講演 薬物依存からの回復
中山 雅博(ダルク)
 127号でお知らせしたように、本紙ではイエズス会日本管区の社会使徒職の優先課題である、現代日本の心の悩み、移民労働者、地球規模の周辺化を、取り上げています。今回は現代日本の心の悩みに関する講演をご紹介します。
 中山さんは45歳。ダルク(DARC:Drug Addiction Rehabilitation Center/薬物依存回復センター)で薬物依存から回復し、現在は仲間の回復を手伝ったり、講演を行ったりしています。ダルクは薬物依存者の回復をめざす施設で、セルフ・ヘルプグループ(自助グループ)であるAA(alcoholics Anonymous/無名のアルコール依存症者たち)の薬物版であるNA(Narcotics Anonymous)の「回復への12のステップ」をプログラムに取り入れた施設です。このように、同じ問題を抱えた人が集まって支えあうセルフヘルプ・グループは、近年、心の悩みを持つ人たちの間で急速に増えています。
 心の悩みというと、専門家のカウンセリングを考えがちですが、同じ体験をした人にしかわからない痛みや苦しみもあります。仲間同士で助けあい新たな生き方を探ることで、生きる力が育ちます。セルフヘルプ・グループは、「心の悩み」と向き合う上で、一つの鍵となるでしょう。
(2006年1月11日、カトリック麹町教会メルキゼデクの会で。
文責/イエズス会社会司牧センター・柴田幸範)
 学校の薬物乱用防止講演で学生さんに話すときは薬物の怖さを強調して話すのですが、今日は良識ある大人の方ばかりなので、クスリの「よさ」も含めて、正直に自分の体験を話したいと思っています。いつもダルクでグループ・セラピーをやっているんですが、そのときに使っている「自己の容認」という文章を読んではじめたいと思います。

 「今日、自分自身を受け入れることの最初のステップは、自分がアディクトであるということを受け入れることです。回復する価値のある人間として、自分自身を受け入れることができるようになるには、まず私たちの病気や、それに伴って生じるすべての問題を受け入れなければなりません。
 次に私たちを健全な状態に戻すことのできる自分自身よりも大きなパワーを信じることで自己を受け入れられるようになります。ある特定の人のハイヤーパワーに対する概念を信じる必要はありません。自分自身に適する概念を信じるべきです。自己の容認の精神的な理解は、苦しんだり、かつて過ちを犯したことがあったり、自分は完全ではないということに気づいても、それはそれでいいのだと知ることです。
 自己の容認を達成するもっとも効果的な方法は、回復への12ステップの実践です。自分自身よりも大きな力(ハイヤーパワー)を信じるよう になった今、私たちの欠点や利点を正直に吟味する勇気を与えてくれるそのパワーの強さに身をゆだねることができます。時には、苦痛であり、自己の容認には関係ないようにみえるかも知れませんが、いつも自分の感情に目を向けていることが必要です。私たちは、しっかりした回復の基礎を作りたいものです。そのためには、私たちの行動や動機づけを吟味し、受け入れられないものは、変え始める必要があります。
 私たちの欠点は、私たちの一部であり、このプログラムにしたがった生き方を実践することによってのみ、取り除くことができます。私たちの利点は、ハイヤーパワーからの贈り物であり、それを充分に利用することを修得するにつれて、自己の容認も少しずつできるようになり、生き方は改善されていくでしょう。
 時には、自分が理想の人間像としてえがくような人間になりたいという夢にひたることもあります。その時、自己憐憫やプライドの感情に圧倒されるかも知れませんが、
Page 1/7
ハイヤーパワーへの信頼を更新することにより、希望・勇気・強さが与えられます。 自己の容認は、回復におけるバランスをもたらします。もはや私たちは他人に認めてもらおうと努力しなくてもいいのです。なぜなら、私たちはありのままの自分に満足しているからです。自分の利点に感謝をこめて、前に押し出し、欠点から謙虚に遠のき、良き回復中のアディクトになることもすべて自分次第です。あるがままの自分を受け入れることは、自分は完全でないが進歩できるのだ、ということを意味しています。自分はアディクションという病気にかかっており、心の奥で自己の容認に到達するのにはかなりの時間がかかることを心にいれておきましょう。また生き方がどんなに悪化していようとも、ダルクの仲間とNA(ナルコティクス アノニマス)のフェローシップは受け入れてくれるのを忘れないで下さい。
