社会司牧通信 __ No 85__ 98/8/15
   環境
環境問題とキリスト者の霊性

瀬本正之(イエズス会)
はじめに

今回「環境問題とキリスト者の霊性」というタイトルで紙面をけがさせていただくことになりました。現在、上智大学・人間学研究室の15人のスタッフの一人として、人間学や哲学(認識論)それに環境倫理などを担当しています。そのお蔭もあって、現代を歩むカトリック教会に属する司祭の一人である私の心の中にも、環境問題を自分の自由と責任にかかわる問題として受け止めなくては、という想いが徐々に育ってきました。

 私の場合、環境問題が自分事だと思えるようになったのはここ7、8年のことです。環境問題に限らず、問題を問題としてきちんと受け止めた人の生活は外面も内面も変わっていくと言います。私もそうでした。割り箸の使い捨てが気になって自分の箸を携帯するようになりました。紙に関しては、使用量の多さが気に障って裏紙を利用し、漂白の不気味さに気が滅入ってわら半紙に帰りました。大好きなビールもアルミ缶入りだと気が引けてそれほど美味しく感じません。
ゴミ出しの日や買い物の度に発泡トレイの嵩の高さで気重になり、エレベータに乗ればドアの開閉ボタンをすぐに押してしまう癖が気にかかるこの頃です。勿論、原子力や有害化学物質に頼らなくて済む社会を心底望み、心身ともに気持ちよい息がつける世界を目指して何かをしたいと強く願うようにもなりました。

 何と大変な、何と「気を遣う」生活でしょう。私のように「神経質」ぎみの人には、喜びの無い信仰生活や不健全な霊的生活への落とし穴になるから早めに足を洗いなさい、と忠告してくれる人が出てきそうです。でも、「霊的」に危険だからと言って、この「実際生活上」の課題を無視するわけにはいかないとも思うのです。

キリスト者固有の取り組み?

 私たちキリスト者が、ヒトという生物種として他の生命と共にこの地球に末永く住み続けるように配慮すべき「地球人」であること、
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そして、この歴史世界を形成し人類全体の運命に関して皆で責任を分担すべき「世界市民」であることは自明です。では、その地球人としてまた世界市民として振る舞うことの他に何かさらに特別なことを私たちキリスト者はしなければならないのでしょうか。キリスト者でない人々と協力していけばそれで充分なのではないでしょうか。キリスト者だからどうのこうのと言うと、却って、人々の熱心さを損なったり亀裂を生じさせたりして、邪魔をすることにならないでしょうか。

 そうかも知れません。そして、そのような危険は避けなければなりません。でも、キリスト者であってこそできる貢献もあるのではないでしょうか。(1)責任の明確さ、(2)ヴィジョンの包括性、(3)取り組みの地道さ、の3点でお役に立てそうだ、と私は思うのです。

神から問われる責任

 農業問題にかかわる人々の責任感は大したものです。生命圏全体を視野に入れ、限りある地球を分かち合う同世代全体の幸福を気遣い、将来諸世代の生活基盤全般に思いを馳せるのですから。
この責任範囲の広がりに私たちキリスト者が加えうるものがあるのでしょうか。それは、「誰について、何に関する、どれほどの、いかなる根拠に基づく」責任といった観点に、「誰から問われる」あるいは「誰の目の前で取るべき」責任なのか、という問いを加えることです。「天地の主」を父と呼ぶイエスをキリストと信じる私たちにとって明らかなこの一事-創造主の前での責任-は、環境問題にかかわる責任を担う上で欠かせない揺るぎなき決意を支える否定し難い客観性を与えてくれることでしょう。

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 このことは、ともすれば私事としてのみ扱ってしまいがちのあらゆる罪を、被造界という公の証人の前に引き出し、「創造主への侮辱」という名の下に裁き直す作業をも含んでいます。このように、創造主である神と被造界を浚別し、(見えるものとなられた神であるキリストに象(かたど)られるよう招かれた)人間と他の被造物との間に明確な一線を画するからこそ却って為しうる貢献もあるわけです。

 但し、このような固有の視点を本来の意味で正しく活かしていくためには神学的な見直しが欠かせないということも言い添えなくてはなりません。創造の業にこめられた創造主の本意を探り直すことやキリストにおける人間の救いを被造界全体という脈絡の中で再定義し直すことなどが求められてくるということです。そのためには、創造主である神との絆をしっかりと保ち続けながら、新たな心で聖書や伝承を味わい直し、環境問題との取り組みへの連帯を鼓舞するような信仰理解を育てる努力を借しんではなりません。すでに、キリスト教の神学者だけでなく、聖書の民の多くの仲間がその道を歩き始めていることを思わせる世界中の兆しは私たちにとって励ましであり挑戦です。
キリスト教は環境問題の元凶?

