今、まさに混乱のまっただ中にある東ティモールの堀江節郎神父(イエズス会)から、5月31日にメールが到着しました。現地の緊迫した状況を伝えているので、取り急ぎお届けします(編集部)

 突然首都ディリの町が空っぽになった。2006年4月28日、町の住民が移動を始めたのである。F-FDTL(東ティモールファリンティル防衛軍)から解雇された595人が4月24日から抗議のデモを始め、険悪な状態が続いてきた。(解雇されたのは全員が西部の出身者であることからこの不当な「差別」異議申し立てをして権威筋に請願書を出したので彼らはぺティシオナリオと呼ばれている。)デモ隊を抑えようとして防衛軍が動員され事態はもっと険悪になってしまった。(結果的にこの防衛軍は東部出身者で占められていた)。市場の焼き討ちからはじまり、4月28日に生じた両者の衝突でかなりの死者や怪我人が出たのであるが政府の発表、死者「4人」を信じるものは誰もいなかった。現場は厳しく封鎖され現場に駆けつけた大統領もそこに立ち入ることを断られ無念の涙を流したとのこと。国際ジャーナリストも誰も現場を見ていない。この銃撃戦を命じたのはアルカティリ首相自身だったと言われている。次々と住民は荷物を抱えて車や徒歩で町を脱出し始めその近くの教会や神学校、修道院などに避難を始めた。私の住んでいる「聖ペトロ聖パウロ大神学校」には60人の神学生と10人の職員がいるが、始めそこには190人ほどが避難してきた。
 始めはこれですべて事が済んだと思ったのか、テレビで大統領や首相等が安全宣言を出して皆家に帰るよう勧告したのであるが毎日山にこだまする銃撃戦の音を聞きながら家に戻る人など一人もおらず、むしろ避難民の数が増えるばかりであった。そして神学校は1000人以上の人で一杯になった。教室も廊下もすべての空間は人で埋まってしまった。もちろん授業など出来るわけが無い。状況は一向によくならないどころか問題がますます複雑になる気配である。
実は重傷者も含めて何人かのペティシオナリオが病院から逃げて来てここに隠れていた。(防衛軍に追われているので病院では救われるよりも殺される危険のほうが大きかったのである)。赤ちゃんの出産も二組ほどあり医者やシスターたちが往来したが実はそれは負傷者のための手当てが目的であった。 やがて負傷した解雇兵たちへの擁護に回った軍警察と防衛軍の衝突が繰り返され始めた。この普通ではない状況の前に誰も正確な情報を得ることが出来なかった。すべての情報は口コミで入って来るのだからそこにはかなりのデマもあったのだろうが、民衆の「恐れ」は何よりも政府への不信感であった。首相は銃撃戦の聞こえる只中で「すべてはうまく収まっています」と繰り返すだけである。誰も政府に従わないので、ある大臣は「家に帰らないなら、大喜びでお祝いするのは泥棒だけだぞ」との捨て台詞をはいた。民衆はただ黙々としながら石ころを置いてなべを掛け焚き火で彼らのわびしい夕餉を準備し、神学校の裏にある唯一の水道栓から水を汲み、なべや皿を洗い衣服を洗濯し夜は教室や廊下にあふれてごろ寝しているのである。
 この危機的状況に直面して東ティモール在住の外国人はアメリカとヨーロッパ国籍者が今月始めに帰国し、やがて次々と各国がそれに従った。かなりの日本人もチャーター機で帰国した。この国の建設に役立ちたいと夢を燃やしていた人々である。昨日は神学の客員教授フランシスコ神父を空港まで送る道で銃撃戦に巻き込まれ、やっとそこから逃れたが空港まで行くのは無理なのでポルトガル大使館まで彼を送り、あとは彼の国の保護にゆだねて神学校に戻った。同じ日警察本部が襲撃され婦人警官も含めて10人が殺され多くの負傷者を出した。こうしてディリの町から警察官の姿が消えたのである。また死者の弔いから戻る途中で小神学校の院長モウジニョ神父が撃たれて重体である。流れ弾ではなく何人かの男たちが血だらけになって倒れた神父を囲む武装集団に向かって「殺してしまえ」と叫んでいたという。今のディリは完全な混迷状態で、軍人だけではなく市民の手に武器が回り同国人同士の殺し合いが行われているのである。大統領は混乱の収拾のため遂に国連軍の助けを求め、すぐオーストラリア軍が到着しマレーシア軍ニュージランド軍そしてポルトガル軍も到着の予定である。
問題が軍のレベルだけであれば意外と解決の道が開かれそうでもあるが民衆の中に武器が出回ってしまったいま、かなり複雑になるかと思う。
 事の核心は思ったよりも単純なことだという人もいるがむしろいろいろな要因が隠れていると言ったほうがいいと思う。たとえば多くの若者たちがこの数年何の職も無く道端にたむろしているのを見るたびに今の状況を予感したのは私独りだけではなかったと思う。今この状況にあって若者たちの不満が爆発したこと、特に未来に希望を見出せずいろいろな「武道」グループに入った青年たちと他のグループとの間に衝突が続いていた。治安を守る警察も誰も居ないアナーキー状態の中、今彼らがディリの町を荒らしまわっているのだ。彼らは東と西に分かれて殺しあい家々を焼いている。それだけではない、修道院の聖母像が壊され神父がターゲットになるかと思えば、共産主義に対する嫌悪からか、それらしい人や事務所が攻撃を受けたり、やられた仲間の「敵討ち」ということで撃ち合いが続いている。全くお話にもならないと言えばそれまでのことだが、無防備の市民たちは誰よりもこの若者たちを恐れているのだ。自分たちの住居区の街道を締め切り「君臨」する山刀の武装集団を見ると何百年も前の部族社会が生きているのを感じる。家が焼かれ車が壊されてその残骸をさらしている情景はまさにこの国の自己破壊の象徴に思われ、ただ絶句するのみである。