 あるがままの自分を受け入れることにより、人間としての完璧さを期待することに由来する問題が解決されます。私たちが自分自身を受け入れたとき、多分生まれて初めて、無条件に他人を自分の生き方の中に受け入れることができるようになります。私たちの友情は深まり、アディクト同志で深く分かち合うことによって、暖かさと思いやりを味わうことでしょう。」

生い立ち
 まず、ぼくの生い立ちからお話したいと思います。ぼくは1960年に横浜市緑区で生まれました。祖父はアルコール依存症で、外に女性をつくって、家にはあまり寄りつかない人でした。祖母と母親はいわゆる嫁と姑らしく、すごく仲が悪かった。父親はアルコール依存症の祖父に育てられたせいか、女性の愛し方を知らず、夫婦仲は最悪でした。母親は信仰心が篤い人で、最初は天理教で、後に日蓮宗系の新興宗教に改宗しました。夫婦仲が悪かったので、母親はぼくを溺愛しました。父親はずっと母親の信仰を迫害して、暴力をふるっていました。ぼくは教団の青年部でリーダーをしていて、信仰は篤い方でした。ぼくと母親が熱心に信仰すればするほど、父親の暴力は激しくなりました。後で心理学の先生に言われたんですが、ぼくと母親は「母子カプセル」に入って父親を疎外していたのかもしれません。
ぼくは「いい子」でした。常に人の目を気にしていて、母親に喜ばれることだけが喜びでした。中学までは勉強ができなかったんですが、宗教の仲間が私立の有名大学に入ったので、ぼくもそこに入れば母親が喜ぶんじゃないかと、高校に入ってから猛烈に勉強して、一浪で合格しました。高校の時から、ぼくには反抗期がなかったんです。教団でも「いい子」で、毎日お経をあげて修行しているところを、みんなに見せたかった。
信仰も、自分のためというよりも、母親を喜ばせたい、仲間に認めてもらいたいという気持ちがすごく強くて、閉塞感があったと、今になって思います。ずっと反抗期がなかったせいか、悪いことに対するあこがれがありました。暴走族などは「社会のゴミだ」と思いながら、心の奥では「あんなに自由に爆音を立てて町中を走り回れたら、どんなに気持ちいいだろう」と思うこともありましたが、道徳に従って生きるようにたたき込まれていて、身動きがとれない状態でした。 

誘惑
 大学を卒業して服屋に就職しました。32歳になったときに友だちの家に行ったら、マリファナがありました。ぼくは親に何か言われるのが嫌で、20歳までタバコも吸わず、大学に入ってお酒を飲むようになって、やっと吸いはじめたほどでした。でも、その頃にはぼくもいろいろ知っていたので、「マリファナはオランダでは合法だし、アメリカでも州によっては、売買は違法だけど所持は認められている。害のないものだ」と(ダルクに入ってからは間違いだとわかるんですが)、その時は思っていました。「こんなものくらいでは、オレはダメにならない」という自信があったんですね。それで、はじめてマリファナに手を出した。そうしたら、はまってしまいました。すごく気持ちよかったんですよ。アルコールは何年もかけて依存症になりますよね。一回飲んで依存症になる人はいません。マリファナもそうなんですけど、ぼくは一度手を出したらはまってしまって、自分から探すようになりました。
 何回かマリファナを使っているうちに、「もっと気持ちいいものがあるんじゃないか」と友だちに聞いたら、
Page 2/7
白い粉が出てきました。覚醒剤でした。ぼくはマリファナならいくらか知っていたんですが、覚醒剤は知らなかった。覚醒剤は注射するものだと思っていたんですが、その時は粉と一緒にアルミホイルとライターとストローが出てきました。アルミホイルの上に粉を乗せて、ライターであぶって、蒸気をストローで吸うんです。「これ、なに?」と聞いたら「スピードだ。マリファナの増強剤だ。」と言われました。今、若い子たちが渋谷で「スピード」とか「S」とか言っていますけど、それが覚醒剤のスラング(俗称)だとは知らなかったんですね。
