【社会司牧通信 141号 2007/12/15】
茭口公喜(こもぐちただよし)(広島学院中・高等学校教諭)
 ローマでの休日
 JRS(イエズス会難民サービス)は1980年、「他者のための人間」像を顕現化すべく、広島の修道院から日本管区長を経てイエズス会総長、すなわち、イエズス会創始者イグナチオの後継者に就任したペドロ・アルペ神父により設立された。戦火や飢饉を逃れ命からがら国境線を越えて避難してきた難民を、カトリックの使命感に則って手助けをする機関である。「一緒に」「仕える」「代弁する」をモットーに活動をしている。

 イエズス会の総本山ジェズ教会の裏手、地下にJRSローマがあり、またローマの難民センターでもある。小さなチャペルの入り口には、ロバに乗ったイエスのモザイクがある。「ヨセフとマリアに連れられたイエス自身も難民です。さあ、皆さんも元気を出しなさいというメッセージが込められています」と、JRSインターナショナル・チーフのマグリーニャ神父が微笑んで見上げておられた。

[JRSのマーク] [イエスも難民]

 ここで、アフガニスタンやイラクからの難民に給食のサービスを行なっている。小さな診療室もあり、ボランティアの医師が二人来てくれるという。午後4時から約400名分の食事を食べさせている。この給仕の手伝いができないか訊いてみたが、基本的にはイタリア語で行なうゆえに、苦労しそうということで見送ることになった、残念。マグリーニャ神父はJRSイタリアのチーフのジョバンニ神父とミラノとジェノバに開設した難民センターについての話をしている。マグリーニャ神父は昨夜11時にジェノバから帰ってきたばかりである。
こういう献身的な働きによって多くの人が助かり、希望を見いだせる。何とやり甲斐のある仕事だろう。しかし、それこそ神様の恩寵、才能がないとできない仕事ではある。マグリーニャ神父は2つの学位を持ち、母国語のスペイン語とラテン語、ポルトガル語、ドイツ語、フランス語そして英語、イタリア語を理解し、話す。話すといっても内容は世界の難民のことであるから、政治・経済の専門用語や地理や民族の知識の上にある、その土地土地のスタッフと難民の細やかな感情を汲んでの会話である。これは、手伝えるはずもない。自分にできることだけをしよう…。

 ケニヤの難民キャンプ

 具体的に難民キャンプに行くお話。難民キャンプは観光地ではない。そもそも就航便自体、国連か国連難民高等弁務官事務所のどちらかの定期便である。乗せてもらうのに目的や身分証明などの手続きが必要。一般路線で行くとすれば、最寄りの空港はロキチョキオ。ロキチョキオから難民キャンプへはどうやっていくか? タクシーで行こうと思っても、ドライバーに断わられる。低木がぱらぱらとしか見られない地平線まで続く平らな土地。そこにまっすぐに伸びる1本の道路。視力3とか4という双眼鏡のような目で見れば、遥か彼方から来る自動車に気づくのは難しくない。道路に石を並べれば作業完了。止まった車から石を退かそうと降りてきた運転手を銃で撃ち車ごと奪う。これが、盗賊の手口らしい。それを避けるためには、国連と警察の護衛をつけて5台以上で連れ立って移動する。これをコンボイと呼んでいる。私の乗った車には弾痕と思しきものが2箇所あった。

[国連とのコンボイ] [無惨に壊れた車]
 難民キャンプも時が経ち、その様相は変わっていく。何とか緊急の命の危機的な状況・飢餓や疫病が一段落すると、全体のシステムが整備される。住むところ、上水・下水など、食糧の供給システムとルール。治安の管理・病院、学校などの施設の設立。現在のキャンプの円滑な維持と共に、難民の帰国後の祖国再建という問題を希望的に解決しない限り、難民は帰る術も無くただそこに生活するだけになる。JRSは、教育に関わることと共に、難民の抱えるトラウマの緩和・除去に大きく貢献している。祖国が落ち着きを取り戻し、命の危険が去ったら、難民は祖国に帰る。教育を受けておかないと国の再建などという大きな夢は叶わない。JRSは初等教育のみならず、中等・高等教育にパイプを持ち、援助を続ける。再建に必要なのは高等教育を身に付けた人材の育成である。教育の機会が初等教育を終了した時点でなくなる事が多いのは事実。JRSは、中等高等教育の機会を与えている。しかし、このこの教育が新たな問題を生んでいる。祖国は、命の危険はなくなっても教育施設が無い。仮にあったとしてもそのカリキュラムに整合性が無ければ、今までの教育は無駄になる。そこでJRSは、祖国側にも同じカリキュラムの学校をつくるように計画を進めている。

