[映画]禅 ZEN 【社会司牧通信148号】

 今回の映画は、タイトルから分かるように、仏教の映画だ。中国で禅を学び、帰国後、曹洞宗を開いて「只管打坐」(しかんたざ=ただひたすら座禅すること)を教えた道元(どうげん)の生涯を描いている。なぜ、わざわざ仏教の映画を見たかといえば、知り合いから無料鑑賞券をもらったからという単純な理由だが、結果的にはとてもよい映画を見ることができて感謝している。
 

 道元の母は、道元が幼い頃に病気で亡くなっている。映画の最初は、道元とその母との会話から始まる。病いに苦しむ母は、「あの世にいけば幸せになれると人は言うが、お前はどう思うか」と幼い道元に尋ねる。道元は「あの世で幸せになっても意味がない。この世こそが極楽にならなければいけない」と答える。母は「お前には人々が現世で苦しみから逃れる道を見出してほしい」と道元に遺言する。
 成長した道元は、中国に渡り、師を求めて各地をさまよう。腐敗した仏教界に失望しながらも、ついに師を見出した道元は、修行の末に悟りを開き、帰国して京都で「只管打坐」の教えを広め始める。厳格な道元の教えに、腐敗する既成の仏教に飽き足りない僧たちが共感し、道元のもとに多くの弟子が集まり始める。しかし、これに嫉妬した比叡山の僧たちによって、道元の寺は焼き討ちにあい、北国に逃れて寺を開き、弟子たちと修行に励む。
 そんなとき、後援者の鎌倉幕府高官から、「幕府の執権(最高権力者)が戦争の後遺症でノイローゼになっているので救ってほしい」と頼まれた道元は、鎌倉に向かう。道元は、狂乱する執権に命がけで禅の道を説き、ついには執権も座禅するようになる。幕府の力で大寺院を建てようという執権の誘いを断り、北国に戻って修行を続けた道元は、座禅を組んだまま、54年の生涯を閉じる。

 

 仏教の教えそのものについて、私は何か意見を言えるほどの知識もないが、同じ宗教者として興味深かったのは、この世で苦しんでいる人に対する道元の姿勢だ。先に書いたように、道元は「この世こそが極楽にならなければ意味がない」と言って、人々に苦しみから救われる道を説く。だが、道元の説く救いとは、座禅を組んで悟りを得ることだ。
 映画では、自分の赤ん坊が病気で死にそうな母親が道元に救いを求めるが、道元は「村に行って、家族に死んだ人がいない家を見つければ、助かる方法がある」と言う。母親は必死に探すが、もちろんどんな家にも必ず死人は出る。ついに赤ん坊が死んで、道元のもとに戻って怒る母親に、道元の弟子は「道元様は人は皆、いつかは死ななければならないと教えられたのですよ」と言う。その側で、道元は亡くなった赤ん坊を抱いて、ただただ涙を流す。
 もちろん社会の不正は糾(ただ)さなければならない。貧しい人には物質的な助けが必要だ。だが、それだけで人が苦しみから救われるとは限らない。人の力ではどうしようもない苦しみ・悩みが、この世にはある。道元はこの映画で、売春婦である赤ん坊の母親にも、幕府の最高権力者の執権にも、同じように救いの手を差し伸べる。共に苦しみ涙を流し、共に座禅を組む。そこには、社会活動と霊性の絶妙なバランスが見える。

 

 道元を演じるのは人気歌舞伎役者の中村勘太郎。冒頭の30分ほどは、セリフのすべてが中国語という難しい役も見事にこなしている。共演者も実力派がそろっている。原作・製作者が曹洞宗系の駒澤大学の総長だけあって、仏教の教義や修行の様子も正確に表現されている。仏教や禅に興味がある人にも、お勧めの映画だ。

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<社会司牧センター柴田幸範>
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