阿部 慶太(フランシスコ会)
 私事ですが、所属する修道会(フランシスコ会)のEAC(東アジア協議会)の会議のため、韓国・ソウルを4年ぶりに訪れました。会議のほかに外国人移住労働者(以下外国人労働者)についての現地研修も行われました。ソウルから車で50分ほどのところにある京畿道・安山市での研修でした。そこは、私が14年前に訪れた場所でした。
 1992年の夏、横浜寿町で外国人労働者や外国籍住民の人権を守るために活動する市民団体、カラバオの会(正式名称「寿・外国人出稼ぎ労働者と連帯する会」)のメンバーと共に、韓国での外国人労働者の状況を視察するため訪れたのが安山市でした。
 日本では1980年代中頃からのバブル期前後に様々な国から外国人労働者が来日し、建設現場などで働く肉体労働者、エンターティナーとしてやってくる人々も増えました。しかし、次第に外国人労働者の置かれている劣悪な状況も出てきました。賃金不払いや不当解雇など、オーバーステイの立場を逆に利用されて、搾取も野放し状態だった時期だったからです。しかし、有志の人々や労働組合などの協力によって、様々な支援グループが立ち上がり、1990年代初めの日本は外国人労働者の支援が少しずつ充実し、その活動に対して国や自治体も何らかの対応をとり始めた時期でした。
 その頃、韓国では1988年のソウル・オリンピック前後から増加した外国人労働者の労災、生活相談などの対応が大変な時期でした。当時は、韓国国内に相談のための施設もほとんどなく、専従のスタッフもいないため、ボランティアや地元の労働組合のメンバーなどが、安山市街地の教会内でテントの仮設相談所を造り、労災や生活の相談を行っていました。少ないボランティアに多数の外国人労働者たちが詰め掛け、対応に追われていた様子が今も思い出されます。
 それから14年後、様子はずいぶん変わっていました。外国人労働者の司牧センターができ、司牧のためにフィリピンの神言会から司祭が派遣され、彼らのために奉仕していました。センターの運営する託児所もあり、周辺に住む外国人労働者たちによって、一つのコミュニュティーが形成されていたからです。労働者の話では、社員として働くケースも以前に比べると増えて、労働条件も14年前とは比べ物にならないほど改善され、サポート・スタッフやグループも充実していました。センターにやってくる労働者にも笑顔がありました。この様子を見ながら感じたのは次のようなことでした。
 それは、日本で定住する外国人労働者と韓国で定住を始めたばかりの外国人労働者とでは、日本に外国人労働者が入った時期が韓国よりも早い分だけ、状況が異なるという点です。
韓国の場合、最近、労働条件の問題が改善され、家庭を持ち、子供もようやく託児所や小学生に通うようになったばかりで、世代交代の時期まできていません。
 日本の場合、定住してかなりの年数が経過し、子供が10代後半から青年になろうとしている時期で、生活の基盤ができ、家族が次の世代に移り変わる段階のため、乗り越えなければならない数々の問題もあります。たとえば、外国(フィリピンや南米など)から移住してきた親と日本で生まれた子供の関係は、言葉やアイデンティティーの面で壁ができて、当事者がどうしていいかわからないケースもあります。
 日本では、こうしたサポートはNGOや教会の外国人司牧のグループで、言葉の学習など様々な取り組みが行われています。また、国際関係を深めるための活動も様々なバリエーションがあります。それは、80年代からサポートが続けられる中で、生活基盤の整備、国際結婚、子供の教育、自己認識や文化交流、というように時が経つに従って生じる問題に対応してきた経験が日本にあるからです。
 一方、韓国の場合、生活基盤ができた後のこうした問題は、これからの課題です。また、経済的に伸びているアジアの国々(ベトナムやインドなど)も段階的に同様のことが今後起こるのではないのか、と感じながら安山市をあとにしました。