「京浜便り(36)」 生きるための闘いが続く釜ヶ崎 【社会司牧通信153号】

阿部 慶太(フランシスコ会)
 以前、この紙面(2004年)で釜ヶ崎の変化について書いたことがありますが、あれから久しぶりにおとずれたこの街は、さらに大きく変わっていました。
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 街を歩いてみると、ドヤと呼ばれた簡易宿泊所もほとんどが福祉対象のアパートに変わり、生活保護を受け入れる場になっていて、生活保護受け入れの張り紙やステッカーが目に入りました。高齢者のケアセンターも以前に比べ、メインストリートに増えました。
 以前は、仕事をして日銭を稼いだ労働者によって、付近の商店街や飲食店が賑わったものでしたが、現在は、飲食店や商店も年金や生活保護者用のサービスをするなど、街の経済事情も変わったように感じました。
 長びく不況が続き、それとともに野宿労働者が激増し、さらに高齢化も進みました。それによって、街の様子も変化していったということになります。確かに、街を歩く高齢者は以前よりも増えたと思います。
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 1960年代から80年代にかけて、大規模な釜ヶ崎暴動があったことから、そうした映像や越冬闘争の映像がメディアで流れ、日雇い労働者の街、闘う街のイメージがありました。2008年にも暴動が起きたのですが、長くこの街に住む人によると、過去のものに比べると小規模のものだった、ということでした。
 しかし、暴動のような激しい闘いは小規模になっても、生きるというレベルでの闘いはこれから大きくなるのでは、と感じました。それは、福祉の面です。生活保護受給者が増え、大阪市の生活保護費の増大・財政難の原因となっているため、行政側は生活保護の受給のハードルを上げているようです。
 一例では、市の生活保護受給の申請者の付き添いで、手続きをサポートするNGOやボランティアのスタッフなどの同伴や、代理申請などができなくなる可能性もある-ということを、あるスタッフから聞きました。不正受給者防止の目的も、理由としてあるようです。生活保護受給者が日本で一番多い大阪市では、こうした弱者を食い物にするビジネスもあるからです。
 こうした行政の手続き上の変更は、野宿生活を送っていた人にとって生活の支えとなる制度を、利用できなくなる可能性を含んでいます。生活に困窮した人が、その制度を知らなかったり、受けにくい、というような認識を持っていれば、制度を利用するに至らないし、その時に必要なのが行政と保護を受ける人々をつなぐNGOやボランティアのスタッフといえます。しかし、そうしたことに制限が出てくる場合どうなるのだろう、と危惧するボランティアスタッフもいました。
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 釜ヶ崎だけでなく、派遣切りなどのワーキングプアの人々も、福祉事務所に相談し、生活保護申請の意思を伝えても、実際に申請を行うことができないまま路上生活に至ってしまった-ということも起こっているように、申請を行うことさえ、人によっては難しい場合があります。
 以上のような例の場合、もしも野宿生活者と行政の間に立つ、行政に詳しいボランティア・スタッフがいれば、生活保護を求める行政への強い働きかけもができるかもしれないのです。また、こうしたスタッフ自体も足りないくらい、野宿生活を余儀なくされている人々は多いのです。
 行政と受給を受ける側とそれを支える人々の間で、今後も生きるための闘いは拡大し、続いていくのだ-という印象を、様子の変わった街を見ながら感じました。




 
 
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