 それではじめて覚醒剤をやったんですが、あの解放感はほかにないですね。今まで人生を抑圧されてきたという気持が解放されて、「なんでこんなに楽しいんだろう」と。覚醒させるクスリだから朝まで起きていて、楽しくて楽しくて仕方ない。それで、「マリファナの増強剤なら害はないだろうから、またやろう」と思いました。

転落
 そのうちに、ぼくは名前が雅博なんですけど、友だちが「みんな、おまえのことを“シャブ雅”って呼んでるぞ」と言うんです。「オレ、シャブ(覚醒剤)なんかやってないよ」って言ったら、「おまえ、やってるじゃないか」と。「あれスピードじゃないの?」「スピードって覚醒剤のことだよ」。目の玉が飛び出るくらいびっくりしましたが、手遅れでした。「覚醒剤やめますか、それとも人間やめますか」というテレビ・コマーシャルがありましたが、ぼくも、覚醒剤は一回使ったらダメになる、廃人になると思っていました。ところが、自分がやっていたのが覚醒剤だとわかったのは、はじめてから3ヶ月か半年くらい経ったときで、その頃はまだコントロールできていました。だから、コントロールして使えるし、解放されるし、たまっていた仕事は片づくし、人のことはゆるせるし、怒りの感情も出ないでニコニコしていられるし、嫉妬の感情も起きないし、政府はなんでこんないいクスリを禁止しているんだろうって、本当にそう思っていたんです。今思うと、だから怖いんですね。たしかにあの解放感は、そんじょそこらのものじゃ味わえないだろうと思います。
 そうこうしているうちに、依存がひどくなっていきました。ぼくは依存が形成されるのは早かったと思います。
祖父がアルコール依存症だったので、依存的な性質が、遺伝かどうかわからないんですけど、あったのかもしれません。コントロールして使えたのが半年くらい。それまでは、売人を知らず、友だちから手に入れていたので、入り口でコントロールされていて、乱用程度で収まっていました。そのころ働いていた服屋は派手な連中が多くて、友だちに電話して「こんなクスリをやってみて気に入ったんだけど、手に入る?」って聞くと、簡単に手に入ったんです。その後、自分の足で買いに行くようになってから、転がり落ちるようにダメになっていきました。最終的には、友だちに「おまえは使い方が激しいから、怖くて売れない」と言われるほど、人一倍、使い方が荒かったんですね。
 ぼくは、いまだにタバコのポイ捨てはできないし、ポイ捨てする人もゆるせません。電車の中で大きく足を組んでいる人もゆるせないし、連結部分のドアを閉めない人もゆるせないんです。でも、覚醒剤を使うと、自分でもそれができる。今まで反抗期がなくて、悪いことは絶対にできなかったのに、覚醒剤をやると、悪いことも全部できるし、他人も全部ゆるせる。性的な問題についても、抑圧された環境に育ってきたのが、すごく解放された気分を味わう。覚醒剤を体に入れるのが止まらなくなりました。


 いつも金曜の夜にはじめて、日曜の夜には終わろうと思うんです。もうやめよう、明日は会社に行こうと思うんですけど、気がつくと月曜の朝になっている。その頃、ちょうどインターネットが普及しはじめて、三日間ご飯も食べず、眠りもせずに、インターネットをやっている。
Page 3/7
それが楽しくて楽しくて仕方ない。まだ30代前半だから、体もピンピンしていました。それで、最初は会社にウソをついて休むんです。「今日は体の調子が悪いので行けません」。それが何回か続くうちに、妄想が出てくるようになります。「もしかしたら怪しまれているかもしれない」。そうすると、一つウソをつくためにまた、別のウソを重ねなければならない。どこでどうウソをついているのか、わからなくなってきます。ウソで塗り固めた生活がはじまりました。

泥沼
 ぼくは、ダルクにつながるまでに三度、覚醒剤をやめる選択を迫られました。最初の機会は、覚醒剤の副作用で「常動行為」、同じ動作を繰り返すというのがあるんですけれども、それがきっかけでした。あるとき、会社で覚醒剤を使っていて、目がしょぼしょぼして、使い捨てコンタクトレンズを取ろうとしたんです。そのとたん、常動行為がはじまって、誰もいないトイレの鏡の前で、そのままずっと5時間、レンズを取ろうとし続けました。
