【社会司牧通信 141号 2007/12/15】 |
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死刑制度に反対する運動を続けていくうちに、裁判員制度の問題に興味を持つようになった。というのも、裁判員制度の対象となるのが、死刑に相当する重大犯罪であるというのが一つの理由だ。だが、それ以上に大きな理由は、裁判員制度が私たち市民に、「裁判とどう向き合い、どう関わるのか」を問いかけているからだ。 法務省は、死刑存続の最大の理由を、「死刑を支持する国民感情だ」と言うが、それは積極的な支持というよりも、むしろ裁判を他人事としか感じていない結果のように思える。ドラマを見るように犯罪報道を見て、被害者に同情し、加害者を憎み、リンチのように「死刑」を求める今日の日本社会。気楽な第三者の立場を享受する私たちを、裁判員制度は根本から問いなおす。 2009年の裁判員制度スタートまで、ついに2年を切ってしまった。だが、正直言って、私自身、裁判員制度をよく知っているとは言いがたい。そこで、にわか勉強ながら3冊の本を読んでみた。 2冊目は、『裁判員制度』(平凡社新書、2004年、720円+税)。この本は、裁判員制度と陪審制度(裁判官を含まず市民だけで評決する)・参審制度(市民が裁判官と協力して評議する)の比較、 |
とにかく2年後、裁判員制度はスタートする。ドラマではなく現実に、私たちは裁判に参加し、人を裁く。その時、私たちの良心や法意識、他人への想像力、人間性が試される。だからこそ、私たちは司法をめぐるさまざまな問題を、他人事ではなく自分のこととして考えていかなければならない。そのきっかけとなるなら、それだけでも裁判員制度導入の意味はあるのではないか。西野氏が言うように、「素人の参加が刑事裁判の崩壊につながる」のかどうかは、私たち自身にかかっている。 【イエズス会社会司牧センター/柴田幸範】 |
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