柴田 幸範(イエズス会社会司牧センター)
 昨年2月に「かんぼれん」(カンボジアの友と連帯する会)のスタディ・ツアーでカンボジアに行ったとき、アンコール・ワットで有名なシェムレアップにある「アキラの地雷博物館」を訪ねた。「アキラ」という名前から日本人かと思ったが、れっきとしたカンボジア人だという(本書の著者紹介によれば、「アキ=太陽の神」「ラー=早く走る者」という意味だそうだ)。日本にあれば「掘っ立て小屋」と言われそうな簡素な木造の建物に、信管を抜いた安全な地雷や不発弾が、所狭しと並んでいた。自宅兼博物館のこの建物には、アキラの家族や、住み込みで学校に通う地雷被災者の子どもたち、アキラに賛同する日本人ボランティアもいた。残念ながらアキラ本人には会えなかったが、私財を投じて、政府ににらまれながら博物館を運営するアキラという人物に、大いに興味を持った。
 ところが先日、自宅近くの図書館で、アキラが書いたという本書を見つけた。さっそく借りて読んでみたが、アキラが自ら語った波乱に満ちた残酷な半生と、献身的な現在の活動に、読み終わってしばらく呆然とした。
 アキラが生まれたのは1973年頃。75年にポルポト政権が誕生して、親から引き離されて、「子どもグループ」で育てられたため、生年もはっきりしないらしい。父親は、学校の教師という「知識人」だったため、過酷な強制労働のあげく、仮病の疑いで殺された。母親も老人に親切にしたのをとがめられて殺された。わずか5歳で孤児になったアキラはポルポト軍によって育てられ、10歳で銃を持たされ、地雷の埋め方を教えられて、ベトナム軍と戦った。13歳のときにベトナム軍につかまり、今度はベトナム軍兵士としてポルポト軍と戦った。そして16歳になるとカンボジア政府軍(ヘンサムリン政権)に入れられ、ポルポト軍と戦った。

 こうして20歳までの10年間、アキラは兵士として戦い続け、何十人という敵を殺し、地雷を1万個は埋めたという。1993年、カンボジアにやってきたアンタック(国連軍)の求めに応じて、地雷処理に携わるようになって、アキラはようやく、戦争以外の仕事と軍隊以外の暮らしを体験することになった。自分の生き方は自分で選べるのだとはじめて知ったアキラは、地雷除去を天職と感じるようになった。こうしてアキラは、アンタックで働きながら覚えた外国語を生かして、観光ガイドで稼ぎながら、たった一人で、無償で地雷処理をはじめた。
 処理した地雷や不発弾が大量にたまると、地雷の恐ろしさを訴えようと、私財を投じて土地を買い、1999年に自宅をかねた地雷博物館をオープンした。戦争で親を亡くした孤児や、地雷で手足を失った子どもたちを自宅で預かり、学校に通わせる活動もはじめた。あたかも、争いと悲しみに満ちた20年間を取り戻すかのように、精力的な活動を続けたのだ。彼の献身的な活動は、やがて、日本をはじめ各国に支援者の輪を広げていった。
 カンボジアには依然、数百万個の地雷が埋められているという。アキラは機械を使わず、素手に木や鉄の棒一本で、これまでに2~3万個の地雷を除去してきた。長年の地雷除去作業で、火薬の毒が体にたまって体調を崩しているという。それでもアキラは地雷除去を止めない。
 二人の息子に「アマタ」(クメール語で「死なない」という意味)と「ミン」(フランス語で「地雷」)と名付けたアキラ。「もう、地雷で子どもたちを死なせない」という執念ともいうべきアキラの姿に衝撃を受けた。同時に、人間はどんな不幸な境遇からもはいあがり、生まれ変わって、他人のために尽くすことができるのだと、深い感動を覚えた。