柴田幸範(イエズス会社会司牧センター)
死刑の執行停止を求める祈りの集い
 9月2日夜、福岡の大名町カトリック教会で、「死刑を止めよう」宗教者ネットワーク主催の『死刑執行の停止を求める-諸宗教の祈りの集い2005福岡』が開かれた。この集いには、宗教者ネットワークのメンバーである浄土真宗大谷派、生命山シュバイツァー寺、天台宗、日本聖公会、イエズス会社会司牧センター、大本、死刑廃止キリスト者連絡会、袴田巌さんを救う会の有志をはじめ、地元の宗教者など、約70名が参加した。
 第一部は、敗戦直後の福岡で起こった冤罪事件である福岡事件のビデオを上映した後、同事件の再審請求人の一人である藤永清喜さんと、再審弁護団長である八尋光秀さんの対談が行われた。
 横笛奏者の金子由美子さんによる演奏の後、上記8団体の有志による発言と祈り、参加者全員によるローソクの献灯が行われた。カトリック教会で、それぞれの宗派が各自のスタイルで、死刑囚やその家族、被害者とその家族、死刑を執行する人など、死刑に関わるすべての人に思いをはせ、祈りを捧げることができたのは、ありがたいことだった。私が行った発言と祈りの一部を紹介する。
  「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、『なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。《わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない》とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである』」(マタイによる福音9章10-13節)
 このように、イエスは常に、罪人やさげすまれる人々とともにおられました。神は、あやまちを犯し、神の掟や人の道に背いた人を切り捨てることなく、かえって、罪人を特に憐れんで、豊かな愛を注ぎ、立ち直らせようとされます。キリスト者の信仰とは、「私は神の前で正しい者である」と胸を張って宣言することではありません。むしろ、「こんな罪深い私を神は憐れんで、イエスの死によってあがなってくださった」不思議さ、ありがたさを心の内で何度もつぶやくことです。
 このような私たちですから、罪を犯した人たちに「石を投げてうちころす」ことはできません。「こんな私でさえ救ってくださる神の憐れみ」を信じて、罪を犯した人たちとともに生きていく社会、かれらの立ち直りを支え励ます社会をめざすしかないのです。
 犯罪の被害にあって亡くなった方々のために祈ります。苦しみと恐怖のうちに亡くなったかれらの魂をあなたの御腕に抱きとめて、永遠の安らぎのうちに憩わせてください。
 家族を犯罪によってうばわれたご遺族のために祈ります。悲しみ苦しんでいる人々とともに重荷を負われるあなたにならって、私たちもかれらの苦しみをともに担うことができますように。
 あやまちを犯して死刑に処せられた方々のために祈ります。かれらの魂をあがない、天の国に招いてくださいますよう、同じ罪人としてお願いいたします。
 無実の罪で処刑された方々のために祈ります。かれらの無念さを、あなたの慈しみによって晴らし、かれらに永遠のやすらぎをお与えください。
 獄中の死刑囚のために祈ります。無実の方には、正義が実現されて、無事生還しますように。罪を犯した方には、つぐないと和解と生き直しのチャンスが与えられますように。
 肉親を処刑された方々のために祈ります。その立場のせいで、肉親を亡くした悲しみさえ口に出せないかれらの苦しみ、痛みを、どうか癒してください。
 職務上、処刑に関わらなければならない方々のために祈ります。私たちにかわって死刑という残酷な刑に関わり、心身を痛めつけられているかれらを、どうか癒してください。
 最後に、死刑という残酷な刑罰を存続させている日本社会の、回心のために祈ります。私たちが、死刑という暴力で安全な社会を実現できるという幻想から一刻も早くめざめ、不信ではなく信頼を、排除ではなく理解を、憎しみではなく愛を、求めることができますように。
 罪深い私たちを憐れんでください。
