『現代世界憲章』50年と日本の今

光延 一郎 SJ
イエズス会社会司牧センター所長

第二バチカン公会議の柱

聖ヨハネ23世教皇のイニシアティブで始まった第二バチカン公会議は、①教会の一致(エキュメニズム)、②平和(二度と戦争をしない)、③カトリック教会が自らを開き「世界」とかかわることを根本動機としました。前教皇を引き継いだ福者パウロ6世は1963年に、公会議の目標をあらためて次の4点に定めました。①教会の本性への自覚を深める、②教会の内面を刷新する、③キリスト教の一致を促進する、④現代世界との対話を深める。

公会議の柱となる4つの憲章は、これに応じています。公会議を一本の木にたとえれば、①「幹」:「教会の基本的自覚」については『教会憲章』が担います。②「根」:「教会の内面生活」については、②-A:「教会の聖化」のために『典礼憲章』、②-B:「教会の教え」の根本である聖書をいかに読み、祈り、学び、宣べ伝えるかについて『啓示憲章』が担います。「葉・花・実」として公会議全体の総合と展望を示し、教会が世界において神の国のパン種になっていく姿を語るのが『現代世界憲章』です。

現代世界憲章、典礼憲章、教会憲章の3冊

現代世界の「切望(喜びと希望)」に応える『現代世界憲章』の特徴は、すべてを「人間とは何か?」から考える姿勢です。「人間、それこそ、われわれの説明全体の要である」(3項)とされ、そこから人格の尊厳と人権の尊重、その実りである「平和」が語られます。

日本の教会が受けとったこと

ところで、1965年10月にパウロ6世は、国連で「戦争はもうごめん、二度としない! 平和、それこそが、諸国民と人類すべての目標を導く!」と演説しました。パウロ6世は、前任者ヨハネ23世が回勅『地上の平和』で強く訴えた平和の問題に誠実に向き合いました。1967年にはバチカンに「正義と平和委員会」を設置し、またベトナム戦争が激化する1968年には、元旦を「世界平和の日」と呼び、平和メッセージを送ることを全世界のカトリック教会に知らせました。

日本のカトリック教会は、『現代世界憲章』から、平和の問題を自らの最優先課題として受けとったと思います。
そのきっかけが、戦争の惨禍を身をもって知る聖ヨハネ・パウロ2世教皇の日本訪問(1981年)と『広島平和アピール』だったでしょう。

教皇ヨハネ・パウロ二世「広島平和アピール」

「戦争は人間のしわざです。戦争は死です。…過去をふり返ることは、将来に対する責任を負うことです。…広島を考えることは、核戦争を拒否することです。広島を考えることは、平和に対して責任を取ることです。…戦争という人間が作りだす災害の前で『戦争は不可避なものでも必然でもない』ということを、我々は自らに言い聞かせ、繰り返し考えてゆかねばなりません。…イデオロギー、国家目的の差や、求めるものの食い違いは、戦争や暴力行為のほかの手段をもって解決されねばなりません。人類は、紛争や対立を平和的手段で解決するにふさわしい存在です。…今、この時点で、紛争解決の手段としての戦争は許されるべきでないという固い決意をしようではありませんか。…人類同胞に向かって軍備縮小と、すべての核兵器の破棄とを約束しようではありませんか。…自ら平和を学び、平和の教育をしようではありませんか」。

この『平和アピール』への応答として、日本の司教団は、平和や人権の問題について、積極的に発言し始めます。1981年には『平和と現代の日本カトリック教会―教皇「平和アピール」に答えて―』(司教委員会)を、1983年には司牧教書『平和への望み―日本のカトリック教会の福音的使命』を発表しました。そこでは、イエス・キリストの使信と日本国憲法の平和理念との共鳴が明確に意識されています。
戦後50年の1995年に発表された『平和への決意』司教団メッセージでは、「明日を生きるために過去を振り返る」として、日本人の戦争責任について告白しています。

「わたしたち日本の司教は、日本人としても、日本の教会の一員としても、日本が第二次世界大戦中にもたらした悲劇について、神とアジア・太平洋地域の兄弟たちにゆるしを願うものであります。わたしたちは、この戦争にかかわったものとして、アジア・太平洋地域の二千万を超える人々の死に責任をもっています。さらに、この地域の人々の生活や文化などの上に今も痛々しい傷を残していることについて深く反省します」。

