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中山 雅博(ダルク) | ||||
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学校の薬物乱用防止講演で学生さんに話すときは薬物の怖さを強調して話すのですが、今日は良識ある大人の方ばかりなので、クスリの「よさ」も含めて、正直に自分の体験を話したいと思っています。いつもダルクでグループ・セラピーをやっているんですが、そのときに使っている「自己の容認」という文章を読んではじめたいと思います。
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ぼくは「いい子」でした。常に人の目を気にしていて、母親に喜ばれることだけが喜びでした。中学までは勉強ができなかったんですが、宗教の仲間が私立の有名大学に入ったので、ぼくもそこに入れば母親が喜ぶんじゃないかと、高校に入ってから猛烈に勉強して、一浪で合格しました。高校の時から、ぼくには反抗期がなかったんです。教団でも「いい子」で、毎日お経をあげて修行しているところを、みんなに見せたかった。
何回かマリファナを使っているうちに、「もっと気持ちいいものがあるんじゃないか」と友だちに聞いたら、 |
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白い粉が出てきました。覚醒剤でした。ぼくはマリファナならいくらか知っていたんですが、覚醒剤は知らなかった。覚醒剤は注射するものだと思っていたんですが、その時は粉と一緒にアルミホイルとライターとストローが出てきました。アルミホイルの上に粉を乗せて、ライターであぶって、蒸気をストローで吸うんです。「これ、なに?」と聞いたら「スピードだ。マリファナの増強剤だ。」と言われました。今、若い子たちが渋谷で「スピード」とか「S」とか言っていますけど、それが覚醒剤のスラング(俗称)だとは知らなかったんですね。 それではじめて覚醒剤をやったんですが、あの解放感はほかにないですね。今まで人生を抑圧されてきたという気持が解放されて、「なんでこんなに楽しいんだろう」と。覚醒させるクスリだから朝まで起きていて、楽しくて楽しくて仕方ない。それで、「マリファナの増強剤なら害はないだろうから、またやろう」と思いました。 そうこうしているうちに、依存がひどくなっていきました。ぼくは依存が形成されるのは早かったと思います。 |
祖父がアルコール依存症だったので、依存的な性質が、遺伝かどうかわからないんですけど、あったのかもしれません。コントロールして使えたのが半年くらい。それまでは、売人を知らず、友だちから手に入れていたので、入り口でコントロールされていて、乱用程度で収まっていました。そのころ働いていた服屋は派手な連中が多くて、友だちに電話して「こんなクスリをやってみて気に入ったんだけど、手に入る?」って聞くと、簡単に手に入ったんです。その後、自分の足で買いに行くようになってから、転がり落ちるようにダメになっていきました。最終的には、友だちに「おまえは使い方が激しいから、怖くて売れない」と言われるほど、人一倍、使い方が荒かったんですね。 ぼくは、いまだにタバコのポイ捨てはできないし、ポイ捨てする人もゆるせません。電車の中で大きく足を組んでいる人もゆるせないし、連結部分のドアを閉めない人もゆるせないんです。でも、覚醒剤を使うと、自分でもそれができる。今まで反抗期がなくて、悪いことは絶対にできなかったのに、覚醒剤をやると、悪いことも全部できるし、他人も全部ゆるせる。性的な問題についても、抑圧された環境に育ってきたのが、すごく解放された気分を味わう。覚醒剤を体に入れるのが止まらなくなりました。 いつも金曜の夜にはじめて、日曜の夜には終わろうと思うんです。もうやめよう、明日は会社に行こうと思うんですけど、気がつくと月曜の朝になっている。その頃、ちょうどインターネットが普及しはじめて、三日間ご飯も食べず、眠りもせずに、インターネットをやっている。 |