<神道による祝詞(のりと)も奏上された>
死刑執行に抗議する
 2005年9月16日、大阪拘置所で1名に死刑が執行された。氏名は公表されなかった、1983年に起こした連続殺人で、2000年に死刑が確定した北川晋死刑囚と見られている。処刑当日の午後、私は福島瑞穂・保坂展人両議員や、他の市民団体のメンバーとともに、法務大臣に面会を求めたが、公務で忙しいとのことで、法務省刑事局長に会って抗議文を手渡した。席上、福島・保坂両議員は、「なぜ、衆議院選挙直後の落ち着かない時期に死刑を執行したのか」「なぜ執行対象の氏名を公表しないのか」「執行対象はどんな基準で選んだのか」など、さまざまな質問をしたが、刑事局長は「死刑が法律で定められている以上、行政としては粛々と執行するだけだ」「具体的な内容については申し上げられない」と、形式的な回答に終始した。いくら犯罪者といえども、人ひとりの命を奪うのだから、もう少し血の通った対応ができないものかと、悲しくなった。
 当センターが提出した抗議声明を紹介する。
死刑執行に抗議します
法務大臣 南野知恵子殿
 私たちイエズス会社会司牧センターは、法務省が9月16日、大阪拘置所で北川晋さんに死刑を執行したことに、強く抗議します。
 当センターはカトリック・イエズス会の日本における社会問題担当機関として、死刑囚が描いた絵画を展示する「いのちの絵画展」や、死刑囚の支援者や被害者遺族のお話を聞く会などの開催を通して、死刑について考えてまいりました。そこで得た一つの結論は、「死刑の執行を停止して、死刑の存廃について国民の間で議論を行うべきだ」ということでした。この立場に立って、「死刑を止めよう」宗教者ネットワークにも参加しています。
 カトリック教会は死刑執行停止を明確に支持しています。前教皇ヨハネ・パウロ2世は「現代社会は…犯罪者に対して更正する機会を完全に拒むことなく、彼らが害を及ぼさないようにさせるやり方で、犯罪を効果的に抑止する手だてを持っています」と述べて、死刑を事実上停止するよう求めました。また、日本カトリック司教団も「どのような理由があろうと、またそれがどんなに社会正義に満ちたものであろうと、私たち人間が、国家共同体の名において、一人の人間のいのちを奪うことは、神の権限を侵害することになるのではないでしょうか」と死刑に疑義を表明しています。
 カトリック教会は、「キリストが自ら十字架刑に処せられたのは、すべての人間の罪を贖(あがな)って、天の国に入る道を開くためだった」と教えています。そこには、どんな人も罪を免れないという人間に関する深い洞察と、どんな罪人をも救おうとする神の強い意志があります。ですから、私たちは、どんな罪を犯した者であっても回心と償いの機会を奪ってはならないと、強く訴えます。
 私たちは、「死刑によって社会の安寧が保たれ、被害者遺族の苦しみも癒される」という考え方に疑問を持っています。犯罪の撲滅と被害者遺族の救済は、犯罪者を社会から排除することによってではなく、犯罪者の更生と償い、犯罪を生み出す原因の解明と除去、社会による徹底した被害者支援によってこそ実現されると信じています。
 特にこの暴力に満ちた現代日本社会において、死刑という暴力をさらに重ねることによって、社会に安全がもたらされることは決してありません。このような時代だからこそ、罪を犯した人々を受け止め、彼らの立ち直りを励まし支える社会を築く必要があります。
 私たちは今回、死刑を執行された北川さんとそのご家族、北川さんが引き起こした事件の犠牲者とそのご遺族の魂の平安を心から祈りつつ、法務省が一日も早く死刑の執行を停止し、死刑の存廃に関する国民的な議論を積極的に喚起するとともに、被害者ケアに真摯に取り組まれるよう、強く訴えます。
2005年9月16日

 9月24日には東京で、市民団体や弁護士など約40人が参加して、死刑執行に抗議する集会が開かれた。今回も死刑を阻止できなかったことに、深い悲しみと反省が述べられた一方で、死刑廃止に向けて、日本弁護士連合会など各方面で動きが活発化しつつある現状も報告され、参加者一同は、今日から再び死刑廃止に向けて歩み続けようという、力強い決意を新たにした。