【社会司牧通信 139号 2007/7/20】  
阿部 慶太(フランシスコ会)
 以前もこの紙面で取り上げましたが、大阪市生野区で活動を続ける『生野オモニハッキョ』(母親学校の意味)は7月に30周年を迎えました。
 この30年の歩みは、在日韓国人(以下「在日」)への識字活動と多くの在日外国人居住地区における地域活動の歴史といえます。それは、民間の在日への識字活動で最も古く、地域で始まった活動だからです。
 オモニハッキョは、1977年の春に生野地域問題懇談会で、在日一世のオモニから、「生野区内に文字を学ぶ場がなく、字を学ぶことのできない人がたくさんいる」という問題提起を受け、同年7月、区内の日本基督教団聖和教会で、『生野識字学校』(オモニハッキョの前身)が始まりました。
 数人のオモニと10人ほどのスタッフが、大阪聖和教会の礼拝堂を教室にして授業を始め、その後、口コミでオモニの数は増え、教室が足りないほどになり、最盛期にはオモニ80人以上、スタッフも30人以上の大所帯になりました。
 やがて、スタッフ間の運営方針の相違や意見の対立がオモニを巻き込むようになり、ハッキョの存続が脅かされた時代もありました。時代的に、指紋押捺制度反対運動や民族差別に反対する運動が激しく、運動に関わる人も多かったのも理由の一つとして挙げられます。
 当時、オモニや多くのスタッフもハッキョから離れましたが、ハッキョを通じて生野の地域に集まった多くの活動家や人材が、後に地域活動に転じることになりました。この間にオモニの数が減少した時代もありましたが、1997年には、48人のオモニと20人前後のスタッフで20周年を迎え、現在も、同じくらいのオモニやスタッフがハッキョに参加しています。
 生野区は人口約15万人のうち4万人以上の在日が居住し、1990年代の資料によると、15歳以上の未就学者の比率が高く、その多くが在日の女性でした。女性に読み書きできない人が多かったのは、「女に学問は必要ない」という母国の儒教思想の影響もありました。
 1990年代まで、在日一世・二世のオモニは、様々な理由で日本定住の後、教育を受ける機会がなく、義務教育制度の導入後も民族差別や貧困のために就学できなかった、というケースが多く、さらに、「女に学問は必要ない」とい母国の儒教思想もそれらを助長するなど、字を学び始めたのが高齢になってからというオモニが全体の2/3を占めていました。
 残り1/3は在日との結婚などで韓国から日本に来たオモニで、90年代後半から増加し、現在、その数は全体の8割以上です。学ぶ理由も日本語主体の在日社会で不便を感じ、教室に来るケースが多いようです。また、アイデンティティーや民族のメンタリティー、教育レベルも一世、二世とは大きく異なります。
 ハッキョ創設当時のオモニたちは、読み書きできないことから、交通機関の利用、病院、役所での手続きなど、不自由さや精神的なプレッシャーを感じていました。しかし、文字を学ぶことで、行動範囲の広がりと、気持ちを文字で表現できる喜びも獲得しました。また、ハッキョでは通名(日本名)ではなく本名で呼びあうため、本名で過ごす時間は、自分を取り戻す時間にもなりました。
 さて、ペルセポリス宣言(1975年)には「識字は人間解放に向けた唯一の手段ではないがあらゆる社会変革にとっての基本的条件である」とありますが、オモニたちは生野の地域社会を変える役割の一端を担いました。文字を学ぶ以前は遠慮していた民団(大韓民国居留民団)や民族教育促進協議会の活動に参加、指紋押捺裁判への支援など、文字を学び生き方も変わっていったからです。
 1977年、聖和教会の礼拝堂で始まったオモニハッキョの後、これを受けて京都、川崎などの在日が多く居住する地域に、次々とオモニハッキョが誕生していったのは、こうした生野区の活動が実を結んだからだといえます。