[書評]『死刑-どうして廃止すべきなのか』 【社会司牧通信144号】 |
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前号に引き続き、死刑についての本だ。だが、二つの本のアプローチはまったく異なる。むしろ正反対と言っていいかもしれない。 前回の森達也さんの本は、死刑についてさまざまな人と対話しながら、森さん自身が死刑について自分自身に問いかけ、ついには、日本人が理屈ではなく感情的な問題として死刑を廃止できない現状を、鮮やかに浮かびあがらせた。それに対して、ヨンパルト先生(あえて「先生」と呼びたい。なにしろ、私が大学生だった30年前に、上智大学で教えておられたのだ)の本は、一貫して理性に訴えている。それは、ヨンパルト先生が筋金入りの法学者だからに違いない。本書の前書きにはこう書かれている。
だが、ヨンパルト先生は死刑囚と出会っている。強盗殺人の共犯で死刑を宣告され、獄中でイエズス会の愛宮(ラサール)神父から洗礼を受け、1972年に処刑されたパウロ米田さんだ。一度、死刑囚と出会ったら、「今まで通りに死刑を残しておけばいい」と、他人事のようには考えられない。私が死刑に関わるようになったのも、この社会司牧通信で、ある死刑囚の手記を載せたのがきっかけだった。 本書は日本おける死刑の現状、死刑についての法的・道徳的・キリスト教的議論を紹介する。中には、ヨンパルト先生自身が広島で絞首台を見学した貴重な体験も書かれている。今では、国会議員以外にはほとんど、絞首台を見ることはできない。 その上で、ヨンパルト先生は、なぜ日本は死刑を廃止すべきか、死刑を廃止すると日本はどうなるかを丁寧に説き明かす。ここで詳しく紹介する余裕はないが、その語り口は分かりやすく、はじめて死刑についての本を読む人でも、抵抗なく読むことができる。 |
文庫版でわずか200ページの小さな本だが、そこには30年以上にわたって上智大学で法学を教えてこられた先生の英知がこめられている。 ヨンパルト先生は前書きでこう書いている。
これはきれいごとの理想論ではない。意志に基づき、理性に裏打ちされ、表面的な感情論を突き抜けた、深い愛と信仰の言葉だ。私たちが信仰者であるなら、どうして「悪いやつは死ね」と言って済ませられるだろう。「私たちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします」と毎日祈っているではないか。その信仰と、社会の現実とが別物であっていいはずがない。 日本の死刑廃止運動は正念場を迎えている今こそ、一人でも多くの人に、この本を読んでほしい。 <社会司牧センター柴田幸範>
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