ジャン・イブ・カルベ(イエズス会)
 イエズス会員は世界中にいます。約140ヶ国におよそ2万人のイエズス会員がいます。大学や高校を経営し、教会や黙想の家を運営し、宣教を行っていますが、それだけでなく、社会正義のためのさまざまな仕事、つまり、囚人や病気の人びと、移民など、助けを必要とするあらゆる人のために働き、彼らのためにアドボカシー(世論喚起)活動を行っています。そして、まさにこのことこそ、イエズス会社会司牧センターの25周年にあたって、今日、私がお話しするよう求められていることなのです。


イグナチオも社会活動をしていた

  イエズス会の創立者、ロヨラのイグナチオは、困っている人びとに対する関わりの模範を示しました。具体的には、ローマの町の売春婦のために聖マルタ会という組織を設立したり、戦争中にローマの貧しい人びとのために支援を呼びかけたりしました。イグナチオは、教皇の認可を得なければならない、イエズス会の創立に関わる基本文書(基本精神綱要)に、こう書いています。つまり、イエズス会の会員は、キリスト教の信仰に関わる仕事に従事することを心にとどめるだけでなく、さらに「神の栄光と普遍的な善に役立つと思われるなら、不和に陥った人びとには和解をもたらし、監獄や病院にある者には愛徳の業を通して力と助けになることに従事する」のです。
また、イグナチオは、16世紀後半のトレント公会議に派遣した会員に、余暇の時間を病院で過ごすようにと勧めています。当時の病院はむしろ貧しい人びとの避難所であり、ヨーロッパの都市の大部分に、こうした避難所の病院がありました。イグナチオはある会員たちに宛てた手紙の中で、彼らが貧しい人びとの友となることを、どれだけ望んでいるか、と書いています。イエズス会員は500年におよぶ会の歴史の中で、さまざまな仕事を行ってきましたが、社会の貧しい人びとに対して、少なくとも関心の一部を向けることを、決して怠りませんでした。

イエズス会難民サービス(JRS)
 こうした分野で、近年最も目立った成果をあげているものの一つは、イエズス会難民サービス(JRS)です。JRSには、イエズス会員だけでなく、他の男女修道会の会員や信徒も働いています。JRSが生まれたのは、インドシナ難民がボートに乗って、東シナ海やインドネシアの海岸沿いに漂流し、海賊に襲われていた、あの恐ろしい時期の、ある晩のことでした。当時、イエズス会の総長だったペドロ・アルペ神父は、その晩、ラジオから流れるインドシナ難民たち、その多くはベトナム出身の人びとでしたが、彼らの悲惨な状況を聞いて、すぐさま(まさにその夜のうちに)、秘書に命じて手紙を書かせ、一方では極東と南アジアのイエズス会の管区長たちに、他方ではヨーロッパとアメリカのイエズス会の管区長たちに、現場の近くにある国々でどんな支援ができるか、あるいは難民を受け入れる余地のある国々でどんな支援ができるか、リストを提出するよう求めました。なぜなら、このような不幸に立ち会って、イエズス会員は「手をこまねいて」いることはできないからです。アルペ師は、協力の申し出をはじめ、多くの提案を受け取りました。
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そして、アルペ師はJRSを創設しました。JRSは、当初はとても小さな組織でしたが、いまでは大きく成長しています。
 JRSの創設者、アルペ神父は日本で27年間を過ごし、日本でとてもよく知られていました。いまでもアルペ師を知る人は多いと思います。アルペ師は日本で、戦争の困難な時代を過ごし、時にはスパイの疑いをかけられて、投獄されたことさえありました。というのも、アルペ師はスペイン生まれの外国人であるうえに、国際放送を受信できるラジオを持っていたからです。アルペ師はのちに、広島郊外に住んでいた時に原爆の投下に遭遇し、かつて医学生として勉強していた知識を生かして、原爆によって恐ろしいやけどを負い、被ばくした何百人という人びとを救護するために、最善を尽くしました。このような体験をしたアルペ師が、のちに世界中で出会った、災難や災害、暴力に苦しめられるすべての人の境遇に、きわめて敏感であったことは、自然なことでしょう。アルペ師が脳卒中で倒れる前に、人生最後の活動的な一日を、カンボジア危機が最悪の状況だったころの、タイ国内のカンボジア国境付近にある難民キャンプで過ごしたことは、単なる偶然ではありませんでした。
 私は、上智大学の学生が、特にカンボジア難民について、JRSと協力してさまざまな仕方で奉仕したことを知っています。私自身の日本の思い出もふりかえるなら、私はこれまでに何度か日本を訪れたことがありますが、その中でも大阪の釜ヶ崎を訪ねた一日のことを、感慨深く思い出します。そこでは、イエズス会員とその協力者が、釜ヶ崎に住む、住民票もなく社会的保護も受けられない日雇い労働者の世話をして、日本人の中で最も不幸な人びとへの愛をあかししていました。
 イエズス会員は、ラテン・アメリカの多くの国々でも、あらゆる方法で働いてきました。これらの国ぐには1970年代に、軍事独裁政権によって苦しめられました。軍事政権に苦しめられ、抵抗した貧しい人びとは、非常にしばしば迫害されました。イエズス会員たちは同時に、中米エル・サルバドールのケースのように、反乱勢力に呼びかけて、和平のために働こうとし、その結果として大きな危険を冒すことになりました。こうして、イエズス会員の6人とコックとその娘さんが、1989年の秋に、エル・サルバドールの首都サン・サルバドールにあるイエズス会大学で、残殺されたのです。当時のラテン・アメリカでは、同様な理由で、他にもイエズス会員が殺されていました。私は一人のブラジル人のイエズス会員、ブルニエを思い出します。彼は、マット・グロッソ州で警察につかまった貧しい男性の状況について、自分の親戚に問い合わせたという、ただそれだけの理由で殺されました。こうしたことはみな、高いリスクを含んだ、社会正義のための行動でした。いつも危険とは限りませんが、いずれにしても、ブラジルのスラムや中米の農村、アルゼンチンやサント・ドミンゴの危険な都市化の波、そしてフィリピンで、とても困っている人びとのための働きが、いまも続けられています。そして、同様の働きはヨーロッパでも、ベルリンやマルセイユ、ブリュッセル、バルセロナの貧しい人びとのために行われているのです。
平和のための活動
 また、平和のための活動が、ユーゴスラビアの崩壊にともなってバルカン半島で紛争が続いた当時のサラエボで、重大な局面を迎えて活発に進められました。また、アイルランドのベルファストでも、市内に築かれた壁沿いに、超教派の宗教者有志がコミュニティを築いて、対立する両勢力の間に和平の精神をはぐくみ、和解の模範になろうとしました。そして、まさにいま、南米のコロンビアで、いわゆる「平和ゾーン」の一部で、同様の試みが進んでいます。こうした平和ゾーンには、ゲリラ諸勢力のいかなる大義も支持することを拒否し、武器を持たずに暮らすことを宣言した人びとが住んでいます。彼らは互いに対立するすべての勢力から攻撃される危険を冒しながらも、コロンビアに平和をもたらすための模範となっているのです。正義がイエズス会員にとっての一つの目標だとすれば、平和と和平もまた、同様に目標です。イエズス会員にとって、平和とは正義の実りなのです。

