【社会司牧通信 138号 2007/6/15】
 この映画のことを知ったきっかけは、新聞記事だった。2006年のアカデミー賞外国語映画賞を受賞し、アムネスティ・インターナショナル日本や日本国際ボランティアセンターなどが後援している『ツォツィ』という映画が、日本で「R―15」(15歳未満鑑賞禁止)指定を受けたという新聞記事だった。南アフリカのスラムを舞台に、罪を犯した少年の更生を描いて、日本の子どもたちにも貧困と犯罪について考えさせる映画なのに、当の子どもたちは見ることができない―という皮肉な結果に、逆に興味を覚えたのだ。
 ところが、実際にこの映画を見て、そうしたいきさつなどどうでもよいほど感動した。といっても、ありきたりの感動ではない。「これは…」という善人が出てくるわけでもないし、クライマックスに英雄的な行動が待っているわけでもない。登場人物の誰もが、怒り、迷い、おびえながら、おずおずと行動している。唯一素直で明るいのは、物語の鍵となる、誘拐された赤ん坊だけだ。にもかかわらず、登場人物たちはなぜか魅力的で、共感を覚えるのだ。
 映画は冒頭から殺人の場面で始まる。アパルトヘイト(人種隔離政策)廃止から十数年。今も多くの黒人が暮らすスラム街の住人である、主人公のツォツィ(南アフリカのスラングで「不良」の意味)と仲間たちは、電車の中で老紳士から金を奪おうとして、相手を刺し殺してしまう。この事件をきっかけに仲間を殴って半殺しにしたツォツィは、高級住宅街で車を奪おうとして女性を銃で撃ち、逃走するが、車の中には赤ん坊がいた。自らもつらい少年時代を送って、ストリート・チルドレンとなったツォツィは、この赤ん坊を捨てるに捨てられず、面倒を見るうちに、いつしか彼の心に変化が生まれてきた…
 あまりストーリーを説明すると、楽しみがなくなってしまう。この映画の魅力は、ストーリーよりも、画面に映る南アフリカのスラムの様子と、登場人物をリアルに演じる俳優たちだ。原作は南アフリカの脚本家、アソル・フガール(Athol Fugard)が、アパルトヘイト真っ盛りの1960年代に書いた小説だが、映画では、時代は現代に改められている。 大都会市のすぐとなりに広がる広大なスラム。掘っ立て小屋の2階にある、たった一間の部屋で暮らす主人公。盗難車を買い上げ、解体して売るギャング。
バーでクワイト(kwaito)という、南アフリカ独特の流行音楽に乗って、踊りまくる人々。夫を強盗に殺され、赤ん坊を抱えてたくましく生きる若い母親。郊外にオートロックの邸宅を持ち、ワインを山のように所有する黒人の金持ち。鉱山で事故に遭って足が不自由になり、駅で物乞いをする老人。白人のボスに付き添って、スラムの住民を怒鳴り散らす黒人の警官。主人公がかつて住んでいた土管に、集団で暮らす子どもたち。監督・スタッフ・俳優のすべてが南アフリカ出身者で作られたこの映画は、南アフリカの「今」を、圧倒的なリアリティを持って、私たちに見せてくれる。


 とはいっても、この映画は堅苦しいドキュメンタリーではない。俳優たちはみんな個性的で、忘れがたい演技を見せてくれるし、音楽はゴキゲンだ。たしかに暴力シーンは迫力があるが、暴力そのものを売り物にした映画でないことは、誰にでも分かる。むしろ、日本のテレビ番組の方が、よっぽど暴力的で有害だ。この映画が「R―15」指定になったのが、つくづく残念だ。
 誰も聖人ではないし、誰も悪魔ではない。生まれる場所や親は選べないが、生き方は選べる。「ごめんなさい」…その一言からはじまる回心の物語こそ、この映画のメッセージだ。

【イエズス会社会司牧センター/柴田幸範】



『ツォツィ』日本公式サイト
http://www.tsotsi-movie.com/
東京での上映は終了しました。
今夏、各地の東宝系劇場で順次公開予定です。