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それが楽しくて楽しくて仕方ない。まだ30代前半だから、体もピンピンしていました。それで、最初は会社にウソをついて休むんです。「今日は体の調子が悪いので行けません」。それが何回か続くうちに、妄想が出てくるようになります。「もしかしたら怪しまれているかもしれない」。そうすると、一つウソをつくためにまた、別のウソを重ねなければならない。どこでどうウソをついているのか、わからなくなってきます。ウソで塗り固めた生活がはじまりました。 最後には半分くらい目が見えなくなって、痛くてしかたないから、家に電話して妹に迎えに来てもらいました。翌朝、起きたら全然見えない。あわてて近所の眼科に行ったら、そこでは処置できないということで、大きな病院に行きました。そこで「失明の危険性がある」と言われたとき、ぼくには「もう覚醒剤をやめたい」という気持ちと、「目が見えなくなったら覚醒剤の注射が打てなくなる」という気持ちが同居していました。それが依存症なんだと思います。その時はもう、覚醒剤を使っていることがばれていたので、母親の手をとって、「こんなことは二度としません。もうやめます」と泣きました。ところが、見えるようになって最初にしたのは、売人への電話でした。目が見えない間は「やめよう」と固く誓ったのに、見えるようになると、やっぱりやめることができませんでした。まだ仕事もあり、お金もあったし、親も覚醒剤を使っているぼくのことを受け入れてくれていました。 親の話をすると、ぼくが覚醒剤を使っているんじゃないかと怪しんだときに、いちばん変わったのは父親でした。先ほど話したように、ぼくは父親を大嫌いでした。母親とぼくは母子カプセルで、父親は敵でした。3分と同じ部屋に一緒にいられなかった。 |
その父親がいきなり「おはよう」とあいさつし出しました。 親の愛情で治してくれようとしたらしいんです。 その時にぼくが思ったのは、「こいつ、気づいたな」ということと、「これは利用できる」ということでした。 その時、父親が怒ったらシュンとしたかもしれないんですが、やさしくなったので、「こいつはオレに負い目があるな。これは利用しない手はない」と思いました。父親の態度が変わりはじめたのは、ぼくが失明しかけた頃だったんですが、どうもその頃ダルクの家族会に行きはじめていたらしいんですね。ともかく、ぼくは失明しかけても、クスリをやめることができませんでした。 その頃には、もう会社にもウソがつきにくくなり、いろいろな仮病を使うようになりました。ただ、根が「いい子」だから、ウソをつく自分を責めるんです。会社に電話もできず、無断欠勤が続くようになります。そうすると、上司から「ファクスでいいから連絡だけはくれ」と言ってくるので、ファクスを入れるのですが、そのうちファクスも怖くて入れられなくなる。今度は、夜、みんながいなくなった頃に会社に行って仕事をして、朝帰ってくる、昼夜逆転の生活をするようになります。洋服屋さんはけっこういい加減だったので、そういうことがゆるされたんです。とにかく、かなりひどい状態でした。 ぼくの最後の無断欠勤は、渋谷の宮下公園のトイレの中でした。みじめでした。小便が便器の外にこぼれていて汚いんですが、覚醒剤なしには怖くて外にも出られないので、とにかく覚醒剤を打ちたくて、トイレで注射しました。会社に一本電話すればいいんですが、被害妄想で、怖くてできないんですよ。ふるえながら注射をして、時計を見つめているうちに10時の始業時間を過ぎた。その時、今思うと、ドンと何かが落ちたような音がしました。 |
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「ああ、オレの人生は、落ちたな」と、強く感じました。それでも覚醒剤をやめることができませんでした。会社を辞めてでも、覚醒剤は止まりませんでした。 本当は自己都合で辞めたのだから、3ヶ月間は失業手当はもらえないのに、会社都合の退職にしてくれたので、その日から失業手当がもらえました。その結果、金があって、住むところがあって、時間があるという、薬物依存者にとって天国のような状態が現れました。仕事を失った自暴自棄の中で、ぼくの依存は急激に進み、覚醒剤を打ちまくりました。しまいには職業安定所のトイレでも打ちました。その時にはじめて、打っても気持ちよくないという体験をしました。その頃になると、打っても気持ちいいのが15分、その後は筋肉が硬直して、セミの幼虫のように体を丸めるんです。今でも緊張すると、後遺症で硬直します。それが48時間くらい続きます。それでもやめられませんでした。 母親は、自分の信仰の力でぼくを治してやろうと、ますます狂信的になりましたが、ストレスから平衡感覚がおかしくなって、ゲエゲエ吐くようになりました。ぼくは会社を辞めて家にいましたが、家だと親の目があって思う存分覚醒剤を使えないので、放浪の旅に出るようになります。ラブホテルやビジネスホテルに一人で泊まりながら、クスリを使うようになります。しばらくすると、疲れ果てて家に帰ってくるんですが、親の部屋を通らないと自分の部屋に入れません。ぼくは、髪も伸び放題のすごい格好で、母親が部屋でゲエゲエ吐いているのをまたいで、自分の部屋に入っていきました。