廣崎 隆一(下関・細江教会信徒)
 日本銀行の支店、貯金事務センター、水上警察署。この三つの施設が下関にある。
 1992年。日本軍の「慰安婦」をさせられた文玉珠さんが下関で凄惨な体験を話し、彼女の支援が始まった。彼女は楯師団8400という隊に配属された。
 「ワタクシハ・タテ・ハチヨンマルマルブタイデアリマス」。戦場で迷ったり、何かが出来(しゅったい)した場合に、所属を明確にするために覚えさせられたのだろう、ビルマ戦線での記憶を話してくれた。
 当時彼女は「慰安」の代償として支払われた軍用手票(戦場での通貨)を、軍事郵便貯金に預金した。担当の兵隊からは「下関で管理されている」と聞かされていた。私達は彼女を支える会を作り、貯金の所在を確かめることから始めた。
 下関貯金事務センターの前身が、旧逓信省の「下関貯金局」だ。郵政省との交渉で、彼女の貯金原簿の存在を確認することができた。しかし、日韓請求権協定によって、個人の請求権は消滅した、という理由で支払いは拒絶された。
 全国から貯金の支払いを求める多くの署名を集め、下関郵便局に赴いた。ピケを張る局員の隙をついて、フットボールのように林神父に署名をパスして局内になだれ込んだ。彼女は「お金が欲しいのではない、このお金が日本にあり続けるのが嫌なのです。」と訴えた。
 実は、三つの施設は、戦前日本が重要拠点とした地域に置かれた。下関は日本のアジア侵略の最前線だったのだ。
 時を経て、センターにはアジアの様々な国から交流を求めて人々が訪れて来る。労働問題に携わる台湾の労働者、強制連行・労働の跡地を巡礼する韓国の大学生。日本軍が残した化学兵器の惨状を訴える中国人。市内の各国の留学生達。身振り手振りで何とかお互いを知ろうとすることが楽しい。初めて日本に来たソウルの大学生は「優しい日本人がいたんだ」と号泣した、日本人達も嬉しくて共に泣いた。
 センターで貯金返還の訴訟を起こす説明会を開くため、文玉珠さんはセンターに泊まった。夜の交流会で彼女はチャンゴ(朝鮮固有の打楽器)を叩き、朗々と歌を披露した。「わたしはね、太鼓の名人と言われたんだよ」。自慢げに笑う文玉珠さんの笑顔。その横顔に彼女がこれまで抱き続けた苦しみを思う時、思った。「慰安婦問題」などではないのだ。わたしたちがイエズスの生涯を心で辿るように、彼女の大切な人生に自分の人生が重ねられていくのだ。センターでのこの体験が、社会問題の関わり方を教えてくれた。
 彼女は今、故郷の大邱で眠っている。