さらに戦後60年の2005年にも、日本カトリック司教団は『戦後60年平和メッセージ「非暴力による平和への道」―今こそ預言者としての役割を』を発表します。この時期は、日本人の歴史認識問題、首相の靖国神社参拝、教育基本法と憲法改定について、盛んに論議された頃でした。このメッセージでは、「人間の尊厳」、「アジアの国々との和解と連帯」、「富の公正な分配と環境保全」、そして特に「非暴力」に焦点が当てられ、カトリック教会の社会教説が常に第一に語る「人間の尊厳」が、日本国憲法や世界人権宣言などと共通する、平和の前提であることが強調されています。

特別な年に

そして戦後70年に当たる今年、日本の司教団は『平和を実現する人は幸い―今こそ武力によらない平和を』メッセージを発表しました。それは、①『現代世界憲章』にならう教会として、人間のいのちと尊厳の問題に沈黙できないとします。②ヨハネ23世『地上の平和』とヨハネ・パウロ2世『広島平和アピール』に基づき、日本のカトリック教会の平和への指針と戦争放棄への決意を明確にします。③そのことが、特に日本という国と国民たちが担うべき歴史的使命だとします。④それゆえ、今回のメッセージの特徴ですが、歴史認識と集団的自衛権行使容認などと憲法9条破壊の危機、また沖縄の民意という、具体的な政局問題にも触れています。⑤そしてこうした社会の危機的状況の背景について、教皇フランシスコが強調する貧困・格差・環境問題との関連についても指摘しています。

現在、世上では、抑止力と集団的自衛権による「積極的平和主義」なるスローガンが喧伝されています。しかし平和学のヨハン・ガルトゥング氏による「積極的平和とは、貧困、抑圧、差別などの『構造的暴力』がない状態のこと」との定義を待たずとも、カトリック教会はすでにその意味を適切に語っています。

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「平和は単なる戦争の不在でもなければ、敵対する力の均衡を保持することだけでもなく、独裁的な支配から生ずるものでもない。平和を『正義のわざ』と定義することは正しく適切である(イザヤ書32・17)。人間社会の創立者である神によって、その社会の中に刻み込まれ、常により完全な正義を求めて人間が実現していかなければならない調和から生ずるのが平和なのである」(第二バチカン公会議『現代世界憲章』78項)。
「平和とは、すべての人の全人的発展の実りとして生まれるものです。そうでないものは、未来に向かうものではなく、常に、新たな紛争と種々の暴力の火種となるのです」(教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び』219項)。

「抑止論」についてもヨハネ23世はすでに、核戦争突入が危惧された「キューバ危機」を教訓として、「軍備の均衡が平和の条件であるという理解を、真の平和は相互の信頼の上にしか構築できないという原則に置き換える必要があります。わたしは、これが到達可能な目標であることを主張します」(『地上の平和』61項)と言いました。

『地上の平和』は「基礎としての『真理』、基準としての『正義』、動機としての『愛』、実行力としての『自由』」という基準を繰り返し語ります。現代社会に閉塞をもたらす「死の文明」の根底には、権力者の飽くなき欲望と、そこから波及する「恐れ」の連鎖があるのでしょう。これに対して「神は愛である。…愛には恐れがない」(ヨハネの第一の手紙4・16~18)。愛といのちの場を、この戦後70年の日本社会に開いていかねばと祈ります。

カトリック教会は環境問題のニューカマーなのか?

―教皇フランシスコの新回勅『ラウダート・シ』に寄せて―

安藤 勇 SJ
イエズス会社会司牧センタースタッフ

1993年以来、数千人の科学者と世界各国の代表者は、地球温暖化について話し合うための会議を継続して行っています。今年もまた、第21回目となる、国際共通課題である気候変動とどのように戦うかの協議がなされます。大部分の科学者は、自然災害は主に人間の活動によって引き起こされると思っています。
ですから、6月18日に教皇フランシスコが環境問題に関する回勅『ラウダート・シ』を発表したことは、さほど驚くことではありません。
実際、教皇ヨハネ・パウロ2世は1990年の「世界平和の日」メッセージの中ですでに、「全人類の責任としての生態系の危機」を強調しました。創造への配慮は、「キリスト教信仰の本質的な部分」なのです。
バチカンにおいてエコロジーの議論が始まった明らかな転換点は、4800枚のソーラーパネルがバチカンの建物に設置された、2001年のことでした。そしてまた、2008年には、ハンガリーに「バチカン気候林」がつくられました。教皇ヨハネ・パウロ2世も教皇ベネディクト16世も、環境危機に対する強い声明を出し、人間が自然に対して独裁者のように振る舞うのではなく、創造された大自然に配慮する必要があると強調しました。エコロジーは教会の中で大きな風潮となっただけでなく、21世紀の社会的、政治的な最も大きな問題の一つになりました。