ぼくは、父親はずっと憎いけど、母親は愛していたつもりでした。でもその時、一瞬、母親に対する憎しみを感じたのを覚えています。母親がどんなに苦しんでいても、父親が何を言っても、ぼくはクスリをやめることはできませんでした。 失業保険をもらっている間に、クスリを打っても効かなくなって、半年くらい自動的にクスリが止まりました。その時に、母親は「自分の信仰が救った」と思いました。それで、一緒に信仰していた教団の会長のところに行って、「おかげさまでよくなりました」とあいさつして、仕事を決めて、ぼくはまた働きだしました。父親も「もう、おまえはダルクなんか行かなくてもいいな。よかったよかった」と言って、平穏な日々を過ごすようになるんですが、そんな時、友だちから一本の電話が来ます。 |
「おまえ、何してるの?」「しばらくクスリやめてるんだ」「またやろうよ」「…ウン」。いとも簡単に、また使いはじめました。こんなに簡単に滑っちゃうんだなと思いました。半年もやめていたんだから、体も元に戻っていると思いました。また、バラ色の日々かはじまるんじゃないかと。でもクスリを打ったら、気持ちいいのが15分で、セミの幼虫が48時間。あっという間に戻ってしまいました。依存症は進むと元に戻れないというのは、多分本当です。それで、新しい会社もクビになりました。 もう、その時には、自暴自棄というか、会社の一つや二つどうでもいいという気になっていました。本を読むと、「依存症者はとめどなく自己中心的になる」と書いていますが、まさしく自分のことしか考えていない。誤解を恐れずにいうと、クスリが神様でした。一時たりとも離れられない。信仰を持っていらっしゃる方にはおわかりいただけると思います。あれだけプライドが高くて、サラ金だけは絶対行くまいと思っていたのに、その頃は5社に借金していました。それでも、ぼくはクスリという神様といつも一緒だから、怖くないんです。クスリさえあれば何とかなる。自分の人生は見ない。本当に上手に戸を立てられる。これからクスリを買いに行くというと、頭の中にバリアをはる。クスリのことしか考えないことができるんです。 |
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窓も閉め切っていて、布団はダニだらけで、ものすごいありさまでした。まさに地獄絵のようでした。 その時に母親がとった行動が面白かった。ぼくが覚醒剤を買いに行っている間に、ペットボトルのおしっこを片づけて、空のペットボトルを用意しておいてくれました。つらかっただろうなと思います。でも、ぼくはそれを見て「ありがたい」というよりも、「この人は利用できる」という風にしか思いませんでした。ぼくは32歳からクスリはじめて、40歳で底をつくまで、8年間使い続けました。最後の方は寄る年波で、それまで3泊4日でクスリを使い続けていたんですけど、1泊2日しか効かなくなっちゃったんですね。母親はよく見ていて、ちょうど効き目が切れた頃に、部屋の外にたこ焼きやおにぎりとお茶を用意しておいてくれます。ぼくは、サッとドアを開けてそれをとって、部屋の中でむさぼるように食べました。お風呂にも入らず、髪もヒゲもぼさぼさで、本当に地獄絵でした。それでも、最後まで覚醒剤をやめることができませんでした。 その頃はもう、父親もダルクの家族会で言われて、ぼくをわざと無視するようになっていました。そして6年前の8月、とうとう借金取りが自宅まで来ました。その時はじめて、父親の堪忍袋の緒が切れました。「そんなにクスリが使いたいんだったら、家を出て行け。家にいるならクスリを使うな」。それまでも、クスリを使いすぎて二度ほど殴られたんですが、そのたびに「おまえのせいで、こうなったんだ」と言うと、父親はへこんでくれたんですね。今回もそれで大丈夫だろうと思ったら、父親の決意が固かった。「1ヶ月間猶予をやるから、その間に決めろ」と言われました。 その時にぼくは、クスリの売人になろうと考えました。売人になれば一生クスリを使えるだろうと。仲のいい人に相談したら、「引きこもりには売人はできない」と言われました。それで、1ヶ月間使い続けて、最後は注射器にまだ覚醒剤が残っていましたが、「もうダメだ」と思って、両親のところに行って、「すみません。やめられません。病院に連れて行ってください」と言いました。9月のことです。横浜の芹が谷病院というところに行きました。正直、ホッとしました。8年間使い続けて、信用から何からすべて失って、信仰も失って、まわりに迷惑だけをかけて、いちばん最初はホッとしました。病院でプログラムを受けて、まだ使いたいという欲求はあったんですけれども、とにかくリハビリをしようと思って、はじめて横浜ダルクに行きました。 |
