[書評]『アルジャーノンに花束を』【社会司牧通信153号】

 
 
 この書評で二度目の小説だ。今回はアメリカのSF(サイエンス・フィクション)小説。1966年に発表され、世界的なベストセラーとなった。その後まもなく日本語訳も出版され、私も高校時代に読んで感動したのを覚えている。今回ご紹介するのは、1999年に日本で、文庫本として新たに出版されたもの。この文庫版も、出版後の1年間だけで27刷りを重ねていることから、この小説が、いかに時代を超えて愛されている名作であるかが分かる。
 SF小説の多くは、アイディアの斬新さが売りものなので、ストーリーを紹介するのはタブーだが、この作品はそうではない。ストーリーはきわめてシンプルだ。知的障がいを持ち、パン屋で働きながら学習センターに通う青年チャーリイが、脳の手術を受けて知能が向上し、超天才となるが、手術の欠陥が明らかになって、手術以前の状態に戻ってしまうまでの11ヶ月間を、チャーリイ本人の日記の形でつづったものだ。
 この小説が面白いのは、知能が上昇するにしたがって、チャーリイの知能や記憶、対人意識が、霧が晴れるように明らかになっていく様子を、日記の文体の変化で巧みに表現しているところだ。最初の頃の日記では、漢字(日本語訳の場合)もほとんどなく、句読点もなく、昔の記憶もまるであいまいで、他人の話もまるで理解できていない。それが、次第に文章が洗練され、記憶がよみがえり、他人の言うことも理解できるようになっていく。そこで終われば、ハッピーな話だ。
 ところが、そうして周囲の世界が明らかになるにつれて、チャーリイはどんどん人を信じられなくなってゆく。仲間だと思っていたパン屋の同僚が、実は自分をバカにして、笑いものにしていたこと。家族が自分の障がいのことで争い、両親が離婚してしまったこと。自分を手術した大学教授が、崇高な使命感からではなく、自分の社会的成功のために、手術に踏み切ったこと。チャーリイがあれほど望んだ知能の向上は、世界の醜い現実をあばいてゆく。
 やがて、常人をはるかに超えた天才となり、まわりの誰もが愚かな人間にしか見えなくなるにつれて、周囲の人々はチャーリイを恐れて遠ざけるようになり、チャーリイは孤独になってゆく。せめて、学問に打ち込むことで、自分の存在価値を確認しようとするチャーリイは、自分が受けた手術の致命的な欠陥を自ら発見し、この先、自分が元の状態に戻っていくことを知って、恐怖におそわれる。必死で知能の低下と闘いながらも、チャーリイの日記の文章は次第に幼いものとなり、記憶も対人意識もあいまいに戻ってゆく。そんなドラマチックな展開を、作者は日記の文体の変化一つで表現するのだ。
 作者は日本語版への序文で、学習障がいのために学校でいじめの対象となり、チャーリイの姿を自分と重ね合わせた少女や、知能低下に対するチャーリイの恐怖を、迫り来る老いに対する恐怖と重ね合わせる初老の男性からの手紙を紹介している。人間の知的認識の能力が、その人と世界や他人との関係を、どれほど左右するか。そこが、この本が世界中でロングセラーとなった一つの理由だろう。
 だが、それ以上に、この本には、人が生きていく上での尊い秘密が隠されている。人が幸せに生きていくためには、何が必要なのか。人間の価値は、どこにあるのか。他人に真に同情するとは、どういうことか。私たちはチャーリイの苦悩を通して、たくさんの真実を学ぶ。
 タイトルの「アルジャーノン」というのは、チャーリイが受けた手術を、前もって施された、実験用のネズミの名前だ。アルジャーノンは、チャーリイより一足先に知能が上昇し、低下して、やがて死んでしまった。普通なら焼却処分されてしまうアルジャーノンの遺体を、自ら土に埋めたチャーリイは、自分の知能が低下して、アルジャーノンのことを忘れてしまっても、誰かが墓前に花束を供えてほしいと、日記の最後で頼むのだ。もしかしたら、チャーリイのこの言葉こそが、真実の同情にほかならないのではないだろうか。私がこれまで読んだ小説の中で、もっとも美しくて切ないエンディングだ。

<社会司牧センター柴田幸範>
 
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