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しかしながら、教皇フランシスコは重要な変化をもたらしました。現在に至るまで、環境悪化は公文書の中で、主に二次的な問題でした。けれども回勅『ラウダート・シ』の発布によって教皇フランシスコは、創造への配慮を教会生活の中心に据えた、初の教皇となりました。この文書は、13世紀の聖人、アシジの聖フランシスコの著作からインスピレーションを得ており、回勅にも多く引用されています。教皇はまた、正教会のエコ神学や、世界の18の司教協議会の公式声明も参照しています。その中には、日本を含めたアジア諸国の司教協議会も含まれています。ヨハネ・パウロ2世とベネディクト16世もまた、新回勅にはしばしば引用されます。これは、環境問題に関する教会の教義の連続性を証明しています。

この回勅は、カトリック信者だけでなく、すべての善意ある人々へ宛てられています。それには、地球温暖化を抑える決定のできる政府や企業が含まれています。教皇の言葉は、人間の活動がどれほど環境問題(気候変動、森林伐採、大気汚染、生物多様性の喪失などを含む)を生み出しているかについての分析に基づいています。私たちの地球は、愛の神である創造主の業です。地球はすべての人のための共通の家であり、金持ちや権力者のためだけのものではありません。地球は大切にされなければなりません。

それに加えて、貧しい人々は特に、環境への無責任さの結果である自然災害の被害を受けやすいので、教皇フランシスコは貧しい人々の暮らしを優先する必要性を強調しています。それはすでに出された彼の使徒的勧告『福音の喜び』と同様です。

エコロジー危機の解決策を探すカトリック教会

たとえ、教会に地球温暖化についての明確な見解がないとしても、教会は気候変動についての対話を始めなければなりません。なぜなら私たちの共通の家である地球は、深刻な荒廃に陥っているからです。希望をもって、必ず出口が見出せます。つまり私たちの歩みを向き直し、問題解決のための何かを行うことができるということです。しかし、私たちは現在、事態が極限状態に達しているしるしを見ることができます。実際のデータも専門家の結論も、変化と悪化の急速なペースを示しています。現在の世界システムは、様々な点から見ても、間違いなく持続不可能です。なぜなら、私たちが人間の活動の目的について考えることを止めたからです。「人類は、神の期待を裏切りました」。

必要なことは、先見の明があり、危機の様々な側面を扱うための新しい、統合的な、学際的な取り組みのできる政治行動です。真の変化のための戦略は、プロセスを完全に再考することを要求します。健全な政治は、この挑戦に取り組めるようになる必要があります。政治と経済には、貧困と環境悪化についてお互いを非難し合う傾向があります。政治と経済が自らの過ちを認め、共通善に向けた相互関係の形を見出せることが望まれます。

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環境教育

「エコロジー市民」を育てるには、エコロジー倫理を発展することのできる教育者、つまり連帯、責任、思いやりのある世話によって人々の成長を助けることのできる教育者が必要です。種々の法令が存在するだけでは、長い目で見れば、悪い行いを抑制するには不十分です。健全な徳を養うことによってのみ、人々は消費習慣とライフスタイルの変化に関して、エコロジーへの客観的な献身ができるようになるのです。

創造と創造主について

私たちは、人間と自然の間の相互の責任関係を訂正しなければなりません。私たちは神ではありません。地は私たちよりも前から存在し、私たちのために与えられました。ユダヤ・キリスト教思想、つまり地に対する「支配権」を人に与えるという創世記の記述に基づき(創1:28参照)、本来制御できない破壊的なものとして人を描くことにより、人が自然を際限なく搾取することを支持できるとされてきました。ところがそれは、教会が理解しているような正しい聖書解釈ではありません。私たちキリスト者が時々誤って聖書を解釈したことは事実ですが、今日、私たちは神の似姿として創造され、地に対する支配権を与えられたことにより、他の創造に対する絶対的な支配が正当化されるという概念を、きっぱりと拒絶しなければなりません。

テクノロジー対人類の進歩

人々はもはや、幸せな未来を信じることができません。科学や技術の進歩を、人類や歴史の進歩と同一視することはできません。文化の大胆な革命を推し進める必要が膨らんでいます。科学も技術も、中立ではありません。私たちはスピードを落とし、現実を異なる方法から見る必要があります。
進歩の新しいモデルを生み出すために、「グローバル開発モデル」を変化させる必要があります。そしてそれは、経済の「意味」と目的について、責任ある考察を必要とするでしょう。中途半端な方法では、単に不可避の災害を遅らせるだけです。それは、進歩についての私たちの概念を再定義する問題です。よりよい世界を残さない技術や経済の発展を、進歩とみなすことはできません。

