「書評」 『「尊厳死」に尊厳はあるか』 【社会司牧通信142号】

 

 かつてはよく使われていた「安楽死」(Euthanasia)という言葉だが、今は使われることが少なくなっている。かわりに使われるようになったのが「尊厳死」(Death with dignity)だ。

 「安楽死」が、どちらかというと「苦痛から解放して楽に死なせてほしい」という意味合いなのに対して、「尊厳死」の方は、医療技術の進歩によって、本来なら自然死を迎えているはずの人まで「人間としての尊厳を奪われた状態で、ただ生かされ続けることを拒否する」という意味合いだ。厳密に言えば、「安楽死=がまんできない苦痛から解放される」ことも「尊厳死」の一部と言えるが、「安楽な死」という言葉から、死自体が目的のように誤解されがちだ。その点、「尊厳死」は「尊厳ある生を全うしたい」と、生に重点が置かれているところが好まれているのかもしれない。


 さて、日本でも一定の市民権を得てきた「尊厳死」に対して、一石を投じるのが本書だ。本書は、副題(ある呼吸器外し事件から)が示すとおり、2006年、富山県射水(いみず)市民病院で発覚した、末期患者7人の人工呼吸器取り外し事件を題材にしている。とはいっても、決してセンセーショナルな本ではない。当事者の医師をはじめ、病院長などに直接インタビューし、大量の資料も読み込んで、事件の背景を丁寧に分析している。

 著者は37年前に乳ガンの手術を受け、30年以上前から医療倫理、特に「安楽死」の問題を追い続けてきたジャーナリストだ。肺ガンの夫を含む多くの人の闘病生活と死を見てきた彼女は、「何が尊厳のある生で、尊厳のある死か」簡単には言い切れないと、率直に告白している。複雑な人間の生と死を扱う生命倫理の分野で、特に脳死や臓器移植をめぐって、勇ましくて大ざっぱな議論が幅を利かせる今、著者のような誠実な態度こそが求められる。


 射水市民病院の事件とは、外科部長の医師が2000~05年の間に、7人の末期患者から人工呼吸器を外していたことが明らかになった件だ。同病院は当時、ベテラン看護師をリスクマネージャーとして副院長に招いて、医療事故防止体制を確立しようとしていた。
そこで、事件発覚後すぐに外科部長に、診療停止などの厳しい対応をとった。外科部長は処分を不服として、自らマスコミに登場して、病院や射水市と闘う姿勢を見せた。マスコミも「尊厳死問題に一石を投じた赤ひげ医師」と持ち上げ、議論はやがて、厚生労働省の「終末期医療のガイドライン」づくりにまで発展していく。

 だが、著者によれば、外科部長本人には、尊厳死への深い理解がなかった上に、患者に対する「保護者的態度(paternalism)」が強く、少しでも可能性があれば手術に頼りたがる傾向があったという。つまり、この事件で一番問題だったのは、当事者の医師の古い体質そのものだったといえる。著者は、このような医師の体質や地方病院の状況は、実は日本各地にありうるとしている。尊厳死をめぐる議論でいちばん怖いのは、こうした終末期医療の現実や、地域間の医療格差をきちんと見ずに、終末期医療のガイドライン作りが進められていることだ。そこでなされる議論は、臓器移植や医療費の抑制、医師の免責といった「生きる側の都合」で、「死にゆく人」が「本当に尊厳ある最期だった」と納得できたかどうかは問題とされていない、と著者は言う。

 尊厳死や終末期医療と言うと、いかにも専門的な世界のようだが、結局は一人ひとりの患者の生と死の問題だ。だからこそ、素人でも発言できるし、また発言しなければならない。医療倫理とは、経済や法律の問題である以前に、人間の問題なのだ。「良く生きない者は、良い死を迎えられない」。この金言を、私たちはもう一度良くかみしめる必要があるのではないだろうか。
<社会司牧センター柴田幸範>