山田 昭義(社会福祉法人AJU自立の家常務理事)
  AJU自立の家は、1990年、障害当事者運動の中から、生まれた法人であり、障害者が自立を目指す施設です。
 車いすを利用している私たちは、1978年初めて集い、「福祉の街づくり運動」を始めました。当時200万大都会の名古屋市において、車いすで利用できるトイレが何処にもない時代でした。 車いすを利用する私たちが行政や百貨店などに、要望書を書いたり、仲間たちと出かけて行き、私たちも社会の一員であることをアピールしました。
 私たちの福祉の街づくり運動を支えてくれたのは、愛の実行運動(AJU)という団体でした。この団体の創立者は、神言修道会士のゲオルグ・ゲマインダ神父さんで、AJUの代表は近藤雅広神父さんでした。

 近藤神父さんと出会い、「教会の中で活動するのではなく、地域の中で市民活動」を目指し、それをAJUがバックアップしてくれる事で、名古屋の障害当事者運動がスタートしたのです。以来、重度障害者だから駄目だと言われていた様々な活動にチャレンジしてきました。先ず、最初に取り組んだのは、サマーキャンプです。街に出ることも困難な時代に、車いすでキャンプは一見無謀と言われました。しかし、仲間に呼びかけたら、多くの家の中で悶々としていた仲間が、外に出られるということで参加してくれました。簡易トイレを作り、車いすで比較的動ける場所を探し、初めてのキャンプは大成功でした。

 車いすを利用していても街に出られるという自信ができたのです。名古屋の中心街には毎月出かけて行き、仲間たちと遊びました。勉強会も開催しました。月毎に参加者が増えていき、如何に家の中で苦しみ、情報に飢えていた仲間たちが多かったという証でした。

 そんな仲間たちの思いに応えて、月例会という形で勉強会を開催し、午後は仲間たちと街に出るという方法で、活動が大きく広がっていきました。次は旅行をしようと各地に出かけました。それまで外出すら自由にできない私たちに、旅行は全く縁がなかったのです。
新幹線名古屋駅はエレベーターもなく、何十段もある階段を背負って貰わなくてはならず、遠くに行く事は不可能でした。 そこで車いすの仲間70台位で、新幹線を利用して京都旅行を計画しました。当然ながら名古屋駅は協力拒否をされ、エレベーター設置を要望しながら、京都旅行を実施しました。 このことはマスコミにも大きく、何度も採り上げられ、やがて新幹線名古屋駅にエレベーターが設置される事になり、車いすの福祉の街づくり運動が大成功を収めました。
 それから車いすダンス・盆踊り・チェアスキー・ヨット・福祉映画祭・福祉実践教室(小中高校に出かけて行き車いすの体験教室)・名古屋シティハンディマラソン・車いすガイドブック等様々な形で、障害者福祉を社会にアピールしてきました。

 また、1981年ヨハネ・パウロ二世来日を機に、カトリック障害者連絡協議会の結成に参加し、会長として18年間「ミサへの完全参加」を目指して活動し、教会内におけるハードとソフトのバリアフリーを求め、教会でも障害者も一人の信者としての働きが出来るように、また障害者の声を教会に届ける活動をしてきました。
 こうした障害当事者運動を通して、社会の矛盾に対して発言してきた中で、どんなに重い障害を持って生まれてきても、「生まれて来てよかった。生きていてよかった」と言える人生を創るために、自分の人生に自分自身で責任をもって生きていける社会を目指し、社会福祉法人を設立。社会的自立を訓練する場として福祉ホーム(障害者の下宿屋)を中心とし、デイセンター・働く場として「わだちコンピュータハウス」の三施設を1990年に開所した。

自立をしたいと思っても、自分にどれだけの介助が必要か、人間関係を如何に創るか、金銭管理はどうする等、どうしていいか判らない仲間達に、体験を通して一つひとつ訓練し、失敗を通して初めて自分を理解して、4年間で社会に自立して行く仕組みを、 「社会福祉法人AJU自立の家」として、全国で二番目に設立・開所したのです。 AJU自立の家設立にあたっては、寛仁親王殿下を中心に、故相馬信夫司教様はじめ多くの人の多大なご尽力をいただき、施設が開所できたのです。

 障害者の下宿屋を開所以来15年間で、70人の重度障害者が社会に卒業して行きました。卒業した仲間は、四肢マヒにより家族の庇護の下で、養護施設で隔離され、閉ざされてきた中で悶々とした人生を送ってきた仲間達でした。施設でしか生活できないと考えられてきた人たちが、ヴォランティアの協力により、社会的にも自立していったのです。