イエズス会第32総会(1974~75年)
  1974~75年にかけての冬は、イエズス会員とその友、協力者にとって、偉大な時でした。「世界の正義」というテーマで、1971年にローマで開かれた世界司教会議(シノドス)の直後であり、司教たちは正義の分野における教会の取り組みを、「福音宣布の本質的な構成要素」だと述べています。続いて、1974~75年の冬には、イエズス会の諸活動を全体的に見直すために、第32総会が開催されました。総会に参加した会員たちは、当時の全世界の貧しい人びとや、不正に苦しむ人びとの声に耳を傾けようとし、その声とイエズス会の創立に関する公文書との関係を見出しました。総会は結論として、イエズス会員の神に対する信仰への奉仕は-具体的には、キリスト教信仰への奉仕は-、同時に必然的に、正義を必要とする人びとへの奉仕を含む、と宣言しました。それは、これまでもそうでしたが、こんにち特にそうなのです。総会は、正義の促進(これは総会の表現です)を、イエズス会の根本的な活動である、信仰への奉仕の「本質的な」一要素であると述べました。こうして、第32総会は、正義の分野における伝統的な取り組みに、新たな出発点と新たな視点をもたらしました。それは、いわば正義のための働きの近代化、新たな展開であり、その中には、私が最初に述べたすべての働き、中でも、難民や移民という現代世界を揺るがす大問題に関する、あらゆる仕事が含まれています。この難民・移民の問題は、こんにち、ほとんどすべての国で深刻です。政治的圧迫や民族的圧迫、時には宗教的圧迫によって人びとが脱出するケースもあれば、発展の希望がほとんどない国々から、飢餓や貧困を逃れようと移民になるケースもあります(たとえば、サハラ以南のサハラ諸国は、海から遠く離れて貿易のチャンスもなく、他方では、雨の降る時期が非常に不確かなため、たえず水不足の脅威にさらされています)。
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こうした人びとは、一般に非常に厳しい状況に置かれていますが、その困難の中には、きわめてやっかいな政治問題も含まれています。ですから、正義のために働こうとするなら、人びとの直接的な困難と政治問題の両方に関わらなければなりません。イエズス会は確かに多くのところで両方に関わっています。アドボカシー、世論喚起の活動は、このように現代におけるイエズス会の社会活動の重要な一要素でもあります。たとえば、こんにち、ブラック・アフリカから脱出し、地中海を渡ってヨーロッパに入ろうとする貧しい人びとの問題などは、アドボカシーのテーマです。
 第32総会の声明を受けて、最近の第34総会(1995年)は次のように述べています。こうしたイエズス会のすべての社会活動の前提の一つが、貧しい人びとや周辺化された人びとと出会い、彼らと連帯して生き、彼らを苦しめる根本原因を進んで取り上げようとする態度です。第34総会の文書は、さらにこう述べています。「そうしたミッションに対するわたしたちの感受性は、『主の友人たち』とたびたびじかに触れあうことによって、最も揺り動かされるであろう。またしばしば、彼らから信仰について[も]学ぶことができる。それゆえ、貧しい人びとの世界へ何らかの仕方で入り込むことが、すべてのイエズス会員の生活の一部とならなければならない。そして、わたしたちの共同体は可能な限り、普通の人々のまっただ中にあるべきである」。この奉仕のもう一つの前提は、「人びと、特に貧しい人びとへの尊敬に根ざした対話であり、それによって私たちは、彼らの文化的・霊的価値を共有しながら、イエズス会固有の豊かな文化と霊性を彼らに提供することができる」。さらに、「現代の重要な諸問題を、国際的な次元で考える時、連帯と応需性(availability、必要に応じてどんな務めも喜んで果たすこと)」が必要であり、特にそうした国際的な次元に関する深い認識が必要です。そして最後に、こうしたすべてのことは、社会活動や社会使徒職にたずさわるイエズス会員だけでなく、すべてのイエズス会員によって実践されなければなりません。そして、イエズス会員は、そうした実践を行うにあたって生まれかねない「恐怖」や「無関心」に、特に注意を払い、決して恐れないように、と総会は言及しています。
 数ヶ月ほど前、イエズス会のローマ本部から、「グローバル化と周辺化に関するタスク・フォース」の「報告書」が発行されました。この中では、こんにちの主要なグローバルな問題のいくつかについて、あえて取り扱っています。イエズス会員がこのような問題を取り上げるのは、イエズス会がおそらく他の同様のグループよりも、いっそう「国際的な体」、「使徒職的な」体だからだと、この報告書は指摘しています。つまり、キリストの福音を世界に広める役目を持ったイエズス会は、その国際的な性格によって、正義を実現する「さまざまな可能性を生かす」義務を負わされていることを、たえず自覚する必要があるということなのです。
「すべての可能性を、私たちは生かしていない」と、現総長ペーター・ハンス・コルベンバッハ師はいつも指摘しています。とはいえ、イエズス会員はある程度まで、こうした国際的な性格を生かしているのです。

