[経済危機] / 経済危機についてのイエズス会的考察【社会司牧通信151号】

 
イエズス会社会使徒職事務局
  以下の記事はイエズス会社会使徒職事務局(ローマ)の雑誌「プロモーティオ・イウスティティエ」(Promotio Iustitiae:正義の促進)からの抜粋だ。イエズス会で昨年、世界金融危機に関する二つの国際会議が開かれた。この金融危機は、世界の多くの国々に打撃を与え、多くの労働者が職を失って、社会不安が引き起こされた。
 下記の記事をご紹介するのは、そこには日本にも役立つ深い考察が含まれていると確信するからだ。日本もまた、世界金融危機によって深刻な打撃を受け、大量の失業が引き起こされた。近年、日本の雇用システムは劇的に変化し、サービス業における非正規労働者の割合は40%、製造業でも30%に上っている。貧富の格差は拡大し、2008年には若年失業者は8.7%に上っている。1千万人以上の労働者が年収200万円の貧困ライン以下で生活している。政府が社会福祉費を削減し、公共サービスを民営化した結果、働いても最低限の生活水準を維持できない、いわゆる「ワーキング・プア」が増えている。
 他方では、最近の総選挙で民主党政権が誕生し、国民に新たな希望が生まれている。鳩山政権は、CO2を2020年までに1990年比で25%削減する方針を示して、世界的な支持を得ている。鳩山政権が経済危機に対しても効果的な政策を打ち出せるか、注目したい。
(安藤勇s.j.,イエズス会社会司牧センター)
  
 
 フェルナンド・フランコ (プロモーティオ・イウスティティエ誌編集長)
 「我々は危機の時代に生きている」という話を、私たちは散々聞かされてきた。いわゆる「豊かな」国々で暮らす人は、こうした差し迫った経済危機の話に、かすかな抵抗感を抱いている。一方で、特定の政治家たちが、「危機は終わった、万事元のように良くなる」というメッセージをまくし立てているにもかかわらず、多くの人々の心からは不安と疑いが消えない。
 私たちはついこの間まで、「向こう側の」世界で暮らす人々の経済危機の話を聞いても、たいていは「この話は信用できるが、第一世界に暮らす私たちとは全然関係ない」と感じていた。しかし今、「豊かな」世界の家族や友人たちの話を聞くと、この経済危機が突然、私たちの現在と未来の夢に深く関わる存在となったことを、大きすぎるショックとともに実感するようになった。職場から放り出されるのではないかという不安や恐れは、もはや第三世界だけの現象ではなく、「約束された」土地と思われてきた先進国に暮らす人々にも、影響を与えつつある。一年前までは、私たちが「グローバル化」というあいまいな名前で呼んできたプロセスの悪影響について語ることなど、考えられないことだった。私たちの誰もが、「世界経済の成長は議論の余地なく進むものだ」という神話を信じて、満足な暮らしを送ってきた。グローバル化によって自由を与えられた経済や技術の力が、人類の重要な諸問題を解決してくれると、私たちは考えていた。グローバル化の負の側面を批判する声もあったが、私たちはおおむね楽観していた。グローバル化を正しい方向に導けるか、連帯のグローバル化を進めることができるか、といった議論は、いまだに結論が出ていない。だが、こうした楽観論に対する警告は、日増しに大きくなっている。
 企業が次々と倒産したり、大幅な人員削減を発表したりする状況を、私たちはびっくりしながら眺めている。
銀行の破産や工場閉鎖、大規模なスポーツ・イベントの財政危機だけでなく、社会不安の広まり、環境破壊の増大、予期せぬ深刻な食糧危機も進行しつつある。さらに驚くべきことは、ほとんど毎日のように、もう一つの経済的詐欺行為が広く述べられていることだ。私たちは率直に自問すべきだ。
「私たちは密かに、経済成長が永遠に続くと信じていないだろうか?」
 このような落ち込みと不安のしるしに直面しながらも、社会が密かに健全な方向に向かおうとしているしるしもある。たとえば、気候変動の深刻さは、限定つきではあるが、社会や政治家たちに広く受け入れられるようになってきた。生命全般を守ろうという協力の取り組みが、地理的・文化的・宗教的壁を越えて確立されてきた。国連やILO(国際労働機関)などの国際機関は、諸宗教が社会の倫理的視野を変革し、行動の仕方に影響を与えるために、建設的な役割を果たしうることに、気がつき始めた。
 2008年11月にマドリッドのエル・エスコリアルで開かれた国際イグナチアン・アドボカシ・ワークショップは、こうした問題を考察する上で、また、さらに重要なことだが、貧しい人々や疎外された人々の生活に影響を及ぼす社会政策に対して、イエズス会のイグナチオ的な行動様式(Ignatian way of proceeding)にふさわしい仕方で影響力を行使する上でも、絶好の機会となった。本号(101号)のプロモーティオ・イウスティティエでは、ワークショップで取り上げられた考察のエッセンスを紹介し、最も重要な結論に光を当てる。ワークショップで提示された基本的な協力とネットワークのモデルが、世界中のイエズス会の社会活動を明確なものとするために役立つことは、時が証明するだろう。
 
