[経済危機] / 『真理における愛』-ベネディクト16世の回勅【社会司牧通信152号】

 
安藤勇(イエズス会社会司牧センター)
 昨年の世界経済危機については、世界中で多くの専門的な分析や声明が出されている。この危機が破滅をもたらすのを避けるために、一刻も早い対応が求められており、各国政府は根本的な政策の見直しを迫られている

<教皇ベネディクト16世の最初の社会回勅>
 2009年7月、教皇ベネディクト16世は最初の社会回勅『真理における愛』(Caritas in Veritate)を発表した。この回勅は、世界を襲った経済危機に関するものだった。
 そもそも、回勅(Encyclical Letter)とは、カトリック教会において信者の信仰生活を導く、もっとも権威ある文書の一つだ。教皇の新しい回勅は今回の深刻な世界経済危機について述べており、人々がそこに経済危機の解決策を期待するのも当然だ。
 各国政府は銀行などの金融機関に、即座に膨大な資金を投入して、徹底的なリストラを迫った。倒産の危機に瀕した大企業は、生き残りのための公的資金注入と引き換えに、経営陣の刷新と労働者の削減に踏み切らなければならなかった。

 このように世界中に影響を及ぼしている経済危機について、カトリック教会の公文書が新しい解決策を提示するのを期待する人もいるだろう。回勅はすべての善意の人に向けられているので、日本のように非キリスト教徒が多い国でも、人々が回勅の主張に耳を傾ける可能性は高い。だが、今回の回勅は、そうした人々の期待には応えていないのが残念だ。
 回勅『真理における愛』の特徴の一つは、神学的な考察だ。教皇は最初に、愛(charity)と神への愛、真理の探究についての考察から始め、次に正義と共通善について語っている。

<人間的発展と公共部門>
 人間の統合的発展(integral human development)こそ、この回勅の鍵となるテーマだ。その点で、この回勅は1967年に教皇パウロ6世が発表した重要な社会回勅『諸民族の進歩推進』(Populorum Progressio)から大きな影響を受けている。ベネディクト16世は、パウロ6世の回勅が当時、植民地支配から独立したばかりの発展途上国の発展に大きな影響を与えたことを認めた上で、『諸民族の進歩推進』の主要な洞察は今日も通用すると述べる。とはいえ、今日まで、世界には多くの変化があり、現在の危機により的確に応えるために、発展についてのカトリックの教えを改訂したいというのが、教皇ベネディクト16世の願いだ。
 『真理における愛』が述べている「発展」とは、経済や工業分野の発展にとどまらず、人間の統合的発展を指している。回勅は、今日の人間の統合的発展が直面している諸問題-世界金融危機、大規模な移民、貧富の格差、政治・経済の腐敗、多国籍企業と労働者の権利、天然資源の浪費、国際協力などについて、述べている。
 ベネディクト16世は、世界の経済危機に解決策をもたらすにあたっての、公共部門(政府)の役割の重要性を指摘している。
  『諸民族の進歩推進』は、『公権』(public authority)の、独占的ではないが中心的な役割を認めている。
 今日、国際貿易と金融の新たな状況-金融資本と物質的・非物質的生産手段の流動性が高まっている状況-によって、国家の主権に制限が加えられていることを、国家自身も認めざるを得ない。こうした新たな状況は、諸国家の権力を削いでいる。
 今日、現在の経済危機に際して、諸国家の公権が直接、(経済システムの)過ちや機能不全の矯正に取り組んでいる現状から、私たちが種々の教訓を心に刻むにあたり、諸国家の役割と権力について見直すことこそより現実的だろう。公権が現代世界の挑戦に、おそらく新たな関わり方で応えることができるように、諸国家の役割とその権力について慎重に見直し、新たなモデルを構築する必要がある」
(24)
*カッコ内は回勅の番号。なお、回勅引用部分の邦訳は、イエズス会社会司牧センターによる試訳。

