【社会司牧通信 136号 2007/2/15】
 光延 一郎(イエズス会司祭)
ブックレットづくり
 昨年の春、国会で教育基本法が変えられそうだということになり、イエズス会社会使徒職委員会としても「なにかできることをしなければ」ということで、憲法・教育基本法タスクチームの名前で『憲法・教育基本法を考える―福音的視点から―』というブックレットをつくりました。教育基本法という理念法を変えるのは、憲法改定をねらってのことであり、それは日本社会の思想的根底を覆す一大事です。それでわたしは、ふだんは神学教育や研究という抽象世界にいるのですが「ここは踏ん張らねば」と社会に踏み出してみたわけです。出来上がったブックレットは、せいぜい3~400人に読んでいただければ上出来かと思っていたところ、思わぬ反響を呼んで最終的には2800部まで増刷されたそうです。もちろん全国民のスケールからすれば微小ですが、この問題は、絶対マイノリティーのカトリック教会においても人々の関心を喚起するテーマなのだということを実感しました。
 その後、11月に公表された社会司教委員会による懸念声明の作成にも少しかかわったので、わたし自身としても「自分の言葉に責任を持たねば…」との気持ちから、12月の採決の頃には国会前の集会に連日通っていました。デモとか政治運動にかかわった経験はこれまでほとんどありませんでしたが、今度ばかりは放っておけない、譲れないという思いが心の底からこみ上げてくるのを感じていました。国会前の集会に思い切って行ってみると、同じような思いの市民がたくさん来ているのがわかり、励まされました。
 「教育基本法改悪反対全国連絡会議」(通称「あんころ」)という、大学の先生などが呼びかけ人になっている市民団体が、ネットを通じて運動を盛り上げていたし、ヒューマンチェーンというような形での集まりも工夫されたので、わたし同様「ノンポリ。でも今回だけは…」という人々も気安く参加できたのだと思います。こういうネットを通じて多くの市民を目覚めさせ連帯させるというやり方は、これからの市民的な政治運動の有力な手法になるのではないかと思いました。なにより、何万もの人々と身近な実感をネットを通じて共有できることが良いと思いました。

やむにやまれぬ市民の声
 たとえばわたしは《あんころブログ》に投稿されていた一つの書き込みにとても共感しました。以下、引用です。

 「…今日、国会に到着できたのが5時半すぎ。いつものように地下鉄の入口で新聞を配っているおじさんが、『6時から7時に採決すると言っています』と、教えてくれました。参議院会館の通りに出ると、かつてない緊迫感をすぐ感じました。歩道を埋め尽くした千人ぐらいの人々が、それこそ狂ったように、間断なくシュプレヒコールの石つぶてを国会めがけてぶつけていました。『改悪を許さないぞー!!』『強行採決を許さないぞー!!』。高校生にも分かるような汚いやり方で、世論を偽造しようとしたタウンミーティング。
首相もいない委員会での強行採決。そして今日、野党が内閣不信任案を出したとき、自民党からはものすごいやじが飛び、せせら笑う声まであったと言います。連日通ってこられたミュージシャンのZAKIさんは、『みんな、おれたちは負けたんじゃないからな。世論は圧倒的多数で、勝っているんだから』と、いつもより力を入れて教育基本法改悪反対のラップの入った歌を歌ってくれました。…呼びかけ人の三宅晶子(千葉大学)さんも大内和裕(松山大学)さんも『今日が新たな闘い第一歩だ』と言いました。『私たちは、このたびの行動で、子どもたちの基本的人権を守ることの大切さをますます深く認識し合った』と。そして『ここに集うお互いの信頼関係を大切にして、これからも頑張っていこう』と確認し合いました。
 首相官邸に向かうとき、警官が例によって『旗を降ろしてください』と言っていました。いつもは無言の人が多いのですが、この日はみんな『降ろすくらいなら最初から上げるものか!』とか『うるさい、だまれ』などと言い、警官も私たちの怒りの気迫に完全に圧倒されていました。『旗を降ろして』という警官に、いつもは淑女の私も、思わず『安倍を先に降ろしてよ』と言っていました。そばにいた、やはり淑女らしき方も、私につられ、『そうよ、安倍を降ろしたら、旗を降ろしてやるわよ』と言っていました。
 国会に何度も通い、お金も使いました。けれども今回の『初めてのことばかり』の体験の中で、あそこでしか学べないことがたくさんあることを知りました。これからも、どんどん国会へ行こうと思います。新聞もマスコミも、国民をなめているし、これからはそれらを当てにせずに、自分の足を使い、耳を使って情報を集めようと思います。自らがインターネットを駆使して、発信元になろうと思います。
 不当なものと闘いながら生きている人の真っ当なすばらしさ、それは、国会前で私が知った、最も大きな宝物です。」