 最後には半分くらい目が見えなくなって、痛くてしかたないから、家に電話して妹に迎えに来てもらいました。翌朝、起きたら全然見えない。あわてて近所の眼科に行ったら、そこでは処置できないということで、大きな病院に行きました。そこで「失明の危険性がある」と言われたとき、ぼくには「もう覚醒剤をやめたい」という気持ちと、「目が見えなくなったら覚醒剤の注射が打てなくなる」という気持ちが同居していました。それが依存症なんだと思います。その時はもう、覚醒剤を使っていることがばれていたので、母親の手をとって、「こんなことは二度としません。もうやめます」と泣きました。ところが、見えるようになって最初にしたのは、売人への電話でした。目が見えない間は「やめよう」と固く誓ったのに、見えるようになると、やっぱりやめることができませんでした。まだ仕事もあり、お金もあったし、親も覚醒剤を使っているぼくのことを受け入れてくれていました。
 親の話をすると、ぼくが覚醒剤を使っているんじゃないかと怪しんだときに、いちばん変わったのは父親でした。先ほど話したように、ぼくは父親を大嫌いでした。母親とぼくは母子カプセルで、父親は敵でした。3分と同じ部屋に一緒にいられなかった。
その父親がいきなり「おはよう」とあいさつし出しました。 親の愛情で治してくれようとしたらしいんです。 その時にぼくが思ったのは、「こいつ、気づいたな」ということと、「これは利用できる」ということでした。 その時、父親が怒ったらシュンとしたかもしれないんですが、やさしくなったので、「こいつはオレに負い目があるな。これは利用しない手はない」と思いました。父親の態度が変わりはじめたのは、ぼくが失明しかけた頃だったんですが、どうもその頃ダルクの家族会に行きはじめていたらしいんですね。ともかく、ぼくは失明しかけても、クスリをやめることができませんでした。
 その頃には、もう会社にもウソがつきにくくなり、いろいろな仮病を使うようになりました。ただ、根が「いい子」だから、ウソをつく自分を責めるんです。会社に電話もできず、無断欠勤が続くようになります。そうすると、上司から「ファクスでいいから連絡だけはくれ」と言ってくるので、ファクスを入れるのですが、そのうちファクスも怖くて入れられなくなる。今度は、夜、みんながいなくなった頃に会社に行って仕事をして、朝帰ってくる、昼夜逆転の生活をするようになります。洋服屋さんはけっこういい加減だったので、そういうことがゆるされたんです。とにかく、かなりひどい状態でした。

地獄
 そのうち、二度目の選択が来ました。上司から「この状態では、雇っておくわけにはいかない。でも連絡さえしてくれれば、何とかしたい」と言われたんです。ぼくはその会社がすごく好きでした。最初の洋服屋さんを事情があって辞めることになって、しばらくしてから、知り合いが引っ張ってくれて入った洋服屋さんでした。 めったなことでは入れる会社じゃなかったんですが、運良く入ることができて、自分の中ではプライドを満足させるためにも辞めたくない会社でした。
 ぼくの最後の無断欠勤は、渋谷の宮下公園のトイレの中でした。みじめでした。小便が便器の外にこぼれていて汚いんですが、覚醒剤なしには怖くて外にも出られないので、とにかく覚醒剤を打ちたくて、トイレで注射しました。会社に一本電話すればいいんですが、被害妄想で、怖くてできないんですよ。ふるえながら注射をして、時計を見つめているうちに10時の始業時間を過ぎた。その時、今思うと、ドンと何かが落ちたような音がしました。
Page 4/7
「ああ、オレの人生は、落ちたな」と、強く感じました。それでも覚醒剤をやめることができませんでした。会社を辞めてでも、覚醒剤は止まりませんでした。
 本当は自己都合で辞めたのだから、3ヶ月間は失業手当はもらえないのに、会社都合の退職にしてくれたので、その日から失業手当がもらえました。その結果、金があって、住むところがあって、時間があるという、薬物依存者にとって天国のような状態が現れました。仕事を失った自暴自棄の中で、ぼくの依存は急激に進み、覚醒剤を打ちまくりました。しまいには職業安定所のトイレでも打ちました。その時にはじめて、打っても気持ちよくないという体験をしました。その頃になると、打っても気持ちいいのが15分、その後は筋肉が硬直して、セミの幼虫のように体を丸めるんです。今でも緊張すると、後遺症で硬直します。それが48時間くらい続きます。それでもやめられませんでした。
