【社会司牧通信 135号 2006/12/15】
 
 イエズス会社会司牧センターもメンバーとして活動してきた、「死刑を止めよう」宗教者ネットワークが、『宗教者が語る死刑廃止』という本を出した。これまでの3年半にわたる活動をもとに、仏教、カトリック、プロテスタント、聖公会、神道(大本)などの20人の原稿や発言の記録を収めている。日本の死刑問題について宗教者が明快に発言している、数少ない貴重な本だ
 死刑存続を訴える意見はさまざまあるが、特に日本では、死刑でないと被害者遺族が満足しない、加害者に反省の様子が見られず、更生の可能性がない、凶悪な犯罪が増加して、社会に不安がもたらされる-といった心情的な意見が根強い。「死刑は犯罪防止に効果があるかどうか」とか、「死刑と終身刑はどちらが高くつくか」といった政策的な意見と違って、そうした心情的な意見は、合理的な反論を受け付けない場合が多い。
 だが、本書で紹介される宗教者の死刑廃止論は、そうした心情的な側面にも、深く立ち入っている。たとえば、米国のシスター・ヘレン・プレジャンは、死刑囚と被害者遺族の両方と交流した経験から、「死刑はいったい、この社会に何を生み出すのか」という、重い問いを投げかけている。宗教教誨師たちのインタビューや発言には、私たちが「更生の可能性がない」と切り捨てている死刑囚たちと直接向き合った、宗教者の苦悩がにじみ出ている。殺人事件の被害者遺族でありながら、死刑廃止を訴える米国の遺族団体のレポートは、「被害者遺族は復讐を求めているに違いない」という私たちの先入観に、再考を迫っている。

 筆者(柴田幸範)自身、「死刑を止めよう」宗教者ネットワークの活動に携わり、また、本書の編集にも参加するなかで感じてきたのは、「死刑をめぐる議論は、白か黒か、簡単に結論が出るものではない」ということだ。新聞やテレビで報道される死刑事件に、感想を述べるのは簡単だ。だが、実際に死刑囚を支援している人の話を聞いたり、被害者遺族に話を聞いたり、教誨師や刑務所の刑務官の話を聞いたりすると、現実の複雑さ、人間の心の複雑さを実感して、簡単に死刑の是非を言えなくなる。
 そんなときに聖書や仏典などを読むと、すでに読んだことがあるはずの箇所が、新しい意味を持って迫ってくる。私は死刑問題に関わるようになってはじめて、「ブッダもイエスも、天の高みから人間を裁いているのではなく、人間と同じように、罪と死が支配するこの世に生きて、罪深い私たちを救うために、その身を捧げられたのだな」と実感するようになった。仏教やプロテスタント、神道(大本)でも同じように考える宗教者たちがいることが、本書に収められたメッセージを読んで確認できて、私にはとても心強く思われた。
 本書を読んで、死刑に賛成する人が、すぐに死刑反対に変わるとは思わない。ただ、死刑が当たり前のもの、変えようのないものだと思われている日本の現状が、本当に日本で暮らす人々を幸せにしているかどうか、考えるきっかけになってほしい。「死刑のない日本」というのは、本当に「幻」でしかあり得ないのか? 被害者と加害者は対立するしかないのか? 加害者の死刑によってしか、被害者遺族は癒されないのか?(あるいは、加害者の死刑によって、被害者遺族は本当に癒されるのか?) 犯罪者が社会から排除されれば、安全な社会は本当に実現するのだろうか? そんな疑問について、読者自身が考えるきっかけとなってくれれば幸いだ。
<社会司牧センター柴田幸範>