最後の「なぜ?」                        
 このような熱心な取り組みがなぜ行われるのか、という質問への答えは、20世紀全般を通してキリスト教諸教会が示した、正義と平和、和解への関心の中にあります。さらにさかのぼれば、1891年に教皇レオ13世が出された、工業化の進展にともなう労働者の悲惨な状況について述べた回勅にまで行き着くでしょう。
 ちょうど今年、イエズス会本部が出したもう一つの報告書、『イエズス会社会使徒職の霊性』には、最近集められたたくさんの体験談が載っていますが、それらを読むと、イエズス会員やその協力者の一人ひとりを、社会使徒職への深い関わりへと導いたきっかけは、私がすでに述べたように、一般に人びととの出会いです。つまり、貧しい人びとや困っている人びと、移民、刑務所にいる人びと、国外退去されようとしている人びとなど、人間としてあるべきでない扱い方をされている人びととの、何らかの形での出会いがきっかけとなったのです。ここで、この報告書からいくつかの例を引用しますので、お聞き下さい。これは、ある女性の協力者の体験談です。「人びとがこのような(ひどい)状態で暮らすのを、私たちが許してしまっていることに、ショックを受け、うろたえてしまいました。何億もの人びとが、日々、飢餓に追いやられている現状を、現代社会の経済政策はどうして許せるのでしょう?」。あるスペイン人のイエズス会員は、ドイツに哲学を勉強しに行った時のことを、こう語っています。そこで彼が出会ったのは「ガリシアやアンダルシアからのたくさんの移民でした…彼らは、家族から遠く離れて、悲惨な境遇で働き、故郷で暮らす家族に仕送りすることによって、不安定なスペイン経済を支えていたのです…そのとき私は、私たちの歴史と社会の現実のかげで働いている仕組みを見きわめることを学びました」。ところで、私は彼の話を読んで、アルペ神父が第二次大戦前に、日本へ向かう途中、ニューヨーク刑務所のヒスパニック系の人びとを訪ねた時のことを思い出しました。彼らがアメリカ国籍の人びととくらべて、まさに負け犬のような扱いを受けていたことに、アルペ師はひどいショックを受けました。さきに引用したスペイン人のイエズス会員は、こんな話もしています。「私はそこで、今まで会ったこともないような、ラディカルなキリスト者の姿を目撃しました。たとえば、スペイン人の教区司祭マルセリーノは、学者で神秘主義者でしたが、彼は労働者階級が暮らす地区のほったて小屋に住みながら、博士論文を完成させていたのです」。体験談を寄せた中のある人たちは、小さくされた人びと、貧しく、奪われた人びとと出会って、自分たちが暮らす地域を変えようと決心しました。また、別の人たちは、ブラジルの広大なアマゾンで、周辺に追いやられた人びと、中でも「川岸で暮らす人びと」と出会いました。
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さらに、別のある人にとって、すべての始まりは、スリ・ランカの炊き出し所で修練期(イエズス会の最初の訓練期間)を過ごした時でした。「炊き出しの列に並んで激しくせきこんでいた、明るい瞳の色をした一人の男のことを、私はいまでも覚えています…彼のことを思い出すたび、結核で早死にしてしまったのではないかと考えます。なぜ、彼はあんなにも貧しかったのでしょう?」


