[書評]『悼む人』 【社会司牧通信150号】 |
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なぜ、いまさらこの本かと言えば、テレビで作者のインタビューを見たからだ。作者はテレビで、この本を書いたきっかけの一つが、9.11テロだったと言っていた。つまり、ニューヨークのテロで亡くなった死者は一人ひとり名前を覚えられて、追悼されているのに、アフガニスタンやイラクで亡くなる市民は名前も知られず、ただ毎日のニュースで死者の数が読み上げられるだけだった-という事態に、作者は言いようのない違和感を覚えたというのだ。たしかに、そういう違和感を持ったのは、たぶん作者だけではないだろう。 しかし、この作者はそこから出発して、深い思索の旅に出る。私たちは、すべての死者を平等に追悼することができないのか。昨日は友人の死に涙して「あなたのことは絶対に忘れない」と言いながら、年月が経つと、なぜあっさりとその死を忘れてしまうのか。人は何のために、誰のために、他人の死を悼むのか。作者はこうした問いを、実に7年かけて熟成し、作品として完成させたのだ。 そこにからむのが3人の人々だ。一人は、子ども時代の父母の離婚をきっかけに心がすさんでいき、自分自身も妻子と別れて、事件・事故の記事をおもしろおかしく書き続ける中年の新聞記者。 |
もう一人は、聖人君子のような僧侶に請われて結婚しながら、実は自殺願望を持つその夫に操られて、ついには夫を殺してしまう、不幸な若い女性。三人目は、主人公の母親。彼女は末期の胃がんで死を迎えようとしているが、娘(主人公の妹)は兄の奇妙な行動のせいで、結婚を控えていた恋人から別れを告げられる。しかも、その時すでに、娘の胎内には子どもが宿っていた。彼ら3人と主人公との交流が、それぞれの視点から語られていく。
私が「悼む」という行為に関心を持つのは、自分が死刑の問題と関わっているからだ。私は死刑問題を通して、被害者の死や遺族の苦しみと向き合ってきた。死刑賛成の意見でよく聞かれるのが、「死刑でなければ、被害者(ほとんどの場合は死者だ)が浮かばれない」、「被害者遺族の感情は、死刑によってしか癒されない」という意見だ。人は残虐な事件を見聞すると被害者(遺族)に自分を重ねていきどおり、加害者の処罰を叫ぶ。それは自然な感情だ。 だが、この小説の主人公は、「加害者を憎むと、憎しみにとらわれて、被害者のことを忘れてしまう」といって、加害者のことには関わらない。ただ、亡くなった人が「誰を愛したか、誰に愛されたか、どんなことで人に感謝されていたか」を知れば、その人を覚えて、「悼む」ことができると言う。彼は、いかなる宗教にもよらず、多くの人の死を悼みつづける中で、このことを見いだした。そこには確かに、死者を「覚える」こと、その死を「悼む」ことの本質があるように思う。生と死を真剣に考える人には、ぜひ読んでほしい1冊だ。 <社会司牧センター柴田幸範>
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