私たちの現在のライフスタイルの反省

ライフスタイルの変化は、政治的、経済的、社会的権力をふるう人々に対して、大きな圧力を与えることができました。消費者運動が特定の商品をボイコットすることで、それを達成できます。彼らは、企業のやり方を変化させ、環境足跡と商品パターンを強制的に考慮するように成功しました。社会的圧力が企業収益に影響を及ぼすとき、企業は異なる生産方法をきちんと見つけなければなりません。このことは、消費者の社会的責任感がかなり必要であると示してくれます。
企業利益や消費主義サービスへの人為的介入は、しばしば私たちの地を豊かで美しいものとはせずに、むしろ乏しく灰色なものにしていきます。

自然と人間の堕落

人間の堕落の原因。人間環境と自然環境は、ともに悪化していきます。これは、最も傷つきやすい人々に影響を及ぼします。不平等は、個人だけでなく、国全体にも影響を及ぼします。国際関係の倫理が考慮されなければなりません。真の「エコロジー負債」が、地球の南北間に存在しています。それは環境に影響する商業的不均衡や、特定の国による長年にわたる自然資源の不相応な使用に関係しています。貧困国の対外債務は、その国をコントロールする手段となりました。けれどもなお、エコロジー負債に関するところでは、そうではありません。生物圏の最も重要な保護地のある発展途上国は、様々な方法で、自らの現在と将来を犠牲にして、豊かな国の発展のために資源を提供し続けているのです。

エコロジー回心

エコロジー危機は、深い内的回心を呼び起こします。実用主義を口実に、一部の熱心なキリスト者は、環境問題を嘲笑する傾向があります。他の人々は消極的で、習慣を変えないことを選びます。「エコロジー回心」が必要です。アシジの聖フランシスコを想い出して、私たちは創造との健全な関係が、個人の全体的な回心の一面であると理解します。そしてそれは、私たちの過ちと失敗の認識を引き起こし、心からの悔い改めと、変化への望みへと導きます。

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普遍的共同計画

相互依存関係は私たちに「共同計画を伴った一つの世界」について考えさせます。それでも、技術のすさまじい進歩をもたらした創意工夫は、世界規模の重大な環境・社会問題に効果的に取り組む方法を見つけることはできませんでした。グローバルな一致が、深い問題に向き合うためには欠かせません。個々の国の単独の活動では、解決することができないのです。このような一致は、例えば、持続可能で多角的な農業計画、再生可能で汚染の少ないエネルギーの開発、エネルギーのより効果的な使用の推奨、海洋・森林資源のよりよい管理の促進、そして皆がアクセス可能な飲み水の確保などです。
  私たちは、空気を大いに汚染する化石燃料(特に石炭や石油、ある程度にガス)に基づいた技術が、速やかに、次第に取って代わられる必要があることを知っています。政府も企業も、私たちの世界が直面している緊急の課題にきちんと反応するのが遅すぎました。工業化後の時代は歴史上、最も無責任な時代の一つとして記憶されていますが、それでもなお、21世紀初頭の人類がその重大な責任を寛大に担うために思い出されるべき、希望の根拠が存在します。世界中で、市民社会の多くの組織の努力のおかげで、エコロジー運動が目覚ましい進展を遂げました。

結論:日本の私たちに何を教えるのか

これはまた、政府と大企業の間の密接な協力関係を優先する日本にとって、主要な政治・経済方針に挑むメッセージです。技術はますます、戦争や大規模軍事防衛システム構築のために用いられます。国の工業化を確保するための原子力エネルギー使用への依存は、強く残ったままです。このように、環境の安全と人口の貧困層は、深い影響を受けるのです。

消費は景気回復の鍵として歓迎され、お金は惜しげもなくばらまかれます。市場経済の勢力は、社会悪を解決するための最良のモデルだと考えられています。このように、現在の開発モデルはほとんど完全に、経済利益重視の観点に基づいているのです。