<アメリカの金融システムに何が起こったのか>
 ここで、20年にわたって米国連邦準備制度理事会(FRB)理事長を務めたアラン・グリーンスパンの、2008年10月の連邦議会での証言を紹介したい。
 「『私は間違っていた』と、アラン・グリーンスパンは多くの言葉を費やして語った。2008年10月、ウォール街を奈落の底に突き落とした、大恐慌以来最悪の金融危機に際して、連邦議会公聴会で質問者を前にしたグリーンスパンは、FRB理事長として彼が下してきた、各方面に影響を与える判断の根底にある哲学に、間違いがあったと認めた。
 20年間FRBの理事長であったグリーンスパンは、大統領と連邦議会に対して、政府が金融市場の自己利益に基づく自主規制を信頼して、金融市場を規制緩和することは、自由と繁栄への道であると助言してきた。だが、銀行が次から次へと破産する状況は、彼の助言の信頼性を疑わせた。
 ここでグリーンスパンの証言を紹介しよう。『私たちは、金融機関が(私自身も含めた)株主への公平性の観点から、私利私欲に走らないように監視する立場にあったが、今や不信感に打ちのめされている…デリバティブ市場におけるリスク管理の壮大な技術体系は…昨年の夏に崩れ落ちた』」
("The Demise of the Cult of Self-Interest - Greenspan's Folly" by Darrin W. Synder Belousek, America, March 30 - April 6, 2009より引用)
 言い換えれば、グリーンスパンの経済哲学の背景にあったのは、個人の利益の利己的追求を野放しにする「レッセ・フェール(自由放任)資本主義」こそが、唯一の道徳的経済システムであるという考えだった。したがって、「政府」の役割は国防や財産権の保護、犯罪訴追といった最小限にとどまるべきだ、というのが彼の考えだった。
 そうした経済思想は、日本でも規制緩和・民営化政策の大波をもたらした。だが、そこに欠落していたのは、共通善という健全な概念だ。世界経済危機の今こそ、私たちは相互依存性と相互責任について思い出す必要がある。

<『諸民族の進歩推進』とグローバル化>
 ベネディクト16世は、『諸民族の進歩推進』の基本テーマである「進歩」が、いまだに未解決の問題であり、今回の経済金融危機によって、いっそう緊急で深刻な問題となっているとの認識を示す。
 『諸民族の進歩推進』発表から40年たった今、「もっとも主要な新しい特徴とは、グローバル化として広く知られる世界規模の相互依存の拡大だ。パウロ6世はこのことを部分的には予見していたが、その進行の恐るべき速さは、予想を超えるものだった。先進国から始まったこのグローバル化のプロセスは、必然的に全世界を飲み込むほどに広がった」(33)
 
<人類の一致>
  回勅の第3章は、「兄弟愛、経済発展と市民社会」についてである。教皇は、こう述べている。
 「人類の一致、あらゆる障壁を越えた兄弟愛に満ちた共同体は、愛である神のみ言葉によって生み出される…経済的・社会的・政治的発展が真に人間的であるためには、兄弟愛の発露としての無償性の原理が尊重されなければならない」(34)。
 このグローバル化の時代には、経済活動と無償性を切り離すことはできない。それは、さまざまな経済主体の間に、連帯と、正義に対する責任、そして共通善を育み広める。
 「正義は経済活動のあらゆる局面に適用されなければならない。なぜなら、それは常に人間とその必要に関わるものだからである。資源の分配、金融、生産、消費をはじめ、あらゆる経済サイクルの諸段階は、必然的に道徳的な側面を持っている。だからこそ、あらゆる経済的意志決定は道徳的な内容を含んでいる」(37)

<市場と共通善>
 教皇は、あらゆる経済活動の中でも、市場の重要性を改めて指摘して、こう警告する。
 「実際、もし市場が財の交換における価値の釣り合いという原理によってのみ支配されているとすれば、市場が良好に機能するために必要な社会的一致は、決して生み出されないだろう。市場が本質的に連帯と相互信頼を備えていなければ、適正な経済的機能を果たすことはできない。そして、今日まさにこの信頼が失われており、その損失は計り知れない」(35)
 「経済活動は、単なる商業論理だけであらゆる社会問題を解決することはできない。社会問題の解決には共通善の追求が必須であり、そのためには、特に政治共同体が責任を果たさなければならない」(36)
 「経済の領域は、倫理的に中立でもなければ、本質的に非人間的で反社会的なものでもない。経済活動は人間活動の一部であり、人間的であればこそ倫理的な仕方で構築され、統治されなければならない」。商業的な関係においても「無償性の原理と兄弟愛の発露としての贈与の論理は、通常の経済活動の内にふさわしい地位を占めることができるし、また占めなければならない。これは、現代における人間的要請であると同時に、経済論理による要請でもある。それは真理と愛が共に要請するものである」(36)


