改憲問題とカトリック

光延 一郎 SJ
イエズス会社会司牧センター所長

  突然の総選挙であったが、結局、ほぼ現状維持を果たした現政権は、9条改定を最終目標とする改憲の動きを本格化させようとしているようである。

  折しも日韓カトリック司教団は、北朝鮮の核兵器開発やミサイルの脅威を言いつのり、徹底して米国との共同による「圧力」攻勢を強める日本政府とは異なり、平和声明「北東アジアの平和を願って」(2017年11月16日)を発表した。そこでは「すべての人は、軍拡競争も核兵器による抑止も確実でほんとうの平和を保障するのではなく、かえって戦争の危険性を増大させるということを深く認識し、『真の平和は相互の信頼の上にしか構築することはできないという原則』(教皇ヨハネ二十三世)に立つべきだとわたしたちは主張します」と言われる。また「軍備増強に莫大な富が費やされることは貧しい人々を耐えがたいほどに痛めつけ、環境をますます悪化させていることも容認できない」し、さらに「すべての人、とくに国家元首および軍の指導者は、神と全人類の前において世界の平和に対する重大な責任をたえず考慮し、平和に向けた対話のためにあらゆる努力を続けるべきです」と訴える。

  これに先立ち、バチカンでは「核兵器のない世界と統合的軍縮への展望」との国際会議が開催され(2017年11月10~11日)、そこでフランシスコ教皇は次のように発言した。「核兵器は見せかけの安全保障を生み出すだけです。…核兵器の使用による破壊的な人道的・環境的な影響を心から懸念します。…核兵器の偶発的爆発の危険性を考慮すれば、核兵器の使用と威嚇のみならず、その保有そのものも断固として非難されなければなりません。この点で極めて重要なのは、広島と長崎の被爆者、ならびに核実験の被害者の証言です。彼らの預言的な声が、次世代への警告として役立つよう願っています」。バチカン市国は、日本政府が無視している国連核兵器禁止条約にも9月20日に最初に署名を果たしている。

  こうしたカトリック教会のアピールのもとには、2017年元旦、第50回「世界平和の日」に発表された教皇メッセージが響いているだろう。「争いにまみれた状況の中で、『(他者の)尊厳への深い敬意』を抱き、積極的な非暴力に基づく生き方を実践しましょう。…地域的、日常的な局面から国際的な秩序に至るまで、非暴力がわたしたちの決断、わたしたちの人間関係、わたしたちの活動、そしてあらゆる種類の政治の特徴となりますように」(1項)。「今、イエスの真の弟子であることは、非暴力というイエスの提案を受け入れることでもあります」(3項)。「わたしたちの家庭には、爆弾や銃は必要ありません。平和のために破壊すべきではありません。ただ一緒にいて、互いに愛し合ってください。…そうすれば世界のあらゆる悪に打ち勝つことができます」(4項)。

  以上、カトリック教会による最近の「積極的平和」諸発言は、1981年のヨハネ・パウロ二世教皇『広島・平和アピール』以来、これへの応答に務めてきた日本カトリック司教団の意志表明と軌を一にしていると言えよう。たとえば2005年『戦後60年平和メッセージ「非暴力による平和への道」―今こそ預言者としての役割を』では、司教団は「非暴力」の対話による平和を呼びかけ「この非暴力の精神は憲法第9条の中で、国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄、および戦力の不保持という形で掲げられています。60年にわたって戦争で誰も殺さず、誰も殺されなかったという日本における歴史的事実はわたしたちの誇りとするところではないでしょうか。暴力の連鎖から抜け出せない現代にあって、この非暴力の精神と実践を積極的に広め、世界の人々と共有することにおいて新しい連帯を築き、平和のために力を尽くしていきましょう」と述べる。
 

  そんな中、この秋、日本カトリック中央協議会・正義と平和協議会に時限的に設置された「改憲対策部会」が、教会内外の人々への啓発のために連続講演会を開催した。

  第1回目は同志社大学の浜矩子氏が、経済学の立場から「闇を切り裂く光~グローバル時代を照らす日本国憲法~」と題して講演された。氏は日本国憲法前文の「日本国民は、…諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、…平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、…いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」に注目し、それは、これからの日本経済が「市場占有率」としてのシェアではなく、相互に「分かち合う」シェアをめざすグローバル経済に与るべきだとの氏の持論と合致すると話された。

  第2回目は上智大学の島薗進氏が、宗教学の立場から「日本国憲法と平和といのちの尊さ」と題して、戦前の国家神道体制がいかに個人を無視し、絶対的な国家システムの中に人間を押し込む不自由なものだったかについて話された。

  さらに第3回目は、上智大学の中野晃一氏が「人間の尊厳を擁護する政治と憲法」との演題で話された。氏はそこで、政治学の立場からすれば憲法とその解釈は常にせめぎ合う関係にあるが、現政権が行う「憲法条文」解釈の前提となる「憲法体制」を分断せんとの工作は、人間の尊厳や人権までも崩すものであり、その意味で非立憲的でタガが外れていると指摘された。

  憲法とは、そもそも国家が人々の権利を侵害してきた歴史に対する課題として、国家の責務を定める実定法ではあるが、その基礎として人権や人間の尊厳への立場表明を含まざるを得ない。その点で、政治倫理の規範性を語る国連『世界人権宣言』など、国際社会が求める人類の共通善について崇高な理念の共有をめざす現代の状況とも不可分の関係にある。そして、その意味で同様に人類の普遍的理想を語るキリスト教の展望とも重なる。

  聖書の平和「シャローム」は、ギリシア語の「エイレーネー」やラテン語の「パックス」(闘争の不在・中断、休戦)とは異なり、「建物を完成する」という意味から、祝福・休息・光栄・富・生命を享受する「満ち足りて円満な状態」への推移を言い表す。「平和を欲するなら、戦争の備えをせよ」ならば「抑止力」が結論とならざるを得ないだろうが、「シャローム」は、現状(status quo)を変えずに葛藤を鎮めるだけの平和ではなく、未来の新しい可能性に開かれた終末論的な展望である。

  むろん「平和を実現する人々は幸いである」など、山上の説教の真福八端が見ている人間の状況は逆説的だ。この人々はまったくの困窮にある。しかしそこにおいて来るべき神の国に心開かれているがゆえに「幸い」なのだといわれる。神の恵みの全き受け手となり、その恵みに貫かれる生き方をなしうるがゆえに「幸い」なのである。

  聖書の歴史観には始まりがあり、歴史は目的に向かって進む。常に新しい事態が生じるこの歴史には葛藤が不可欠である。しかし信仰者は、困難との格闘を通してシャロームという全体性に向かう。神への回心、神と人間への信頼において、戦争に代わる平和、恐れに代わる安らぎ、不信に代わる信頼、抑止に代わる自由を「平和は四つの柱に支えられている。それは、真理、自由、正義、愛」(『地上の平和』)において探求するキリスト者の召命から改憲問題を考えたいものである。

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