 大新聞やテレビなどの一般マスコミの反応が、今回の法改定についてとても鈍かったことは、多くの人が指摘していますが、ネット上では「ビデオプレスTV」(http://vpress.la.coocan.jp/vptv.html) などのサイトが、テレビや新聞が全然報道しなかった「やむにやまれぬ」思いで国会前に集まってきた市民の声や様子を映像で伝えていました。その中で歌われていた「上を向いて歩こう」の替え歌は、改悪採決されてしまった日に国会前に集まった人々の気持ちをそのまま歌っていると思います。「…前を向いて歩こう/涙がこぼれたっていいじゃないか/泣きながら歩く/ひとりぼっちじゃなかった夜…」

ゼロからスタート
 わたしは、政治活動というよりも宗教者の巡礼として参加しているつもりだったので、国会前では、お遍路巡礼の白衣スタイルで、背中に「上智大学およびカトリック・教育基本法改悪反対連絡会」と書いて歩いていました(…サッカー試合に応援チームのシャツを着て行くサポーターのノリ…)。けれども「連絡会」とはいえ、そこで連絡できたのは2、3のシスターだけでした。プロテスタント系の人々は少数見受けましたが、カトリックはやっぱり弱いなという実感です。今回の強行採決を経て思ったのは、今の国会状況では、いくら良心的で理に適った意見を述べても、議席がないならまったく無力だし、そして数で勝る権力は、自分の意思を実行するために最高の装置(官僚・マスコミ統制・警察…etc.)をもっていて、国民はその前ではバラバラにされ、まったく無力であることを思い知らされたということです。それでわたしは、やはりこういう問題について権力を監視していくためには、やむにやまれぬ思いをもつ個々の市民の声を響き合わせるために、なんらかの機動的なグループをつくり連絡しあっていかねばならぬと痛感したわけなのです。
 そこからわたしは3日後に復活したイエスではありませんが、1日敗北感に沈んだ後、起き上がって一つの決心をしました。つまり良心的な市民の声なき声に答えるために、
今後も教育基本法・憲法改悪へのとりくみを継続して、ブックレットの続編・続続編までも出す。
ネット時代なので、この問題についてのサイトやブログを立ち上げて、情報交換と連絡を密にする。
研究会などを行う。
…ということをやっていこうと考えたわけです。
この世を覆う魔の力
 安倍政権が、彼らの一番だいじな支持者から求められている最終的な課題とは、グローバル化した世界市場の中で、日本がアメリカと共同歩調をとって勝ち馬に乗り続けるということでしょう。そこにナショナリズムが入ってくるのは、そもそもアクセルを踏みながらブレーキを踏んでいるような無理がありますが、それは新自由主義を推し進めるという至上命令のために、上からの指図ならどんなことにも従う(軍人を含めた)単純労働力を確保できるよう、国民を権威的に押さえつけて束ねるという意図が後付けされているからでしょう。結局、ゴールはどう考えても、アメリカと共にパワーとマネーを保持し続けたい人々の「憲法九条殺し」です。武力のプレゼンスを背景にして世界中で金儲けをしたいのです。武力と金力を振り回して政治や経済を推し進めるなら、その歪みやツケは必ず貧しい人々、弱い人にまわされます。そして無理な力が働けば、そのために世界中に不安や緊張、戦争と暴力が拡がります。これが世界の現状でなくて何ですか?
 イグナチオが『霊操』の中で言っているように、まず富に目を奪われた人の欲望は、やがて名誉や虚栄心へと広がり、さらに他者をも支配しようとする傲慢に手を伸ばします。人はこうしてサタンの術中に落ち込みます。現在でも、持てる者は現状世界のシステムをますます強化して自分たちの身を守り、他者を支配しようと目論見ます。このような者たちは、「美しい国」などと子どもじみた自己陶酔を口にしますが、そうしたナイーブさは他者を思いやることのできない冷酷さと裏表でしょう。そしてそれが、社会のもっている人間らしさを殺していきます。

