「京浜便り(26)」 追悼-根本昭雄神父 【社会司牧通信143号】

阿部 慶太(フランシスコ会)


 この紙面でも何度か紹介した根本昭雄神父(フランシスコ会)が結核性髄膜炎による敗血症、腎不全のため、2月1日午後6時56分、静に息を引き取りました。享年76歳の生涯でした。


 根本師は、1991年南アフリカ共和国(以下南ア)に宣教師として派遣され、アパルトヘイト問題への取り組みや、修練院の担当者として働いた後、AIDSホスピスの聖フランシス・ケア・センターで職員として働くようになりました。
 このケア・センターは、ベッド数が約60と小規模の部類に属するのですが、2003年だけでも、317人の患者がこのケア・センターで亡くなっています。このセンターで末期患者のターミナル・ケアで、多くの患者の最後を看取った働きが評価され、2004年3月には『第32回医療功労賞 海外部門』を受賞しました。
 その後も、南アフリカでのターミナル・ケアに関わり人材の成長を見届けると、AIDS患者数が公表されてはいないものの多くの患者を抱えるロシアへ宣教に行くことを決意し、ケア・センターの定年後の1995年11月ロシアに派遣されました。73歳のときのことです。
 当時、根本師がロシアに行くと聞いたときは驚きました。もう高齢なのだし、今も南アでの患者数は増加しているし、南アでHIV患者の最期を看取ることが社会的にも評価され、一部の患者にしかいきわたらなかったHIVの症状を抑えるARV(抗レトロウイルス療法)も、政府の努力で次第に貧困層に普及し始めており、これからの活動にも注目が集っていたからで、「生き方」の選択とはいえ大きな決断をしたなと感じました。


 出発前に「ロシアに行ったからロシアのことだけ、と言うのではなく、今まで働いた南アとも連帯したいと考えています。HIVの問題は共通する部分だからです。国を超えて連帯できるという部分で」と抱負を語っていた根本師ですが、ロシアでぶつかったのは、制度の壁でした。
 ロシアは宣教師に対して3年ビザの発給を簡単にしてくれないため、働き始めてようやくつながりを持ったと思ったら、現場を離れなくてはならないという繰り返しに、思うように活動できない日々が続きました。
そして、2007年の一時帰国の際、9月に検査で結核に冒されていることが分かり、9月18日清瀬市の複十字病院に転院し、12月に入ってから少しずつ回復し、今年1月7日からはリハビリも始まり、順調な回復と期待されたのですが、1月28日頃から容態が急変し、帰らぬ人となったのです。「志半ばで逝ってしまったな」、というのを、訃報を聞いたときに感じました。しかし、彼の遺志を引き継いで何か活動したいという人々が集まり、3月に新宿区内で追悼集会が行われ、南アフリカの支援グループの結成の動きも出てきました。


 根本師の好きだった言葉に「わたしの働きは大洋の中の一滴の水滴にしか過ぎませんが、生涯、一滴であり続けようと思います」というマザー・テレサの言葉がありますが、帰天してもその一つの遺志が、違う形で花開こうとしています。


根本神父についての過去の記事は以下の通り。
第120号(2004年6月15日)「南アフリカのエイズの現状」
第127号(2005年8月20日)「何故荒野を目指すのか」
第138号(2007年6月15日)「ロシアからの便り」