 ただ、直接、難民キャンプへの援助という側面が薄れて、見ようによっては、運営によっては、難民へのサービスの枠を大きく出てしまい、直接国の再建の援助の側面を持ち、ハードとソフトの両面から莫大な資金や人材が必要になる。キャンプが運営されてしばらくすると、キャンプの中での民族問題・争いごとが表面化してくる。命からがら逃げてきたのは良いが、気がつけば自分をこのような状況に追いやった連中がキャンプ内にいる。また、言葉・信条・生活習慣などが混在するキャンプ内には数々の問題が存在するが、第三者が正論のみでこれを解決出来ようはずも無く、問題は水面下へ潜っていく。『おまえはお客さんだから、ここの連中(国連やJRSのスタッフ)は絶対言わないだろうけど、ここは恐ろしいところだぜ…』、そういう前置きで語ってくれたことは、事実かどうかの確認のしようも無いことだが、彼らの表情にはそれを真実だと思わせるに足る迫力があった…。

 また、携帯電話の普及により問題の即時発見や対処が容易になった反面、スタッフに多くの負担がかかるようになってきた。それぞれが現場で解決することよりも、判断を仰ぐことにより正しい判断ができる可能性があると同時に、責任の転嫁も容易になり、現場での臨機応変な対応を阻害する事例も見当たるようになってきた。また、電話は殆どが「ワン切り」(電話をかけて、呼び出し音を1回だけ鳴らして電話を切り、相手がかけ直してくるのを待つこと)だという。着信音がして、ナンバーが難民からのものであれば、掛けなおさない訳にはいかないという。そのための電話代はかなり高額になり、彼らを圧迫している。
 そして、ある程度安定したキャンプにつきものの恐ろしい問題、つまり、「予算の削減」。また、新たな問題の中でも鳥インフルエンザは、よりによってこの過酷なキャンプ場の近くで発見された…。
[鳥インフルエンザの警戒看板]

 難民キャンプは、どんなところに作るのだろうか。国境付近であることは必要だが、住むための条件の良いところでは決して無いはずだ。良い条件のところにはすでに人が住んでいる。「今日からここを難民キャンプにするから皆立ち退きなさい」と言って問題が起こらないはずがない。したがって先住民の権利の大きなところには難民キャンプはできない。全くの無人地区はありえないだろうが、それに近いところが選ばれる。

 トゥルカナ地方は乾燥地帯で平均気温40℃といわれる厳しい自然環境。トゥルカナ族が細々と放牧をしている地域である。そこに難民キャンプが出来た。トゥルカナ民族への相談は…、無かった。そのカクマがだんだん大きくなって今や8万人を越す人口である。幅1km長さ15kmの難民キャンプの人口密度はかなり大きいし、人口はケニヤで4番目に多い町(?)である。

 もともと人があまり住まなかったのは、水が無いからである。そこへ8万人もの人が住むとなると、莫大な量の水が必要になる。とはいえ、もともと水のないところなのだから、住民の要求どおりに水を供給できるはずがない。時間による給水制限は始めからあり、水がなくなったからやっているわけではない。給水は、コミュニティーごと1時間。蛇口はわずか2つ。これが、約200人のコミュニティーの住人を生かしている。時間前にはたくさんのポリタンクが給水所に並ぶ。1時間で、さらに給水時間が始まってから集まってくるポリタンクすべてを水で満たすことは不可能だ。そもそも、ポリタンクのいくつかは前日からそこにある、すなわち前日の未供給分なのだ。

[水の配給は1時間]
 では、前日水がもらえなかった人たちはどうしたのだろうか? 近所からのもらい水しかない。お互いに助け合っていかないとキャンプでの生活は成り立たないのだ。難民の中には祖国での迫害や逃げる途中の苦労から、ハンディを背負っている人は少なくない。コミュニティーは、それぞれの事情をすっぽり飲み込む余裕がないと成り立たない。もともと良好な関係があったわけでもない住民同士のコミュニティーに、その余裕を求めるのも酷な事かも知れない。

 強い日差しの中、そこに並んで水を汲み溜めているのは、女性や子どもである。子どもは重要な働き手。「学校は?」という心配よりも、水がないと生活が成り立たないという心配の優先順位の方が高い。そして、持ってみると分かるが、女性や子どもには水は重すぎる。重いポリタンクを持って、炎天下に住む所に戻る姿は、多くの課題を抱えながら自国に戻りゆく彼らの姿に重なるところが多い。

