[報告]私の出会った「9条ピースウォーク」 【社会司牧通信144号】 |
|
||||||
岩田鐡夫(カトリック麹町教会信徒) | ||||||
9条ピースウォークの「趣意書」は、こう呼びかけています。
|
この呼びかけに、特に「憲法9条を輝かせる」という言葉に感動して、ほんの短時間でもかかわりたいと思っていました。そのような時に上智大学神学部の光延一郎師を通して4月25日に鎌倉のイエズス会日本殉教者修道院で宿泊の受け入れ、またカトリック麹町教会(聖イグナチオ教会)ヨセフホールで4月30日から3泊のお手伝いをする話に出会いました。
|
|||||
|
||||||
[雪ノ下教会での平和集会]
日本殉教者修道院では、この平和を願う熱い思いに賛同し、27名のピースウォーカーの宿泊を引き受けました。当日の夕食での交流、また翌朝は主聖堂で「平和祈願ミサ」が英隆一朗神父、三浦功神父の他、9条ピースウォークに同行された上智大学神学部:光延一郎神父の3人の司式で捧げられました。ピースウォーカーにはキリストでない方も多く、また外国の方や他宗教の方もいましたので、英語で「主の祈り」を祈ったり、「聖フランシスコの平和の祈り」を取り入れるなどエキュメニカルでとても豊な平和祈願ミサが捧げられました。 また英神父の説教は、タルコフスキーの名作映画『サクリファイス(犠牲)』からの引用でした。言葉を話せなかった少年が再び言葉を話せるようになるまでの1日を描いたこの映画で、少年の父である主人公アレクサンデルは、生命の樹を植える誕生日に、核戦争勃発の声をテレビで聞き、自らの狂気を賭けて、信じていなかった神と対決し、愛する人々を救うために自らを犠牲にささげるサクリファィス(犠牲、献身)を実行したのです。「平和」には、それぞれの立場で犠牲が必要なのだ-と話されたことが強く印象に残りました。
|
私たちの歌を飽きないで聴いてくださり感謝しています。私たちの音楽のテーマは平和と正義と世界をどのような目で見ているかです。私の父は牧師ですからキリスト教の環境で育ちました。先ほどの集りで歌のハーモニーに素晴らしさを楽しんでいました。信仰が生きているなと感じました。私の名前はオプティマスで『楽天』という意味もあります。父は西アフリカの出身でカトリック教会の援助でアメリカに来ることが出来ました。 私はカトリックの学校に入りました。そして言葉を覚えるために道具として音楽を使いました。霊的生活も道具だと思います。それをすべての人に使うと美しいものになります。しかし、あるグループが私の信仰があなたの信仰より大事だというと戦いが始まります。このピースウォークで宗教を超えて対話ができてよかったと思います。私はどんな宗教、霊的生活でも正義と平和を大切にする宗教は尊敬します」
|
|||||
|
||||||
「参加のきっかけは、たまたま偶然、2月23日付けの朝日新聞の朝刊を見たら、9条ピースウォークの募集がありました。個人参加で、お金がかからないし、九州出身なので山陽道・東海道を歩くのも良いかなと思いました。歩くのは自信あったし、平和については憲法9条の話を聞いたり、ピースボートに乗ったり勉強していたので、後は実行だと思い、その日に寝袋を買い、東京駅からその日の夜行バスで広島に行って、2月24日のスタートに間に合いました。自分が行かなきゃ、今やらなきゃ、とも思いました。 外国人とのつながりを思い出します。びっくりしたのはアメリカ人の尼さんがいたこと。それから、ダンサーの恋人がいて、結婚するとかいうオプティマスと、5月に子どもが生まれるエロック、イラクの帰還兵のアシュやベトナム帰還兵アレンとの交流を思い出します。彼らは一様に『平和は大切だ』と言っていました。それから、10年も車を運転していなかったのに、頼まれて車を運転して、前輪を溝に落として困ってしまい、外国人に頼んで引き上げた思い出があります。 警察は全体的に協力的でした。いろいろな市役所に申し入れましたが、市長が出てきたことは少なかった。最初の1週間が辛かったですが、後は歩くのに慣れた。お寺に泊まる予定だったのになかなか見つからず、かなり遅くなってしまったときもありました。名古屋から豊田が長かった気がしました。 泊まった人が一番多かったときは、33人くらいでした。身体障害者の施設にも泊まったことがありましたたが、彼らは『戦争になったら、私たちが一番先に切り捨てられる、だから戦争には反対する』と言っていました。ハンセン病の施設にも泊まりました。(1954年、アメリカの水爆実験で被ばくした、静岡県焼津市の漁船)第五福竜丸で亡くなった方のお墓参りもしました。姫路カトリック教会が立派だと思いました。 9条ピースウォークのシンボル、金色の大きな旗は2つあったんですが、1つは兵庫県で持っていかれてしまい、この9条のシンボルの旗がなくなるとまずいと思い大切に保管していたので、愛着があります。今まで、それぞれの9条の会はあまり交流やつながりがなかったようですが、このピースウォークによってつながり、交流や人間関係ができたのではないでしょうか。それが良かったと思います」 |