 母親は、自分の信仰の力でぼくを治してやろうと、ますます狂信的になりましたが、ストレスから平衡感覚がおかしくなって、ゲエゲエ吐くようになりました。ぼくは会社を辞めて家にいましたが、家だと親の目があって思う存分覚醒剤を使えないので、放浪の旅に出るようになります。ラブホテルやビジネスホテルに一人で泊まりながら、クスリを使うようになります。しばらくすると、疲れ果てて家に帰ってくるんですが、親の部屋を通らないと自分の部屋に入れません。ぼくは、髪も伸び放題のすごい格好で、母親が部屋でゲエゲエ吐いているのをまたいで、自分の部屋に入っていきました。ぼくは、父親はずっと憎いけど、母親は愛していたつもりでした。でもその時、一瞬、母親に対する憎しみを感じたのを覚えています。母親がどんなに苦しんでいても、父親が何を言っても、ぼくはクスリをやめることはできませんでした。
 失業保険をもらっている間に、クスリを打っても効かなくなって、半年くらい自動的にクスリが止まりました。その時に、母親は「自分の信仰が救った」と思いました。それで、一緒に信仰していた教団の会長のところに行って、「おかげさまでよくなりました」とあいさつして、仕事を決めて、ぼくはまた働きだしました。父親も「もう、おまえはダルクなんか行かなくてもいいな。よかったよかった」と言って、平穏な日々を過ごすようになるんですが、そんな時、友だちから一本の電話が来ます。
 「おまえ、何してるの?」「しばらくクスリやめてるんだ」「またやろうよ」「…ウン」。いとも簡単に、また使いはじめました。こんなに簡単に滑っちゃうんだなと思いました。半年もやめていたんだから、体も元に戻っていると思いました。また、バラ色の日々かはじまるんじゃないかと。でもクスリを打ったら、気持ちいいのが15分で、セミの幼虫が48時間。あっという間に戻ってしまいました。依存症は進むと元に戻れないというのは、多分本当です。それで、新しい会社もクビになりました。
 もう、その時には、自暴自棄というか、会社の一つや二つどうでもいいという気になっていました。本を読むと、「依存症者はとめどなく自己中心的になる」と書いていますが、まさしく自分のことしか考えていない。誤解を恐れずにいうと、クスリが神様でした。一時たりとも離れられない。信仰を持っていらっしゃる方にはおわかりいただけると思います。あれだけプライドが高くて、サラ金だけは絶対行くまいと思っていたのに、その頃は5社に借金していました。それでも、ぼくはクスリという神様といつも一緒だから、怖くないんです。クスリさえあれば何とかなる。自分の人生は見ない。本当に上手に戸を立てられる。これからクスリを買いに行くというと、頭の中にバリアをはる。クスリのことしか考えないことができるんです。

 こうして、会社をクビになってから、借金をしたり、クレジット・カードのショッピング枠をクスリに変えながら、いよいよ大詰めを迎えます。先日、テレビで『マッチ売りの少女』をやっていて、とても共感しました。マッチを一本擦るたびに希望が浮かぶんだけど、消えちゃいますよね。そして、最後に少女は死んでいきます。覚醒剤も一本うつたびにポッと光がつくんだけど、残りの覚醒剤がだんだん少なくなっていくのがわかるんですよね。その頃ぼくは引きこもっていました。怖くて、部屋から一歩も出られなかったんです。ただ、覚醒剤を買いに行くときだけは、怖くても行かなければしょうがないから、勇気を出して出かけます。トイレにも行けなくて、ペットボトルにおしっこをしてました。おかしくなると、ペットボトルをひっくり返して、部屋中がおしっこのものすごいにおいでした。
Page 5/7
窓も閉め切っていて、布団はダニだらけで、ものすごいありさまでした。まさに地獄絵のようでした。
 その時に母親がとった行動が面白かった。ぼくが覚醒剤を買いに行っている間に、ペットボトルのおしっこを片づけて、空のペットボトルを用意しておいてくれました。つらかっただろうなと思います。でも、ぼくはそれを見て「ありがたい」というよりも、「この人は利用できる」という風にしか思いませんでした。ぼくは32歳からクスリはじめて、40歳で底をつくまで、8年間使い続けました。最後の方は寄る年波で、それまで3泊4日でクスリを使い続けていたんですけど、1泊2日しか効かなくなっちゃったんですね。母親はよく見ていて、ちょうど効き目が切れた頃に、部屋の外にたこ焼きやおにぎりとお茶を用意しておいてくれます。ぼくは、サッとドアを開けてそれをとって、部屋の中でむさぼるように食べました。お風呂にも入らず、髪もヒゲもぼさぼさで、本当に地獄絵でした。それでも、最後まで覚醒剤をやめることができませんでした。