 給水塔に上る許可をもらった。はしごで15m程上るのだが、鉄筋のはしごを握る手が汗ですべる…恐ろしい。高所恐怖症ではない、はしごが貧弱でさびているのだ。

[給水塔に上る] [給水塔から見たキャンプ]

 何とか上り、難民キャンプを見おろして、驚いた。緑が豊かなのである。コミュニティーや家族毎の家の境界は明白である。植物が生い茂っているのだ。十分ではないにしても、8万人の人が生きていくだけの水は、どこからか持ってきているのである。植物の無い乾燥地帯も、人の生活の影響で緑が増えていくのだなあと、降りるときのことを考えないようにしながら、給水塔からの風景を楽しんだ。

[乾燥したカクマの土地] [緑豊かな難民キャンプ]
 あるソマリア人の話
 現地JRSの取り計らいで、家庭訪問カウンセリングサービスに同行させてもらった。理由も無く祖国を、故郷を捨てる者はいない。その事情がトラウマになっては、厳しい環境での復興は土台無理な話。トラウマを取り除くべくカウンセリングを施す団体は他に無い。難民キャンプの過酷な環境と生活リズムに合わせて、家庭訪問のカウンセリングサービスは、とても重要な役割を担っている。
 あるソマリア人の家族を訪問した。母親がカウンセリングを申し込んだのだ。夫が寝たきりで動けないので、デイケアセンターに行けないという。刺のある木で作られた垣根に囲まれて、親子5人が暮らす家があった。この暑いのに、直射日光の当るところに男性が毛布をかぶって横になっている。この家の主だが、国から逃げる途中背骨を痛めてしまったという。一度は回復に向かったが、無理をして再び痛めてしまい、それ以降は寝たきりである。そこで、力仕事から家事・看護、子どもの世話までをすべて、この母親がひとりで切り盛りしている。国に帰る算段や子どもの将来などを案ずる暇もなく、ただ看病と日々の生活に明け暮れている。その過労・心労のツケが彼女に回ってくる。目が見えにくい。このままだと目がみえなくなるという不安と、家をどうすればいいのかという不安が彼女を襲い、眠れない…。目の病院に行きたいが、時間を作れないし、お金がない。カウンセラーは、ただ話を聞くだけである。自身も難民の身であれば差し出す援助の手もない。
 次に訪れたのは、やはりソマリアから来た人の家。通りに面した小さな家は、雨が降ったら泥水が押し寄せてくるという。この家は国連により与えられたものではなく、空き家になっていたので勝手に移り住んだらしい。夫もソマリア人で、数kmはなれたところに、彼の両親らとコミュニティーを形成していた。夫はエイズを発症し、「妻と子供を追い出した」らしい。その時、妻と子供の食料の配給台帳等はくれなかったという。妻や子に病気をうつしたくなかったのか、病気の治療にかかる負担を妻子の分の食料を売ることによる収入でカバーしようとしたのか、どちらかだろうとカウンセラーは言っていた。しかし、配給がないまま出て行けということは死ねと言っているようなものだ。

[生活は困難を極める] [ストレスは一気に母親に]
 子供は3人。11歳の長女は元気だが、次女とその弟は何か様子がおかしい。JRSスタッフは、「多分二人はエイズだと思う」と言う。皆HIV検査にも行っていない。結果を知るのが怖いから行かない。育ち盛りの子供をかかえて、食糧の配給も受けられない。国連に話をしても、「家庭の問題」と請け合わない。しかし、正論を言っても現実的には何の解決にもならない。カウンセラーもトラウマとか心の傷とかではなく、現実の解決すべき難問を突きつけられ、為す術がない。彼はよきサマリア人になりたくても話を聞くことしかできないことを情けないと感じたようだが、自らも難民の身でありながら人に何かしてあげられない自分に傷つくこの人々に深い敬意を感じた。

 後日、難民キャンプ内の人々に別れを告げに来たときに、再び目の悪いソマリアのおばさんにあった。「目の調子はいかがですか?」と訊くと、「目はね、メガネを作れば良いだけの話なんだけど、お金がないのよ。カウンセラーに言えば、JRSが『メガネを作りなさい』って援助してくれるかなと思ったのよ」とサバサバした調子で言っていた。「何もしてあげられなくてすみません。このソマリアの親子の相談相手になってください」とお願いしたら、「もちろんよ」とこれまた明るく答えてくれた。私とて、話を聞く以外に何もしてあげられなかったのに、「また、来るのよ。きっとよ」と言ってくれた。