 
 フランク・ターナー(イエズス会)
 2009年4月6~8日、OCIPE(Office Catholique d'Information et d'Initiative pour l'europe:ヨーロッパ・カトリック情報イニシアティブ事務局)が、ベルギーのブリュッセルで会議を開催した。この会議に世界中から参加したイエズス会員は、世界の金融システムや経済・政治の、相互に関連する危機について考察した。これらの金融システムや経済・政治の危機は、深刻な社会危機へと発展する可能性をはらんでいる。私たちは特に、アフリカやアジア、ラテン・アメリカのイエズス会員を会議に招き、まったく異なる観点からも、この問題を検討しようと試みた。
 
 ■ 危機の特徴
 今回の危機は多様な側面を持っている。つまり、今回の危機は多様な視点から見ることができ、それぞれの見方は互いに緊張関係にあるが、決して相手を排除するものではない。二つだけ取り上げる。

1.道徳の危機か、システムの危機か?
 危機の最初には、銀行家や経営者たちが「強欲」とか「無責任」という言葉で厳しく非難された。もし、今回の危機が金融システムの失敗だったとすれば、それは政府がコントロールしたくてもできないような金融システムを作り上げた人が、強欲で無責任だったということだ。
 こうした道徳的審判についての意見の不一致は、私たちがあまりに長い間、自分の目からも隠してきたある真実を浮き彫りにした。商品やサービスという「実体経済」は、社会のニーズや需要を満たすとき、利益に結びつく。お金はもともと取引の手段に過ぎなかったが、いまやそれ自体が一つの商品となっている。実際、「金融経済」は「実体経済」を総額で大幅に上回っているが、その実態はあまりに不透明で、金融危機が示したように、金融の実務者でさえ、自分がどんなリスクをとっているか理解していなかった。こんなバブルははじけるしかない。
 カトリック教会の「貧しい人々の選択」を支持する人々が、金融危機を道徳的に審判しようとするのも当然だ。なぜなら、金融市場への行き過ぎた資金供給が貧困の削減を妨げたからだ。だから、今回の金融危機は、現代社会のいかなる経済も人間のニーズに応えていないという、脆弱性を明らかにしている。アメリカの神学者ジョー・ホランドがかつて述べたように、「経済がうまくいっている時は、まさに人々が困難に直面する時だ」。
 他方で、金融危機をマクロ経済の観点から考えることの方がいっそう有益であり、道徳的な観点は不適切にすぎないのだろうか。マクロ経済の立場からすれば、国家主権の概念に固執し続けるあまり、世界市場に世界規模の規制が存在しないことこそが問題だ。国家主権という枠組みは、今後も容易に否定されないだろう。中国やアメリカの政府が、外部の経済(であれ何であれ)の統治システムに従うとは、誰も期待できない。EU(ヨーロッパ共同体)においてさえ、国家主権は常に「共同体方式」を圧倒している。しかし、今回の金融危機は、経済現象を力でコントロールするという意味での「国家主権」は幻想に過ぎないことを示している。たとえば、日本が苦闘しているのは、他の国々が日本の輸出能力に見合う輸入ができないからだ。だから、仮に国家主権が今なお政治的常識のように見えるとしても-かつては奴隷制も女性差別も政治的常識だったが-、常識は永久不変ではない。
2.危機は短期の周期変動か、それとも経済的・社会的枠組みの決定的な崩壊か?