 キリスト教はしばしば環境問題の元凶という汚名を着せられます。だからでしょうか、自分たちの伝統の中には環境問題と現実的に取り組むための拠り所となるような事例やモデルやヴィジョンが皆無だ、と思い込んでいるキリスト者もいるようです。著名な学者ですら、安易な「西洋」対「東洋」図式を前提にした善玉悪玉議論を持て囃(はや)す傾きのあるこの国では、キリスト者に自信と誇りを持って固有の思想を形成するよう期待するのは実際上無理な要求になるのかも知れません。

 ところで、私たちがそのような汚名をいただく理由は2つあるようです。一つには、環境に過大な負担をかけるまで人間活動を急激に膨張させてきた産業革命を可能にした近代科学技術が、自然を神聖視せず客体視するキリスト教ヨーロッパにだけ誕生したという歴史的事実が引き合いに出されます。簡単に言うと、環境問題を生じさせた近代科学技術の産みの親こそキリスト教だ、となるでしょう。
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もう一つは、キリスト教の言う「自然と人間の関係」は人間による自然の搾取を正当化する一方的な支配関係・従属関係であり、それは創世記の「産めよ。増えよ。地に満ちて、地を従わせよ。…支配せよ。」という神からの命令に如実に現れているという論旨です。聖書の「地の支配」を真(ま)に受けなければこれほどまでの「自然の搾取」は生じなかったのに、といったところでしょうか。

神の執事、神の愛し子仲間としての人間

 それほど単純明快ではないにしろ、近代科学技術とキリスト教自然観の関係史や「地の支配」命令の影響史を全般的に振り返る重要性は否定すべくもありません。長い教会史の中で(主に修道生活において)見える形を取ってきた「神・自然・人間」の関係モデルの研究は急務です。雑な見方しかできない私でも、環境問題と取り組むための包括的なヴィジョンが幾つか隠されているように思えるのですから。
聖書が開き示してくれる包括的展望の代表は、何と言っても、「被造界の管理を委ねられた『神の執事』としての人間」という神・自然・人間モデルでしょう。そこでは、人間の技術は神の心に叶う管理への奉仕に繋がらねばならず、「地の支配」は創造主の「被造界への心遣い」をできるかぎり忠実に写し出す「地の世話」でなければなりません。中世の農業を豊かにしたと言われる修道院における生活の規模やリズムそして何よりも自然との調和ある絆を描き出してくれる研究者がいたらなあ、とよく思うこの頃です。

 20年ほど前に「環境保護の活動をする人々の保護の聖人」と宣言されたアシジの聖フランシスコの霊性も素晴らしいモデルを提供してくれます。勝手ながら私は、この聖人に由来する包括的展望を「神の愛し子仲間」モデルと呼んでいます。神の愛し子である被造物の仲間として創られ、神の愛し子たちの長子キリストヘと象(かたど)られていく人間の幸いを生き抜いた聖フランシスコ。
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彼が、人間を自然の中のもっと謙虚な位置に据え直そうと望む現代人の心を魅了して止まないのには十分な理由があるのです。

 このように環境問題に取り組むキリスト教的な態度の特徴の一つは包括性です。神と自然と人間を包み込む大安息が訪れるよう願いつつ環境問題と取り組むのがキリスト者なのでしょう。「創造主である神とともに生きる平和、創造されたすべてのものとともに生きる平和」と題された1990年世界平和の日教皇メッセージにもこのようなキリスト者らしい取り組みの心髄が語られています。一度はじっくり味わってみてください。

終末の希望に裏打ちされた地道さ

 最後に、逃げ隠れなき責任の受諾と広大無辺な理想の追求に伴うべき「不屈の希望」を忘れるわけにはいきません。私たちキリスト者に世の呪縛からの解放を待ち望ませるキリスト教的な希望はよりよき世界を目指して諦めることなく歩み続ける「地道さ」の源ともなります。
 責任感を「洞察逃避」から、理想主義を「現実逃避」から守ってくれるのも、終末の希望に裏打ちされたこの地道さではないでしょうか。近頃よく耳にする「胡散(うさん)臭い終末論」は、悲劇的結末の可能性をも含む現実認識の厳格さと絶対未来たる神の愛の勝利を疑い得ない帰依の借しみなさとの絶妙なバランスを欠いているのが特徴です。このバランスこそ、二千年の歴史の中で終末の希望を批判的に鍛え上げてきたキリスト教が、本物の終末論に飢え渇く現代に提供しうる貴重な贈り物だ、と私は確信しています。
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