 メリーさん
 メリーを見た瞬間、何も訊かなくてもわかることがある。心に深い傷をおい、それは言葉や物ではどうしようもないものだということ。名前を聞くとその名が自分にとっても心の傷になるような気がしたから、できれば、名前を知りたくなかったが、連れて行ってくれたJRSのスタッフからメリーと聞かされた。彼女が10歳の時スーダンで村が襲われた。両親を撃ち殺され、彼女も背中を撃たれた。倒れた彼女の胴の部分は焼け爛れ、両足の自由を失ってしまった。親戚も皆やられた。ケニヤとの国境付近の病院で3年間過ごした後、難民として今カクマにいる。カクマの環境は彼女には辛すぎる。希望も望みももはや無いと言う。身寄りも無く、スーダンでの村人の生き残りの人々と同じコミュニティーに入れてもらっている。彼女には村の人も親切にしてくれるらしい。
 彼女にはJRSの特別支援奨学金が施されている。19歳の今、小学校の7年生である。遅ればせながら彼女は学校に通い始めた。彼女が自立を果たすことが出来るとすれば、軽度のデスクワークである。勉強では生物が好きだという彼女に「医者になれたらいいね。人の痛みのわかる良いお医者さんになるだろうに」と伝えたら、寂しそうに「そうですね。そうなれたらいいですね…」と答えたが、言葉には実現に向かうエネルギーは感じられなかった。「私にはスーダンに知り合いもいません。このキャンプが閉鎖にでもなったら私はどこに行けばいいのか全くわかりません。少しでも勉強して、タイピストにでもなれたら何とか生きて行けるかしら…」。これから先コンピュータプログラマーなら必要だが、果たしてタイピストが必要なのだろうか。しかし、彼女に具体的な自立の道は他に思いつかないのだ。
 ちょうど授業が終わり、彼女は松葉杖をついて帰途についた。細い腕、細い体で一生懸命に松葉杖をつく。後日、JRSの施設で彼女に会った。小学校の制服と違い、民族衣装を着ている彼女はとても綺麗だった。

[民族衣装のメリーさん] [歩いて帰るメリーさん]

 ナイロビの難民
 ナイロビでのことである。もともと許容範囲の小さな私は、これ以上は消化できないのではと思っていたが、最後の力を振り絞ってナイロビ市内のスラムを訪れることにした。案内してくださるのは、JRS「教区内極貧救済部門」の担当シスター・マーシー。彼女の元を訪れていたエチオピアからの難民女性とその2歳の子供の家を訪問する。この時期、ナイロビには良く雨が降る。排水の悪い道路は泥の川になり、交通は大渋滞、水溜ができ、マラリア蚊が大発生する。足元に気をつけてシスターの後を追う。小さな路地に面した古い建物のひとつに入り、狭い階段を4階まで上る。ドアらしいドアの無い3畳程度の部屋が、親子の家である。窓が1箇所あり、窓ガラスは無い。正方形の穴が開いているだけだ。当然蚊の襲来を防ぐ手立てはない。家具は、ベッドと小さなタンスがひとつ。水道やトイレは無論ない。聖書と薬のビンが棚の上にある。難民男性と結婚し、2年前に出産。男は他に女を作って出て行った。2人は教会に救いを求めた。洗濯物を預かっては手間賃をもらうのが唯一の収入。体の調子が悪く、洗濯物も預かれない。最近夜は寒いし、蚊帳を買うお金も無い…。棚の上の薬は、配給されているエイズの進行を遅らせる薬らしい。「子どもも…HIV陽性ですか?」と訊いた。幸い子供はHIV陰性。「この母親の2年後の生存確率は限りなくゼロに近いのでは?」「多分そうでしょう」「……」シスターも目を覆うのみ。この状況をどう収めるのか、どう解決すればいいのか。やるせなさ、せつなさ、怒り、諦観…色々な感情が頭を巡り、混乱していた私の耳に聞こえたのは、シスター・マーシーの「祈りましょう…」という言葉だった。2人とも聖書に手を置いて祈っている。只静かに祈り、出口の見えない絶望に立ち向かっている。この逆境にあって、この人たちは強い。私の旅はこの、「これが信仰か…」という驚きで幕を下ろした。

[家庭訪問した難民の親子] [子どもは2歳]
[カクマキャンプ遠景]