  世界のマス・メディアは株価上昇を、早くも金融危機が底を打った一つの指標と解釈しはじめている。もし、これが希望的観測でないとすれば、今回の金融危機は<周期的な景気変動の単なる一局面、あまりに急すぎた成長の20年の反動にすぎなかったのだろうか? 今回の危機は、実は決して危機などではなく、単に繰り返し発生する現象の深刻な一例に過ぎなかったのだろうか? 経済成長は、高収益を保証する信用メカニズム-それは往々にして過剰信用になりやすい-や、住宅のような個人資産の価格の急激な上昇によって自己増殖するが、そうした現象は当たり前のように思われている。家は単に住む場所であるだけでなく、絶対安全な投資先と見なされ、やがて投資家は棚ぼたの利益を夢見て、借金に沈むのだ。周期変動の波は激しく、多くの人々が被害を受ける。しかし、私たちは資本主義には犠牲者は付きもので、リスクをとる人は当然、損することもあると承知している。
 とはいえ、何かもっと根本的なことが起こっているように思える。世界の金融システムの大黒柱は、かつてないほど弱体化している。世界最大の保険会社(AIG、百ヵ国以上で営業している)や、米国・英国をはじめ世界中の巨大銀行が、救済を必要としているのだ。これらの企業はあまりに巨大で、国際的な金融システムに深くはめ込まれているので、単なる企業というよりも、金融システム自体の保証人に見える。これらの企業は、人々の「当たり前」の感覚を支える、事実上の「信頼」の構造を体現していた-実際にはそうではなかったとしても。だが、この信頼はいまや、根底から揺らいでいる。結局、いったい誰が信頼に価するのか?

 ■ 危機に応える
 私たちイエズス会員が今回の金融危機について、どのような適切な枠組みを提供できるかという問題については、私たちの間にはいまだに解決していない、刺激的な意見の違いがある。
 私たちは神学やキリスト教的人間学に基づいて語るべきだろうか? 私たちはこの問題について、イエズス会の土台となる原理的な世界観から離れて語らなければならない-と感じているのはなぜだろうか? イエズス会がなしうる唯一の独自な貢献を、私たちはなぜできないのだろうか? 金融危機の根底に横たわる自由や経済、「主権的自己」に関する還元主義的概念(ものごとを一つの概念に単純化する考え方)に、もっとも有効に対抗できるのは、まさにこうした「破壊的な」キリスト教的ビジョンではないだろうか? 組織やシステムは、いつも一定の社会意識を(意識しているか、いないかにかかわらず)体現している。だから、組織やシステムは、ふさわしい動機(そして、意義づけと関与)なしには、改善されえない。
 この観点からすると、金融システムの改革を意義づけることこそ、教会のもっとも重要な貢献だ。
 反対の立場の人々の主張によれば、教会はあまりに多くの人から、「この世」を頭から否定的に裁いていると見なされているので、そのような直接的で原則的な問題提起に耳を貸す人はなく、対話の可能性はきわめて少ない。彼らの主張を信じるなら、私たちはあからさまに宗教的な言葉づかいをできるだけ避けたり、せいぜい補助的な使用にとどめたりして、共通の議論の土台を探るべきだし、他の世界観と彼らの土俵で出会うことを追求すべきだ。
 このようにしてはじめて、「宗教的な」議論は本当に経済的な現実性を獲得することができる。
 私たちはバイリンガルになる必要がある。つまり、宗教的な言葉を危険にさらしても、それが明らかに人間の実体験や、共通の倫理的考察に根ざしたものであることを示す必要がある。当然のことだが、人は完全に閉じこもった人とは、率直な対話などできない。しかし、人は相互に開かれた関係に入るために、不必要な障害を取り除くことができるし、私たちはそうすべきだ。