「バイトが入っていたりで、参加できない日もありましたが、12日間、9条ピースウォークに参加しました。楽しく、充実した内容の濃い時を過ごさせて頂きました。 何故、参加したのか…と聞かれると明確な答えがみつかりません。ネットで『カトリック中央協議会』からリンクをたどっていく内に『9条ピースウォーク』に行き当たりました。 もし、このウォークが反戦デモだったら参加しなかったと思います。デモというと60・70年代安保、ベトナム反戦、沖縄闘争…等、抗議と闘争は流血と逮捕のイメージが付きまといます。 しかし、このピースウォークは、シュプレヒコールなし! 途中参加、リタイヤもOK! 1日どんなに歩いても約20km。そして一番ひかれた『あなたの行動は私の力、あなたの一歩は私の勇気』という言葉。結果、『何も叫ばずに歩けばいいんだ。それなら私にも出来るかな…』という軽い気持ちで参加しました。 趣意書には、下記のように書いてありました。
|
|||||
|
||||||
現代社会においてキリストの証し人になるとはどういうことでしょうか。 信仰を生きるということは難しい。日々の生活の出来事の中から選び取ること、その選びの基準と動機に信仰が影響してくるのだと私は思います。しかし、その信仰心が揺らいでしまう、高慢心や欲望、無関心などの種々の雑念が気持ちをさえぎってしまうことがあります。だから世界の分裂と痛み、苦しみと叫びに耳を傾けながら、聖書が伝えたいことを一生懸命感じとり、祈り、自分がどのように生きたいのかと考え、向き合い『神さま、世界中に平和がありますように。地球上のもの全てが共存することが日増しに困難となっている今日において、何が正しいのでしょうか。私は何を選んだらいいのですか』と問いかけ、この信念の軸がぶれることのないように生きて行きたい。 今回、いろいろな方と共に歩きながら戦争について、平和について、人生について語り合いました。個人の思想・信条・宗教を尊重しつつも、その枠を超えた交流体験ができ、より一層、キリスト者として、カトリック信者として生きていくとはどういうことなのかを考えるきっかけを頂きました。 幕張で行われた9条世界会議の初日に、ピースウォーカーの一員として舞台に立ち、あれほど多くの方々が、『平和を願う者』としてあの場に居て、世界中に散らばって『平和のための行動』をしているのだと知ることができた今は、私が何らかの『平和の使徒』的生活を選び、行っていく上で大きな支えとなり、力と勇気になっています。ありがとうございました」
「9条世界会議」1日目全体会で9条ピースウォーク参加者たち全員はステージにあがり、若者二人と加藤上人(ウォークリーダー)がスピーチしました。 「以前から私は歩いて旅がしたいと思っていました。そして私は、戦争が一番の環境破壊だと考えていました。今年の2月に新聞の記事でピースウォークのことを知った私は、すぐに参加を決めました。このウォークが終わっても、9条が私たちにとってどんなに大切かを発信していきたいと思います。」(島崎巴さん) 「ウォークに参加する前、私は自分の言葉で9条の大切さを語ることができませんでした。でも、たくさんの人達との交流を通し、実は9条は私たちの生活の中に存在し、日常生活の小さな幸せを支えているのではないかと感じるようになりました。私達は今、この9条を自分達のものにして、守っていかなければならないのだと思います」(鈴木智美さん) |
「藤井日達師の『文明とは』にはこうあります。『文明とは電灯のつくことではない/飛行機のあることでもない/原子爆弾を製造することでもない/文明とは/人を殺さぬことであり/物を壊さぬことであり/戦争をしないことであり/相互に親しむことであり、相互に敬うことである』 聖フランチェスコの『平和の祈り』をご紹介します。
最後に、聖フランシスコの「平和の祈り」で9条ピースウォークの有終の美を飾れたことに深い感動を覚えました。 [加藤上人にTシャツに書いていただいたメッセージ]
|
|||||
===== Copyright ®1997-2007 Jesuit Social Center All Rights Reserved =====
|