 その頃はもう、父親もダルクの家族会で言われて、ぼくをわざと無視するようになっていました。そして6年前の8月、とうとう借金取りが自宅まで来ました。その時はじめて、父親の堪忍袋の緒が切れました。「そんなにクスリが使いたいんだったら、家を出て行け。家にいるならクスリを使うな」。それまでも、クスリを使いすぎて二度ほど殴られたんですが、そのたびに「おまえのせいで、こうなったんだ」と言うと、父親はへこんでくれたんですね。今回もそれで大丈夫だろうと思ったら、父親の決意が固かった。「1ヶ月間猶予をやるから、その間に決めろ」と言われました。
 その時にぼくは、クスリの売人になろうと考えました。売人になれば一生クスリを使えるだろうと。仲のいい人に相談したら、「引きこもりには売人はできない」と言われました。それで、1ヶ月間使い続けて、最後は注射器にまだ覚醒剤が残っていましたが、「もうダメだ」と思って、両親のところに行って、「すみません。やめられません。病院に連れて行ってください」と言いました。9月のことです。横浜の芹が谷病院というところに行きました。正直、ホッとしました。8年間使い続けて、信用から何からすべて失って、信仰も失って、まわりに迷惑だけをかけて、いちばん最初はホッとしました。病院でプログラムを受けて、まだ使いたいという欲求はあったんですけれども、とにかくリハビリをしようと思って、はじめて横浜ダルクに行きました。
 最初の3ヶ月間くらいは、すごくホッとして楽でした。グループ・セラピーで仲間の話を聞くんですけれども、同じ弱み、同じ痛みを持つ仲間の話がこんなに人を癒してくれるものなんだ、気持ちを楽にしてくれるんだって、その時はじめて思いました。ぼくは熱心な仏教徒だったんで、12ステップの「ハイヤーパワー」という言葉にまず反応しました。「キリスト教のニオイがプンプンするな」とは思いました。ただ、本当に楽でした。「このままやめられちゃうかな」っていう安易な考えだったんですけれども、それから第二の闘いが始まりました。
 ある時、仲間と「バーゲンに行こう」と、早起きして横浜のデパートに行きました。港のそばにとてもきれいな公衆トイレがあって、それを見たとたんに、ぼくは公衆トイレでクスリを使っていたので、クスリの使用欲求が現れました。ミーティングを通じてだんだんとセラピーを進めていくんですけれども、その時にも心の余裕がだんだんなくなって、仲間とぶつかるようになっていく。
 今まで自分を受け入れてくれた仲間だと思っていたんだけれども、いっしょに生活していて、冷蔵庫の使い方とかゴミの出し方とかささいなことで嫌になっていく。 半年目くらいで八方ふさがりになって、何をやってもダメになりました。仲間からのメッセージも届かない。対立も止まらない。クスリの使用欲求も止まらない。お金はない。家にも帰れない。八方ふさがりの状況の中で、その時はじめてプログラムが自分の中に入ってきました。ステップ1が心に入りました。クスリに対しても無力だし、仲間との関係でも無力だし、ぼくの力では何にもできない。そう思った時に、はじめて祈りが出てきた。いつも来てくれていたシスターに「祈るってどんなこと?」と聞いたら、そのシスターは「おぼれている人は水の中でもがくでしょう。あなたはその状態。力を抜いてご覧なさい。浮くでしょう。祈るってそういうことよ」と言われました。それで、祈りはじめたんです。
 NAは横浜の山手教会の地下ホールを借りてやっていました。土曜日の夜になると、教会に人が集まってくる。お祈りしているらしいというので、入ってみたんですね。1回目は「ふーん」と思っただけですが、2回目に行った時、福音の朗読が放蕩息子だったんですよ。これが、回心のきっかけでした。
Page 6/7
こんなに癒されたことはなかったですね。「こんなぼくでも、ゆるしてくれるの?」って。「放蕩のかぎりを尽くした」っていうところに、妙に共感しました。「持ち金を全部使い果たし…」って、全部ぼくと一緒じゃないかって…。そういうきっかけがあったので、シスターの話を聞いて、キリスト教に興味を持ちはじめたんです。それで、あれよあれよという間に洗礼を受けることになりました。