 


 ■ 今後の議論のために
 思いつくままではあるが、さらなる議論のために、いくつかの見方を示しておきたい。

1.グローバルな観点
 教会は普遍的だ。イエズス会自体も普遍的な使命を宣言している。この普遍性からヒントを受けて、移民や環境、金融危機といった問題について、自ら考察の地平を狭めることなくグローバルな観点から考察することができる。

2.持続可能性
 金融危機に対する政治的対応策は、経済成長の回復を目指すものになりがちだ。教会と環境保護運動は、こうした傾向に否定的な反応を示す。私たちに必要なのは「反成長主義」ではなく、「足を知ることの豊かさ」である。そこには、人類全体が抱える問題への共感と、環境に配慮した持続可能性の尊重が含まれている。私たちは特に、過剰消費を拒否すべきだ。

3.手段としての市場の尊重
 市場は依然として、商品とサービスの重要な分配の場である。しかし、世界の自由市場は自由とはほど遠い。
経済のグローバル化を受け入れるとすれば、それは双方向のものでなければならない。

4.市場に対する倫理的批判
 市場を尊重するなら、市場を批判しなければならない。自由市場理論は自由を単純化しすぎている。教皇ヨハネ・パウロ2世は回勅『チェンテジムス・アヌス(百周年)』で、「自由市場経済」と「自由経済」を対比している(15)。なぜなら、自由と正義は互いに依存しあうからだ。ある経済システムが、人間生活の他の側面を犠牲にして絶対化されるとき、「経済的自由」は現実に人間を疎外し、抑圧する(39)。

5.責任の共有
 もし、「経済」が具体的なモノではなく、人間的な目的を反映するものと見なされるなら、それは同時に人間の責任の対象でもある。それは、具体的には次のような意味である。
a.  私たちは社会によって形成された存在であるだけでなく、社会を形成する存在でもある。経済と私たちの関係も同じだ。基本的な人間的ニーズは相対的に不変だ。欲望は無限に形を変えるが、結局、私たちの精神的自由の範囲内に収まる。人は強制によって変わるが、説得によっても変わる。多くの社会運動は市場の枠内で働く一方で、市場のあり方を変える。たとえば、社会的に責任ある投資、企業の社会的責任、貧しい人々のために役立つマイクロ・ファイナンスなどがそうだ。
b.  グローバルな交渉は真にグローバルでなければならない。教皇ベネディクト16世が今年3月のゴードン・ブラウン英国首相宛の手紙で述べているように、ロンドンで行われたG20サミットは当然のことながら、世界人口の90%と世界貿易の80%を占める国々に限られている。「この状況はサミット参加者に深い考察を促すべきものです。なぜなら、政治舞台でもっとも弱い発言力しか持たない者こそまさに、自分の責任ではない金融危機の悪影響を、もっとも大きく被っているからです。さらに、長期的に見て、万人の進歩にもっとも大きく貢献できる力を秘めているのも、彼らだからです」
c.   「責任」には「賢明さ」が伴う。私たちの問題とは、単なる「強欲」ではなく、「盲目の強欲」-つまり、利潤のコストとリスクの意識を欠いた強欲さなのだ。

6.「コイノーニア(共同体)」に根ざした連帯
 連帯とは、「人間生活の共同的性格から生まれる基本的な道徳的命題」と定義されるだろう。

7.無償性
 私たちの生を贈り物(あるいは「恵み」)と理解しつつ生きることは、人間を経済的存在、経済至上主義イデオロギーの集合体としか考えないような世界観に対する、もっとも深く実存的な拒絶だ。
 
 
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