ある時、仲間と「バーゲンに行こう」と、早起きして横浜のデパートに行きました。港のそばにとてもきれいな公衆トイレがあって、それを見たとたんに、ぼくは公衆トイレでクスリを使っていたので、クスリの使用欲求が現れました。ミーティングを通じてだんだんとセラピーを進めていくんですけれども、その時にも心の余裕がだんだんなくなって、仲間とぶつかるようになっていく。 今まで自分を受け入れてくれた仲間だと思っていたんだけれども、いっしょに生活していて、冷蔵庫の使い方とかゴミの出し方とかささいなことで嫌になっていく。 半年目くらいで八方ふさがりになって、何をやってもダメになりました。仲間からのメッセージも届かない。対立も止まらない。クスリの使用欲求も止まらない。お金はない。家にも帰れない。八方ふさがりの状況の中で、その時はじめてプログラムが自分の中に入ってきました。ステップ1が心に入りました。クスリに対しても無力だし、仲間との関係でも無力だし、ぼくの力では何にもできない。そう思った時に、はじめて祈りが出てきた。いつも来てくれていたシスターに「祈るってどんなこと?」と聞いたら、そのシスターは「おぼれている人は水の中でもがくでしょう。あなたはその状態。力を抜いてご覧なさい。浮くでしょう。祈るってそういうことよ」と言われました。それで、祈りはじめたんです。 NAは横浜の山手教会の地下ホールを借りてやっていました。土曜日の夜になると、教会に人が集まってくる。お祈りしているらしいというので、入ってみたんですね。1回目は「ふーん」と思っただけですが、2回目に行った時、福音の朗読が放蕩息子だったんですよ。これが、回心のきっかけでした。 |
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こんなに癒されたことはなかったですね。「こんなぼくでも、ゆるしてくれるの?」って。「放蕩のかぎりを尽くした」っていうところに、妙に共感しました。「持ち金を全部使い果たし…」って、全部ぼくと一緒じゃないかって…。そういうきっかけがあったので、シスターの話を聞いて、キリスト教に興味を持ちはじめたんです。それで、あれよあれよという間に洗礼を受けることになりました。 ぼくは、すべてを失わなければ、相当に嫌な人間になっていたんだろうなって思います。腐ったブライドを持ち、人を道徳上の価値観で差別し、相当嫌な人間で終わっていただろう。その鼻っ柱を神様が折ってくださったと、今になってつくづく感じます。クスリをやめて、今5年経ちました。この間、5年のお祝いをやったんですが、普通はこのプログラムをやると、謙虚になって行かなきゃならない。でも、ぼくはこの頃、ものすごく傲慢で、回復を勝ち取ったような気がするんです。自分が何もかも失って、どん底だった時は、あんなに仲間の話に共感できたのに、5年たったらなんで裁くんだろう。すっかり、放蕩息子の兄のような気持ちになってしまうのは、何なんだろうって思います。この頃は物欲の奴隷で、買い物が楽しくて仕方ない。買い物依存症だって思います。 この話す機会を与えられて、自分の過去を語ることで、回心の機会にしようと考えています。しばらくそういうことを全然やっていなくて、同僚が気に入らないとか何とか、日常の不安ばかりミーティングで話していて、肝心の「自分が薬物依存症で、どれだけつらい思いをしたのか」っていうことを顧みなくなっている。恥ずかしながら、そういう状況です。ただ、昨日、気がついたことがあって、孫悟空の頭に輪がついてますよね。悪いことをすると締まる。神様がぼくの心の中にそれをつけたんじゃないかと思います。 |
おかげさまで、仲間が気づかせてくれるんですね。NAに行って、仲間と分かち合うと、「自分って傲慢だよな。もう一回プログラムをやりなおしてみよう」って思います。ぼくは、ステップ4(モラルの棚卸し)をやった時に、物欲とコンプレックスが自分自身の生きづらさを作り出しているということが、わかりました。ステップ5で、カトリックでいう告解のようなことを神父さんに聞いてもらったんですが、はじめて聞いてもらった時、それまでの罪がゆるされて、とても解放されたんですね。だけど、ふと気がつくといつの間にか、心の垢がたまっている。依存症はいつでも侮れない。でも、仲間と一緒にいるかぎり、ぼくは謙虚になれる。本当に謙虚じゃないと、やっぱりクスリを使っちゃうんだろうなとつくづく思いました。自分かいちばん傲慢な時に、こんなスピリチュアルな機会を与えてもらって、本当に感謝しています。今日もクリーンでいられることに、本当に感謝します。ありがとうございました。 |
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