教皇フランシスコは、環境の重大な問題に対する意見を発表し、私たちは決して「神」ではないと強調しました。私たちは自然と同じように、神によって創造されたのです。神は私たちに、自然の賜物を与えました。それは自然を世話するためであって、私たちが好き勝手に搾取するためではありません。自然資源はすべての人のためのものであって、一握りの金持ちや特別な技術力をもった人だけのものではありません。地球は私たちの共通の家であり、そこには何百万人もの貧しい人々が、希望をもてずに暮らしています。共通善と非営利は、すべての人間の経済活動の目的でなければなりません。けれども、そうした道徳的、倫理的な価値観はどれも、私たちの国の公的な政治・経済計画には存在していません。

しかしながら、『ラウダート・シ』のメッセージは、私たちの地球を救う緊急の必要性がある普遍的な環境の危機に、深い関心を寄せています。例えば、地球規模の飢えや貧困、人口の貧困層に対するケアといった問題です。これらは、一般的な日本人の多くも、重要課題だと同意するものでしょう。人々はしばしば、日本の技術製品を享受しますが、それによってより幸せになっているでしょうか?

教皇は私たちキリスト者に、エコロジー回心を求めています。それによって、消費に「NO」と言うために、私たちのライフスタイルを真に大変革していくことができます。キリスト教信仰による道徳観に基づく正確な理解と確かな分析を求める、効果的な認識が必要です。

【追悼】山田經三神父

2015年7月26日(日)、イエズス会の山田經三神父が帰天されました。享年78歳でした。
山田神父は、私たちイエズス会社会司牧センターの共同創立者でした。今から30年以上も前のことです。私たちはともに、日本カトリック正義と平和協議会との強い絆を築き、アジアを重視した新しいセンターをつくりました。

山田神父は、フィリピン・ミンダナオ島における川崎製鉄のような、日本の工場による汚染を告発した先駆者でした。
彼はラテン・アメリカの「解放の神学」を、はじめて日本語に翻訳した人でもありました。
そして、上智大学経済学部で教鞭をとっていた間は、私たち社会司牧センターと協力して、社会使徒職の活動に熱心に取り組んでいました。

彼はまだきっと、私たちのそばにいます。私たちは、山田經三神父を忘れません。

山田經三神父の著作

『教皇フランシスコ

喜びと感謝のことば』

山田經三 著、明石書店、2015年6月

亡くなる1か月前に出版された、山田神父の最後の著作です。

『教皇フランシスコ


「小さき人びと」に寄り添い、共に生きる』

山田經三 著、明石書店、2014年2月

亡くなる1か月前に出版された、山田神父の最後の著作です。

東ティモールと平和

村山 兵衛 SJ(神学生)

インドネシア占領時代(1975~2002)、東ティモールのカトリック教会は、同国の解放自治を国際社会に訴えかける重要な役割を果たしていました。ノーベル賞受賞者のカルロス・F・X・ベロ司教の提案で1990年代に始まった「クルス・ジョヴェン」(青年の十字架)という十字架を運ぶ信徒巡礼団は、東ティモールの解放と平和を切望してきた民衆の思いを携えて、当時の教皇聖ヨハネ・パウロ2世が提唱した「巡礼の聖母」像とともに、ティモール全土を毎年巡礼しています。さすがのインドネシア軍も彼らの巡礼には攻撃を控えたといいます。クルス・ジョヴェンが訪れると、村中の人が沿道に出て見物します。

今年2015年は東ティモール福音宣教500周年の節目です。とりわけ独立後の若者の信仰を育てる意向とともに、クルス・ジョヴェンは今年も、平和と信仰の促進という教会の願いを人々に訴えて全国を巡回しています――私たちが信仰に基礎づけられた平和の真価を忘れないために。


暴力の排除は平和と等価ではありません。生き残るためにエゴイストになっている自己の殻を破って、与えることによって豊かになる喜びの価値に目覚め、そばにいる他者の貧しさと苦しみに対する背負いきれない責任を分かち合い続けようと決断するとき、平和は不滅の意義を持ち始めます。

この世界が提供する平和は、敵対する利害や思想や暴力を排除して自己に満足している諸個人の全体性を形づくるだけです。一方、キリストの平和は、忘却と死のうちに葬られる罪びとをゆるし、認め、救うことによって開始しました。平和の種をまく親切な言葉、笑顔や仕草といった単純な実践が暴力、搾取、自己中心の論理との関係を絶ちます(教皇フランシスコ回勅『ラウダート・シ』230番参照)。人間の多様性が生む葛藤を否定も無視もせずに、平和の挨拶を交わし続けるという、エゴイズムの重力に逆らうこの創造的なコミットメントこそ、東ティモールでいまの自分に与えられている課題だと感じま