電子メールを使い始めました。コンピュータは決して嫌いではないのですが、先進の情報通信というと、何か情報に追いまくられるようで敬遠していたのです。
▲でも、使ってみると、やはり便利です。速い、情報量が多い、データを利用しやすいのはもちろんですが、コンピュータ通信独特の特徴でしょうか、打ち解けた雰囲気でやりとりできるのです。いわば「地球規模のおしゃべり」のような感じです。
▲上の林さんの記事ではないですが、市民運動というものは、えてして人と人との出会い、おしゃべりの中から生まれてきます。電子メールは、そのおしゃべりの強い味方なのかもしれません(ちなみに林さんの原稿も電子メールで送られてきました) 
 御意見お待ちしています!       (柴田 幸範)