 わだちコンピュータハウスでは、重度障害、特に四肢マヒと言語障害により、一般就労は勿論不可能で、障害者授産施設においても1ヵ月一所懸命働いても、月1万円か2万円も貰えばいいネ!と言われる障害者の世界で、わだちコンピュータハウスでは1995年から年間給与額が130万円を越すに至り、月2~3万円の給与の障害者の働く世界に一石を投じてきた。
 福祉の世界にも権利に基づいた施策が行われることを重度障害者も心から願い、一人の社会人として自立した生活を望んでいる。AJUはその一歩を踏み出したのです。

 そして、この実績を基に二年前の10月から、知的障害者通所授産施設を開設しました。我が国では知的障害者の世界は一所懸命働いても、その殆どが月何千円にしか成らない。それをおかしいと言う専門家が皆無である異常さに、AJUとして知的障害者の働く問題にチャレンジし、参加しました。

 幸いAJUの理念に神言修道会が共鳴していただき、岐阜県多治見市に在る神言会多治見修道院のぶどう畑と、教会地下に在るワイナリーを無償提供してもらうことができ、知的障害者通所授産として「ワインづくりと販売」をはじめる事に成ったのです
 知的障害者がぶどうの世話から収穫までの作業を年間を通して関わり、9月の収穫期にはワインづくりのお手伝いをすることを通して、年間100万円の給与を実現しようと言うものです。昨年からぶどう作りの専門家を職員として採用、今年初めての本格的収穫には、昨年の5倍の収穫を実現し、着実な歩みを始めました。

 ぶどう作りは1.2haという規模で、全国的にも最も小さいワイナリーに属し、今後のワイン作りの方向性を模索しているところです。その中から年間10万本のワイン販売を実現することで、100万円の所得保証を可能にするために、より良いワイン作りを目指す、その為にワイン作りの専門家を採用し、5年後にはワインの品評会にも出せるほどの技術を身に着けて行きたい。それが一番必要であり、賢明な道であるといえます。

 そして、より良いワインを作る為に、ワイン作りの本場フランス、イタリア、スペインからワイン醸造専門家を招請する計画を作り、イエズス会の安藤神父さんに協力要請をしたところ、快く協力を約束していただき、安藤神父さんの故郷スペインのサラマンカに在住している弟さんと連絡をとっていただき、スペインでラジオ等マスコミに、「日本へ行って知的障害者と共にワイン作りをしませんか」と呼びかけてくれました。

 残念ながら応募してくれる人はなく、そこで私達がスペインのサラマンカに、安藤神父さんに同行してもらい、直接声掛けとスペインワイナリー見学を企画し、4泊6日という極めてハードなスケジュールをつくり、スペイン・ワインの研修に行ってきました。

<スペインのワイナリーを訪ねる>

 すぐにスペインからのワイン醸造家を招請することはかないませんでしたが、AJUの倍位のワイナリーから巨大なワイナリー、400年前からの歴史在るワイナリー所など4ヶ所を見学し、収穫の多い研修でした。スペイン研修はAJU後援会長の小野さんも同行していただき、実業家の視点からも多くの示唆をいただきました。

 AJUでは、知的障害者がぶどう作りからワイン造りの至るところに関わり、何処にも負けない美味しいワインを目指して、どんな障害者も一人の社会人として尊厳が守られる社会を実現していきたいと強く願い、これからも努カしていきたい。

  またAJUでは、どんなに重い障害者でも、たとえ寝たきりであっても、生まれてきて良かった、生きていて良かったといえる人生を一人ひとりが実現できる為に、12年前から行政と厳しく向き合い、重度障害者の身辺介護ヘルパー派遣を実施し、施設で隔離されて生活するのではなく社会復帰を果たし、社会的自立を実現してきました。
今我が国ではこの制度を改悪しようとする法律を作ろうと国家がしていますが、全国の仲間達と連日国会や議員さんに請願や抗議行動をして、弱い立場の人達の声を国に届ける為にも一所懸命戦っています。

 これらは、AJU自立の家初代理事長の故相馬司教さんが私達に教えていってくれた大切な教えです。この教訓を今後も大切にして活動していきたいと心から願って行く所が、AJU自立の家です。

<スペインの案内役の方々と(中央の車いすが筆者)>