キリストと共に十字架を
 キリストの場合も、ユダヤ民族の宗教的権威と政治が結びつき、それに民衆も一緒になって、すべてが目配せし合い、一つになった悪魔的な力として彼を抹殺したのでした。指導者と支配者と民衆それぞれが、権威や権力、はかない好奇心といったものを絶対化していたがゆえに、そうした物ではなく、御父なる神のいつくしみのみを崇めたイエスが憎くて憎くてしかたなくなり、彼を握り潰したのでしょう。
理性や良識の声に耳を閉ざし、執念の虜のように教育基本法強行採決や憲法改定へ突き進む安倍氏の姿、またそれをゆるしている日本社会を見ていると、わたしは、その背後に、戦前に国家主義や愛国主義を絶対化して戦争を始め、何百、何千万もの人々を痛みと苦しみのどん底に突き落とした者たちの亡霊を見ずにはおれません。神のいつくしみでなく、歪んだ夢や価値観を絶対化する我利我利亡者たちに、わたしたちはキリストと共に「それは空しいからやめろ」ときちんと声を挙げねばならぬと思います。
 ところでわたしは、こういう運動を始めてから、深い勇気と慰めをも感じています。この世の嘘に気づいて、それを「なんとかしなくちゃ」ともがいている人々の間には、本当の対話が生まれるからだと思います。そういう対話が響きあうときにこそ、イエス・キリストと一致しようとする祈りも深まります。「教会」とは、結局、世界の根底で自分を無にして生きている人々の間の対話の中にこそあるのではないかと思います。表面層からは隠れた小さな所で、殺されてしまったかもしれないけれども、本当の信仰を生きる人々がいた。そういう本当に苦しんだ人、正直な貧しい人達が、静かに人知れず、まわりに残した光の場所を「教会」と言うのではないかと思います。
 わたしたちのブックレットに反論してくる人はほとんどいませんでした。一番大事にすべき神のいつくしみを実は大切にしていない人は、自分の中の嘘を知っているので、結局、真理の前では何もできないのだと思いました。本当は、己が姿を真理の前に映し見るのが怖くてしかたがないので、影にばかり身を隠して暴力テロに向かうのでしょう。真実には「はい」を、おかしなことには「いいえ」をはっきり言うこと、それは聖書が教えることだし、怒るべきことについて、いわれなき圧迫を恐れて泣き寝入りするのは、「恐れるな、共にいる」と言われたキリストのもたらす解放とは無縁だと思います。この国にはびこるイジメ体質の根本でもある内からの抑圧、そういうものは、本当は実体がないのだということを実感しあえる社会をつくっていかねばならぬと思います。
 さきほどの決心を少しづつ実行していくために、わたしは「憲法・教育基本法を守ろうカトリック連絡会」(けんきょカト連)という名前でブログを始めました。これから国会では、改憲に向けた法律がどんどん成立していくでしょう。教育行政からも次々に憲法の精神を骨抜きにする通達がなされるでしょう。人々の良心からの行動でそういう動きをなんとか押し返していくことができるように祈りを集めていきたいと願います。



けんきょカト連ブログ
http://kenkyokatoren.seesaa.net/