柴田幸範(イエズス会社会司牧センター)
 2003年6月に発足した「死刑を止めよう」宗教者ネットワークは、これまで5回にわたって死刑廃止セミナーを開いてきました。去る11月19日には、第6回セミナーを東京・練馬の浄土真宗東本願寺、真宗会館で開催しました。仏教施設でのセミナーは今回がはじめてです。参加者は約35人と少なかったのですが、心に深くひびく講師のお話に、熱心に耳を傾けていました。
 今回のセミナーのテーマは「罪のあがないとゆるし、そして再生」です。死刑を宣告された人は、本当に更生できない人なのか。被害者の無念は、加害者の死によってしかあがなわれないのか。死刑をめぐって、対立的に見られがちな加害者と被害者の、本当の現実を当事者や直接関わっている方々からお聞きして、被害者も加害者もともにいやされ、生き直せる社会のあり方を探るのが目的でした。
 最初に話したのはイエズス会のブラザー・マヌエル・エルナンデスさん。教誨師・篤志面接員として45年間、主に少年院などで面接に携わり、罪を犯した少年たちの更生に取り組んできました。エルナンデスさんは、「この世に悪人はいない。どんな罪にも理由がある」と、罪を犯した少年たちの内面に、正面から向き合ってきました。多くの少年たちは、家庭や学校で、愛を与えられずに、苦しみながら育ってきました。家庭と社会のゆがみを最も深刻に受けてきた被害者は少年たちです。にもかかわらず、政府は少年法を「改正」して、厳罰化によって犯罪を押さえ込もうとしています。エルナンデスさんは、「鑑別所に入るべきなのは少年たちではなく、大人です」と言います。大人は少年たちを罰するのでなく、少年たちにきちんと向き合って、家庭と社会を立て直し、少年たちの更生を支えることにこそ力を注ぐべきだと、エルナンデスさんは訴えました。

 永岡英子さんは、オウム真理教家族の会で1989年から活動してきました。家族の誰か(主に子どもたち)がオウム真理教に入信してしまった人たちが集まって、家族をオウム真理教から脱会させるために活動していました。ところが、1995年の地下鉄サリン事件など、オウム真理教による犯罪が相次いで起こり、家族をオウム真理教にとられた「被害者」だったはずの会員たちは、犯罪を起こしたオウム信者の家族という「加害者」の立場に変わってしまいました。この微妙な立場にたちながら、今なお家族を取り戻すために、永岡さんたちは活動しています。オウムの危険性を、さんざん行政に訴えたのに、何の対策もされないまま、一連の犯罪が起こってしまった。そして、いったん犯罪が起こってしまうと、今度はオウムをつぶしてしまえ、という大きな世論が、信者の家族を襲います。永岡さんたちは無力感を感じながらも、家族の脱会や洗脳の実態解明に、今も地道に取り組んでいます。
 片山徒有(ただあり)さんは、1997年に8歳の息子さんを交通事故で亡くしました。この事件をきっかけに、司法手続きのあり方、情報公開、さらに事件・事故被害者の支援などの問題に積極的に取り組んできました。中には、家族内の暴力や虐待にさらされている人もあり、こうした人たちを支援するためにも、片山さんは被害者支援に運動に取り組んできました。殺人事件の被害者遺族が応報感情から死刑を望むのは、ある程度、やむを得ないことです。しかし、もし本当に犯罪の再発を望まないのなら、その先、つまり犯罪者の更生という問題を考えなければならない。そのためには、死刑を含めた法律を制度面からきちんと考える必要がある、と片山さんは言います。片山さんは、ご自身も少年院などで職員や少年を対象に講演や講義を行い、罪を犯した人の更生にも積極的に関わっています。片山さんが今、可能性を見いだしているものが二つあります。一つは裁判員制度。一般市民が司法に参加し、量刑にまで意見を述べることによって、司法プロセスや犯罪者の更生を自分の問題として考えるチャンスです。もう一つは修復的司法。処罰することを目的とした応報的司法と対照的に、被害者と加害者の直接の対話によって解決しようというものです。そこには地域・社会の支援も不可欠であり、犯罪者の更生を司法・行政に任せず、社会自身の問題として取り組んでいく上でも、修復的司法には大きな可能性がありそうです。
 最後は哲学者の高橋哲哉さん。ホロコースト(ユダヤ人虐殺)や靖国神社など、戦争責任や歴史認識の問題に積極的に発言してきた高橋さんは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』をテキストに、人間の罪とゆるしの問題について深く触れました。第一のポイントは、ゆるしと応報の当事者性です。「ゆるしが不可能に思えるほど重大な犯罪であればあるほど、死刑への誘惑が強くなる。逆に、ゆるしが不可能であればあるほど、ゆるしが求められる。対立が深刻であればあるほど、ゆるしが必要となる」「ゆるしも復讐も、加害者と被害者の間でのみ成立するのであって、たとえ遺族であっても、被害者に代わって加害者をゆるしたり、復讐することはできない」というものです。こうして、遺族の応報感情という死刑の論拠は否定される、と高橋さんは言います。第二のポイントは、「にもかかわらず、ゆるしというものは存在する。本当のゆるしとは、無条件のゆるしでなければならない」というものです。つまり、加害者が改悛して謝罪するならばゆるすのではなく、悪人のままでもゆるすということです。このような無条件のゆるしこそ、逆に、加害者の改悛や謝罪を引き起こす可能性があるのではないか。これは「大いなる逆説」です。そのようにゆるせるのは、神だけかもしれません。通常、私たちは、法的処罰によってやっと、一対一の復讐を抑えているにすぎないのです。しかし、個人と社会のいやしと再生を求めるとき、こうした宗教的な次元にまで及ぶゆるしを考えることは、重要なことに思われます。

 4人のお話を聞いていて感じたのは、「私たちは死刑に何を求めるのか」という根源的な問いでした。世論が死刑を求める主な理由は、「社会の安全を守るため」であり、「被害者感情を満足させるため」です。
しかし、「安全を守る」ということは、エルナンデスさんが言われたように、「もっとも弱い者」である罪を犯した者を、あたかも外科手術のように切り捨てることなのでしょうか。「どんなことにも理由がある」。罪を犯した人を切り捨てるのは、その理由を見たくないからでしょうか。自分にもあるかもしれない、弱さや醜さを見たくないからでしょうか。
 「被害者感情」というとき、私たちは生身の被害者と向き合っているでしょうか。かれらの揺れ動く気持ちを正面から受け止めているでしょうか。それとも、「加害者は処罰してやった。だからもう満足して、これ以上私たちを煩わせないでくれ」と考えているのでしょうか。実は、私たち第三者こそが、自分たちの心の平安のために、死刑を求めているのではないでしょうか。
 私たちは、死刑のない社会を考えたことがあるでしょうか。加害者一人ひとりの更生を、具体的に考えたことがあるでしょうか。被害者遺族と直接話したことがあるでしょうか。どうしていいかわからない、という言い訳は、もう通じません。すでにエルナンデスさん、永岡さん、片山さんの話を聞いてしまったからです。かれらが働いている実践の場でこそ、高橋さんが語るような「大いなる逆説」が実感できるのでしょう。信仰や道徳は机の上で語るものでなく、実践の場で試し、鍛えられるものでなければなりません。
 「死刑を止めよう」宗教者ネットワークの活動は、新たな局面に入っています。来年に向かって、死刑執行停止法案の成立をめざして、議員連盟や日本弁護士連合会、その他の市民団体と協力していかなければなりません。いまこそ、死刑という「死の連鎖」に終止符を打つべき時です。