<新しいビジネスの進め方の必要>
 次に教皇は、新しい企業のあり方を示す。
 「したがって、必要とされるのは、平等な機会の下、企業が各自の組織目標を追求するために、自由に活動することを認める市場である。利益を追求する民間企業や各種の公営企業の他に、相互主義的な原則に基づいて社会的目標を追求し、社会に根づく企業も、存在を許されなければならない。これら両者の企業が市場で出会うことによって、両者の特徴が混じり合った新たな商業活動が生まれ、経済の文明化への道が開かれる可能性が生じる」(38)
 「数々の逸脱と過ちに満ちた今日の国際経済においては、企業のあり方に関するまったく新しい理解の仕方が要求される…今日の国際資本市場は、企業に大いなる行動の自由を提供している。その一方で、企業はより大きな社会的責任を果たすべきだという意識も高まっている」(40)
 他方、『政府』もまた、広範な価値を含んでいる。政府は、一定の尺度にしたがって人間的であり、社会的な責任を果たしうるような、新たな経済生産性の秩序の確立にあたって、排除されてはならない…さまざまな要素を含んだ今日の経済において、政府の役割は余分なものではなく、むしろ経済と政府はよりいっそう協力し合うのである」(41)
 ベネディクト16世は、カトリック教会の社会的教えがこれまで、経済が正しく機能するためには倫理を必要とすること-しかも、その倫理とは人間を中心におく倫理であることを、きわめて明確に主張してきたと確認する。経済はそのあらゆる部分において、人間活動の一部門をなしているのだ(45)。
<グローバル化は人間的な現実>
 「グローバル化」について言えば、それは「あたかも人間の意志とはまるで関係ない、非人格的な力や仕組みによって進んでいるかのように、時に宿命論的な言葉で語られる」が、社会的・経済的プロセスだけがグローバル化の要素ではないことを思い出すことは重要だと、教皇は指摘する。グローバル化は人間的な現実であり、多様な文化的潮流の産物であって、私たちはそれを識別する必要がある。
 「グローバル化は、その一部の構造的な要素のゆえに否定されるべきでも、過大評価されるべきでもなく、『グローバル化それ自体は、そもそも善でも悪でもない。どちらになるかは、人々の行動次第である』。我々はグローバル化の犠牲者ではなく、理性の光に照らされ、愛と真理に導かれて、グローバル化の主人公として行動すべきだ」(42)

<人間こそカトリックの社会的教えの柱>
 カトリックの社会的教えの主要な柱の一つは、人間こそあらゆる経済活動の主体であり、主人公であるということだ。こうして、「開発プログラムにおいて、開発に第一の責任を持つ主体としての人間こそ中心であるという原則が、堅持されなければならない」と、教皇は述べる(47)。他方、開発プログラムが個人に適用される場合は、柔軟に行われる必要がある。開発プログラムの受益者こそ、プログラムの立案と実施に直接に携わるべきである。

<環境保護とライフスタイルの見直し>
 回勅はまた、国際協力や、経済開発プログラムと自然環境保護との関係に触れる。
 「人間の統合的発展を目指すプロジェクトは、未来の世代を無視することができない。それは連帯と世代を越えた正義とに彩られ、エコロジーや法律、経済、政治、文化など、さまざまな状況を考慮しなければならない」(48)
 「人間が環境を取り扱う仕方は、人間が自分自身を取り扱う仕方に影響を与えており、逆もまた真実である。この事実は、現代社会に対して、世界に広まる結果を度外視した消費主義や快楽主義といったライフスタイルを、真剣に見直すよう求めている。今、求められているのは、メンタリティをしっかりと入れ替えて、真・善・美や、隣人と共に成長するための交わりの探究が、消費者の選択や貯蓄、投資の決定要素となるような新しいライフスタイルを採り入れることだ」(51)
 経済政策で自然保護を奨励したり、自然破壊を抑止するだけでは十分ではない。適切な環境教育でさえ不十分だ。
 決定的な問題は、社会全体の道徳意識である。生命と自然な死への尊敬の念が欠けていれば、社会は人間に関するエコロジーの概念を失ってしまうと同時に、環境に関するエコロジーの概念も失ってしまう。未来の世代は自然環境を尊重すべきだと主張する一方で、現代の教育システムや法律が、彼らが自分自身を尊重する助けとならないのなら、それは矛盾である」(51)