 前述の体験談に、こんなコメントを加える人もいます。つまり、こんにちのイエズス会員は、30年前とくらべて、偉大な解決策を提出することはむずかしいと感じている;あるいは、「世俗の政治的・制度的プロジェクトはどれも限界があることを、謙虚に認めて」いて、「貧しい人びととともに」「いたり」、「生活したり」することで、満足してしまう;あるいは、「貧しい人びとはしばしば、最良の人間性を示す存在である」と感じている-というのです。また、こんにちのイエズス会員は、「世界を正しいものに直そうという宗教の能力や意気込みは、薄いように見える」ことに気づいた-というコメントもあります。同時に、いくつかの根源的な出会いのうちに見出される仲間意識(companionship)こそが、かなり多くの人びとを、正義やより人間的な社会秩序を求める過酷な仕事へと導いたものである-ともコメントされています。
 イエズス会員の多くは、私はあえて大部分といいたいのですが、彼らは貧しい人びと、ひどく貧しい人びと、不正に苦しめられている人びととの出会いを、ナザレのイエスとの出会いだと考えています。イエスは、みなさんご存じのように、キリスト教の中心であり、特に貧しく、小さくされた者として現れ、同時代の貧しい人びとと近い者となった方で、このイエスこそ、私たちイエズス会員がつねに立ち帰るよりどころなのです。
 そして、こうしたすべてのことの裏には、いまイエズス会員の間に存在している、神ご自身を全能の方としてではなく、私たちの近くにいる貧しい方として見る、逆説的な見方があります(なぜ逆説的かといえば、私たちはその方を「神」と呼んでいるからです)。私たちのために、なんの見返りも求めずに、ご自分のすべてを捧げられた方として見る、逆説的な見方です。神は私たちをつくられた時からすでに、ご自身を捧げています(聖書には、神は善人にも悪人にも同じように太陽を昇らせる、と書かれています)。イエズス会員を-少なくともその多くを-、貧しい人びとや病気の人びと、困っている人びと、奪われている人びとに関心を持つよう動かしているのは、まさにこのような宗教的な見方です。それは、イエズス会員を、そうしたすべての人を愛するように駆り立てているといってもよいでしょう。それは単なる道徳的・倫理的な見方であるというよりも、貧しい人びとや小さくされた人びとのために働く時、彼らのうちにナザレのイエスや神ご自身と出会うということなのです。このことは、その結果として倫理的な見方が生み出されることはない、という意味ではなく、そうしたイエズス会員の行動から生み出される結果は、直接に宗教的なものでもある、ということなのです。
 これまで述べてきたすべてのことが、1950~80年代にこれほどまでに強まってきたのは、どうしてでしょう? それは多分、第二次大戦の影響で貧困と不正が、よりいっそうの猛威をふるったからであり、人びとを「欠乏から」解放するために戦う人がきわめて多かったからでしょう。また、ある国々でも、貧しい人びとを含めて、すべての国民が第二次大戦によってひどく痛めつけられたという体験から、結果として、貧しい人びとが、かつては必ずしもそうではなかったのですが、平等な仲間・市民として認められるにふさわしい人びとだと考えられるようになったのです。その結果、教会では第二バチカン公会議が開かれ、不正に対する戦いはキリスト者の取り組みの本質的な一要素であると宣言されるに至ったのです。これこそ、イエズス会員がかつてよってたち、今もよりどころとしている場所であり、貧しい人びとや不正に扱われているすべての人びとに対する関心は、イエズス会の中で決して滅びることはないと、私たちは信じているのです。

(2006年7月8日、カトリック麹町教会で)
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