[書評]『 友だち地獄 』【社会司牧通信152号】

 
  友だち地獄
土井隆義/ちくま新書710/2008年/720円+税

 私には20歳と18歳の息子がいる。二人の性格は対照的だ。上の子は夢想家でマイペース、下の子は現実的で他人に気を使うタイプだ。その下の子と、ある夜、話しこんでいるうちに、人間関係についての彼の考えがどうにも理解できなくて、頭を抱え込んでしまった。その時、息子に「この本を読めば、少しは分かるんじゃない?」と言われて読んでみたのが本書だ。
 本書の副題は「『空気を読む』世代のサバイバル」。誰からも傷つけられたくないし、誰も傷つけたくない。孤立したくはないが、重たすぎる関係は持ちたくない。自己主張はしたくないが、無視されるのもいやだ。そんな難しい人間関係を生きる、現代の若者たちの姿を描いている。

 
 本書のカバーには、本文からのこんな抜き書きがある。「…人間関係の息苦しさは、ある中学生が創作した『教室は たとえていえば 地雷原』という川柳にも巧みに表現されている。しかし、彼らは、その人間関係から撤退する選択肢をもちあわせていない」。今の子どもたちにとって、同じクラスで学ぶ友だちといえども、決して気を許すことができない相手だ。一つ間違えると、たちまちみんなから孤立してしまう。だから彼らは、人間関係に過剰なまでに気を使い、地雷を踏まないようにソロソロと、学校生活を送っているのだ。
 著者によれば、その原因の一つは、いわゆる「個性化教育」にある。それまでは、「すべての子どもの学力を伸ばす」ことが学校教育の目標だったが、1980年代に入って、日本の教育政策は「個性の重視」「生きる力」「考える力」など、明確な基準のない目標を掲げるようになった。子どもたちは「自分の潜在的な可能性や適性を自らが主体的に発見し、それぞれの個性に応じてそれらを伸ばすように求められる。言い換えれば、1980年代以降の子どもたちは、自分で自分の価値観を作り上げなければならなくなった」。それが、子どもたちの人間関係を混沌としたものに変えてしまった-というのだ。

 
 たしかに、「自分の頭で考える」「自分の個性を伸ばす」という目標は当然だ。そのためにはまず、基準となる価値観や、基本的な考え方を学び、そこから自分なりに考える方法を身につけていかなければならない。だが、何ごとにも極端な日本社会のこと。「個性化教育」とは、どんな価値観も考え方も教えず、子どもたちが持っているものだけで考えさせること、と解釈された。かくして子どもたちは、野放しにされ、自分の力だけで考え抜き、生き抜かなければならなくなった。それが、現代の若者たちの特徴と言われる、あてのない「自分さがし」へとつながっている-と著者は言う。
 それは、子どもだけの話ではなく、大人の世界でも同じだ。首相に求められるのは「キャッチフレーズ」のわかりやすさだけで、政治哲学など何もない。見識も持たない経済界のトップが、教育や政治に口を出す。庶民はと言えば、お笑いだグルメだエステだと、その場その場を楽しむことばかり。そこには、議論に耐えうる価値観など何もない。いい年をした大人まで、「本当の自分はこんなものじゃない」と、何歳になっても「自分さがし」に忙しい。かくして、「最近の若者は何を考えているのか…」と嘆くばかりで、子どもの現実を見て、導こうとなどしていないのではないか(私自身も含めて、だが)。
 
  1980年代以降の近代社会は、グローバル化・個人主義・市場主義の強まりによって、人間関係が希薄化している-というのが、最近の社会学の通説だそうだ。ならば、「空気を読む」子どもたちの人間関係は、まさに時代の産物に他ならない。
 本書を読んでいて、あまりに息子の言い分とそっくりなので、不謹慎だが思わず笑ってしまった。だが、それ同時に、日頃若者たちと接していて感じていた違和感が、多少は消えたように思った。親である以上、「今の若者は、何を考えているのか分からない」などと、嘆いているわけにはいかない。地雷は踏むかもしれないが、しばらくは、彼らの世界に踏み込んで考え続けてみたい。

<社会司牧センター柴田幸範>
 
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