柴田 幸範(イエズス会社会司牧センター)


 少年犯罪が報道されると決まって、文部科学省が「いのちの尊さを学ばせる」教育を徹底するよう指導する。就職の時期になると必ず、企業の人事担当者は「自分の頭で考えられる学生」を求めていると言う。インターネットやテレビゲームの害を説く評論家は、「情報を自分で選ぶ力を身につけなさい」と説教する。今の世の中を生き抜くために、考えなきゃならないことがいっぱいある。
 でも、「考え方」って、どこで教えてくれるのだろう? 「算数の解き方」でもなく、「賢い資金運用法」でもなく、「生きていく上で大切なことを、自分の頭で考える」方法を、誰が教えてくれるのだろう?


 本書の著者は、私と同じ45歳の哲学者。「哲学史や学説を覚えることが哲学であるという誤解は根深く、あるいはそれらを『やさしく』解説したところで、やはり自ら考えられているわけではなく、さらには自ら考えているかのようで、単なる個人の人生観だったり、そんなこんなを見るに見かねて、とにかく人が素手で考え始めるその生の始まりを伝えるべく」、本書を書いた。
 だから、本書には「○○という哲学者はこう言っている」とか、「~だから、こうすべきだ」といった表現は一切ない。「考える」「言葉」「社会「恋愛と性「善悪」「人生の意味」「存在の謎」といった根本的な30のテーマについて、やさしい言葉でひたすら問いかける。たとえば、こんな具合。

「自分は自分であって自分以外の何ものでもありませんって、君は言いたくなるだろう。まったくその通りなんだ。自分は自分であって自分以外の何ものでもない。…だけど、その何ものでもないものが、まぎれもなく自分であると、君にはわかる。どうしてわかるのだろうか。自分が自分であると、どうしてわかるのだろうか」(6.自分とは誰か)

 ちょっと哲学をかじった人なら、おなじみの問いだろうが、一般の人から見れば、「何を訳のわからないことを言ってるんだろう」と思われるかもしれない。
そんな雲をつかむような話よりも、テレビで人気の細木数子やみのもんたに、「ああしなさい」「こうしなさい」とズバッと言い切ってもらった方が、よっぽど役に立つし、第一スッキリする。
 でも、わかりやすいことが正しいことだとは限らない-と私たちは知っている。戦争を始める政治家の言い分は、いつだって分かりやすい。わかりやすい「真理」は、別のより強力な「真理」が現れると、簡単にくつがえる。他人から気前よく与えられた「真理」は、困難に直面すると、簡単に私たちを裏切る。裏切らないのは、自分で考えて得た真理だけ。ちょうど、スポーツ選手が「練習は裏切らない」と言うのと同じことかもしれない。だから、本書は「考える練習」と言っていいだろう。


 最近は、小学校でも「ディベート」(模擬討論)が授業に取り入れられているが、多くの場合、「相手を議論で負かす技術を学ぶ」ことと誤解されているようだ。スポーツ選手は相手を負かすために練習しているのではない。自分の体が、自分の思い描く理想どおりに動くことこそ、彼らの喜びだ。ディベートも、「議論を通じて、真理に到達すること」が目的であるはずだ。だが、現代の若者たちは、他人に勝つことばかり求め続けられている。「正しいこと」よりも「役に立つこと」を。それでどうして、「いのちの大切さ」を学べるだろう?

「だから、たとえそう考えるのが、世界中で君ひとりだけだったとしても、君は誰にとっても正しいことを、自分ひとりで考えてゆけばいいんだ。なぜって、それが、君が本当に生きるということだからだ」(3.考える[3])