[書評]『絞首刑』【社会司牧通信150号】

 
 

  「また、死刑の本か」と思わないでほしい。「もうたくさんだ」と言わないでほしい。それほど、あなたは死刑のことを知っているだろうか? 死刑執行の実態を知っていますか? 死刑囚の生活や精神状態を知っていますか? 刑務官や教誨師の苦しみを知っていますか? 被害者遺族の気持ちを知っていますか? 私が死刑廃止運動に関わって8年経つが、まだまだ知らないことが多い。この本からも、たくさんのことを学んだ。心に残った部分を引用したい

 
 「…男(死刑囚)は僧侶の方に向かってよろよろ歩み寄ると、法衣にしがみついてきた。喉の奥から絞り出すような声を漏らしながら、そして嗚咽しながら『先生…、先生ぃぃ…』。…この男にいま、何と語りかけたらいいのだろう。僧侶として、宗教を奉ずる者として、いったい何を説くことができるというのだろう」(死刑囚の教誨師をつとめた僧侶)

 
 「死刑の執行といっても、すべては命ぜられた職務に過ぎない。しかし、自らの手で人間の命を絶ちたいと思う刑務官などいるはずがない。そんな心情を慰めようと考案された(複数のボタンがあって、どのボタンが死刑執行装置につながっているか)分からない装置…しかし、『殺めてしまったのではないか』という気持ちが消えることなどない」(ある刑務官)

 
 「犯罪の被害者遺族は、大切な人を奪われることによって不幸の谷底に叩き落とされる。刑事司法やマスコミ、大多数の世間の人は平和な崖の上から『可哀想に』と同情の声をかけてはくれるけれど、本当の意味での救いの手を差し伸べてはくれない。その代わり、崖の上から加害者を突き落とすのに夢中になっているだけではないか…」(ある被害者遺族)
 「死を覚悟している人からすれば死刑は責任でも償いでも罰ですらなく、つらい生活から逃してくれるだけです…死を受け入れる変わりに反省の心をすて、被害者・遺族や自分の家族の事を考えるのをやめました。なんて奴だと思うでしょうが死刑判決で死をもって償えと言うのは、俺にとって反省する必要ないから死ねということです。人は将来があるからこそ、自分の行いを反省し、くり返さないようにするのではないですか。将来のない死刑囚は反省など無意味です」(ある確定死刑囚)

 
 「○○君が拘置所内で作業して、その賃金を遺族に渡していることに、自分は涙が出そうになりました。今の○○君の気持ちは自分にはうれしいと思いました。自分も死ぬのは怖いと思います。○○君も自分を振り返って反省しているのが自分には分かります。お願いですので、死刑にはしないで下さい。よろしくお願いします」(ある被害者遺族が最高裁に宛てて書いた加害者の助命嘆願書)

 
 「その活動(犯罪や交通事故の被害者となって家族を失った人々が開催する「生命のメッセージ展」)は、命の尊さを訴えるものなんです。その中にあって、私たちが死刑を求めていてもいいのかな…と。たとえ加害者でも、命の重さはある。その命を、私は『奪ってくれ』と言っている…でも、それじゃあ赦せるのか。赦せないんです。謝ればいいのか。そんな問題とは違う。死刑しかない。そっちの気持ちの方が、まだ強いんです」(同じ事件の被害者遺族)

 
 「私が犯した大罪に対して、唯々申し訳ない気持ちで一杯です。自分が赦せずに居ますが、生きて居て良いのか、悪いのか、随分と苦悩いたしました…被害者の方々のご冥福をお祈りさせて頂き、自分の出来る限りの償いを今後も続けて、被害者の方々やご遺族の方々に恥ずかしくない生き方をしたいです」(同じ事件の加害者)

 


  このように、死刑に関わる人々の思いは複雑だ。それでもあなたは、何の迷いもなく、「死刑賛成」と言うことができるだろうか?

<社会司牧センター柴田幸範>
 
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