 問題をよく見つめるとこれは独立後の社会状況だけでなく長い歴史の重みも担っているようだ。1975年代この国が騒然としていた頃の党派同士の抗争、内戦そしてフレテリンによる独立宣言。それから十日後にやって来るインドネシア軍の侵攻。レジスタンスの長い年月の間も実は各党派の抗争が山の中で続いていたといわれる。さらに併合派と独立派の対立、民兵組織による破壊工作と憎悪などが追いかぶさるようにしてこの国の歴史をより複雑にしてしまった。私は2001年のクリスマスに間に合おうとしてこの国に着き、独立の盛大な祝典を楽しい気持ちで迎えた。そして外国からの莫大な援助によって「和解委員会」が発足し涙ながらに手を握り合う「許しあい」の場面がテレビで放映されたのを何度も見た。ほんの数年前だった。
 神学校の最後の学期がまもなく終わろうとしている。何とかして授業だけは続けたいと思ったが結局はあきらめなければならない。あれから一ヶ月が過ぎたがここ神学校は何千人かの避難民でごった返している。いつまで続くのか誰もわからない。昼間は子供たちが走り回り夜は赤子たちの泣き声が方々に聞こえる。子供であふれている難民の群れ。いま私の部屋にも三家族が寝泊りしている。聖堂も何百人かの寝床になった。これは正直のところひとつの奇跡だ。神父はこの国では『アモ』と呼ばれる、昔の殿様の呼称であろうか。普通は民衆とはあまり一緒にはならないしおまけに『マライ』(外国人)はもっとむづかしい。こうして民衆が押しかけて来たおかげでこの部屋をティモール人の赤ちゃん、こども、若者、夫婦たちと共同で使うことになったのだ。プライバシーが無くなったと言えばそうであるが、うれしい気持ちでもある。彼らは夕食を片付ければ何もすることは無いからもう寝るだけである。いまこの人々が寝ているその横でこの手紙を書いている、電気のあるうちに。

 もう一度あの大使館の鉄格子の中に消えたフランシスコ神父を思い出しながら身の安全のことを思う。外国人も外出は出来ないほど危険である。だが大使館が彼らを守るし、ここを脱出すれば祖国が待っている。今ここで一番安全の無い人々、それが東ティモール人なのだ。この人々は毎晩いくつかのグループに分かれてロザリオの祈りを捧げている。一番無力に見える祈りであるがそれが今一番の力になっている。

2006年5月26日
ディリにて

堀江節郎神父
Seminario Maior S.Pedro e S. Paulo de Dili
Fatumeta, Dili
Cx.P. 168
Timor Leste