 ぼくは、すべてを失わなければ、相当に嫌な人間になっていたんだろうなって思います。腐ったブライドを持ち、人を道徳上の価値観で差別し、相当嫌な人間で終わっていただろう。その鼻っ柱を神様が折ってくださったと、今になってつくづく感じます。クスリをやめて、今5年経ちました。この間、5年のお祝いをやったんですが、普通はこのプログラムをやると、謙虚になって行かなきゃならない。でも、ぼくはこの頃、ものすごく傲慢で、回復を勝ち取ったような気がするんです。自分が何もかも失って、どん底だった時は、あんなに仲間の話に共感できたのに、5年たったらなんで裁くんだろう。すっかり、放蕩息子の兄のような気持ちになってしまうのは、何なんだろうって思います。この頃は物欲の奴隷で、買い物が楽しくて仕方ない。買い物依存症だって思います。
 この話す機会を与えられて、自分の過去を語ることで、回心の機会にしようと考えています。しばらくそういうことを全然やっていなくて、同僚が気に入らないとか何とか、日常の不安ばかりミーティングで話していて、肝心の「自分が薬物依存症で、どれだけつらい思いをしたのか」っていうことを顧みなくなっている。恥ずかしながら、そういう状況です。ただ、昨日、気がついたことがあって、孫悟空の頭に輪がついてますよね。悪いことをすると締まる。神様がぼくの心の中にそれをつけたんじゃないかと思います。
傲慢になるとクスリを使いたくなるということが、昨日わかりました。 一昨日、大きな買い物をして、舞い上がっちゃった時に、かなり強い使用欲求が現れました。やっぱり、神様に依存しない時は、自動的に強い使用欲求が現れる。
 おかげさまで、仲間が気づかせてくれるんですね。NAに行って、仲間と分かち合うと、「自分って傲慢だよな。もう一回プログラムをやりなおしてみよう」って思います。ぼくは、ステップ4(モラルの棚卸し)をやった時に、物欲とコンプレックスが自分自身の生きづらさを作り出しているということが、わかりました。ステップ5で、カトリックでいう告解のようなことを神父さんに聞いてもらったんですが、はじめて聞いてもらった時、それまでの罪がゆるされて、とても解放されたんですね。だけど、ふと気がつくといつの間にか、心の垢がたまっている。依存症はいつでも侮れない。でも、仲間と一緒にいるかぎり、ぼくは謙虚になれる。本当に謙虚じゃないと、やっぱりクスリを使っちゃうんだろうなとつくづく思いました。自分かいちばん傲慢な時に、こんなスピリチュアルな機会を与えてもらって、本当に感謝しています。今日もクリーンでいられることに、本当に感謝します。ありがとうございました。
<NAの12のステップ>

  1. 私たちは、アディクションに対して無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた。
  2. 私たちは、自分より偉大な力が、私たちを正気に戻してくれると信じるようになった。
  3. 私たちは、私たちの意思と命を、自分で理解している神の配慮にゆだねる決心をした。
  4. 私たちは、探し求め恐れることなく、モラルの棚卸し表をつくった。
  5. 私たちは、神に対し、自分自身に対し、もう一人の人間に対し、自分の誤りの正確な本質を認めた。
  6. 私たちは、これらの性格上の欠点をすべて取り除くことを、神にゆだねる心の準備が完全にできた。
  7. 私たちは、自分の短所を変えてください、と謙虚に神に求めた。
  8. 私たちは、私たちが傷つけたすべての人のリストを作り、そのすべての人たちに埋め合わせをする気持ちになった。
  9. 私たちは、その人たち、または他の人々を傷つけないかぎり、機会ある度直接埋め合わせをした。
  10. 私たちは、自分の生き方の棚卸しを実行し続け、誤ったときは直ちに認めた。
  11. 私たちは、自分で理解している神との意識的触れ合いを探るために、私たちに向けられた神の意志を知り、それだけを行ってゆく力を祈りと黙想によって求めた。
  12. これらのステップを経た結果、スピリチュアルに目覚め、この話をアディクトに伝え、また自分のあらゆることに、この原理を実践するよう努力した。
Page 7/7