<人間関係と協力>
  第5章は、人類家族の協力について述べている。教皇は、人類は真の交わりの内に共に働く一つの家族である-という認識こそ、諸民族の発展の鍵だと強調している。
 「霊的存在である人間は、対人関係によって規定される。人間が対人関係を正しく生きれば生きるほど、その自己はいっそう成熟する。人は孤立によってではなく、自分自身を隣人や神との関係の内に置くことによって、自己の価値を確立する」(53)
 教皇はこの見方を、キリスト教信仰の中心である三位一体の関係性という神学的観点から展開する(54)。

「キリスト教をはじめ他の宗教は、神が公共の分野において地位を占める時-すなわち文化、社会、経済、そしてとりわけ政治の分野において地位を占める時、はじめて発展に貢献することができる…公共領域からの宗教の排除-そして、その対極である宗教原理主義-は、人間同士の出会いと、人類の進歩のための協力の妨げである」(56)
 教皇はこの章の最後に、グローバル化を管理して、真の人間的発展へと導くための、カトリック教会の社会的教えの基本原理-補完性の原理や連帯-を紹介する(57~61)。また、教皇は、世界中に広がる移民の状況や、失業に直結する貧困の問題について述べ(62~63)、国連が真に世界の政治的権威となるよう、緊急に改革する必要性を、強く訴えている。

<発展と技術>
 回勅の最後は、技術の役割についてである。今日の発展の問題は、特に生物学分野での技術発展と密接に結びついている。技術は人々の発展への願いを表すと同時に、物質的限界を越えなければならないという強迫観念をも表している。教皇は、こう述べている。
 「発展への最大の奉仕は、愛を燃え立たせ、真理によって導き、真理と愛を神からの永続的な恵みとして受け入れるキリスト教的ヒューマニズムである。私たちは神に向かって開かれている時、兄弟姉妹に向かって開かれており、人生とは連帯精神の内に達成されるべき喜ばしいつとめであるという理解へと開かれている。他方、イデオロギー的な神の拒絶と無関心からくる無神論は、創造主を忘却すると同時に人間の価値をも等しく忘却するおそれがあり、今日の発展の主要な障害の一つとなっている」(78)

<回勅と日本社会>
 回勅の内容は、国際的な金融危機とグローバル化に巻き込まれている日本社会にも、深く関わっている。だが、教皇の回勅は、「すべての善意の人々」にも宛てられているにもかかわらず、日本ではまったく知られておらず、何の影響も与えていない。回勅の、今日の世界の現状に関する分析と、その人間的・倫理的アプローチは、もちろん有効だ。
 だが、問題はそれを日本にどう適用するかだ。教皇は私たち全キリスト者に宛てて、人々の生活だけでなく、国全体の進路にも影響を与える諸問題を考察する回勅を発表することで、さまざまな形で福音宣教を継続するための、新たな可能性と倫理原則とを提供した。
 回勅に示された道徳的価値を、私たちはどのように実現し、実行することができるだろうか? 今の日本はとても利己的で、個人主義的だ。教育の目的は利益と成功だ。その点で、キリスト教教育には、今こそ振り返るべき豊かな内容がある。カトリック教会には、信徒の社会的関わりを刷新するつとめがある。たとえば、カトリックの社会的教えや、「他者に奉仕する人間」になることについて、信徒をトレーニングしたり、ボランティアの重要性について啓蒙したり、といったことだ。
 今日のキリスト者は、アジア諸国をはじめ世界中で、貧困に苦しむ発展途上国の人々の現状に、関心を持つべきだ。この回勅は、他にも移民、失業、自然保護など、さまざまの問題を取り上げている。キリスト者は、社会をより人間的なものとするために行動すべきだ。
 
 
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