書評 『弟を殺した彼と、僕。』
原田正治著、ポプラ社刊、2004年8月6日、1500円+税
柴田幸範(イエズス会社会司牧センター)


 原田正治さんは、1983年に弟を殺された。犯人は、弟が働いていた運送会社の経営者、長谷川俊彦さん。借金返済のための保険金殺人だった。この本は、長谷川さんの死刑を望んでいた原田さんが、事件の10年後に長谷川さんと面会し、死刑の執行停止を求めるにいたった心の軌跡を描いている。


 事件は最初、交通事故とされ、長谷川さんは雇い主として、事件後も原田さんの家に出入りしていた。原田さんは長谷川さんに頼まれて金を貸すほど、長谷川さんを信頼していた。
 だが、1年後、長谷川さんが殺した別の被害者の遺体が発見されて、原田さんの弟の事件も発覚した。それ以来、原田さんの生活は一変した。長谷川さんへの憎しみ。マスコミの報道被害。被害者遺族の支援制度の不備。職場の無理解。精神的重圧から逃れるために、原田さんは毎晩、酒を飲み歩き、家庭は崩壊寸前に陥った。
 原田さんは裁判開始から3年間、犯人の長谷川さんと接する唯一の機会である法廷に毎回通っていたが、このままでは長谷川さんへの憎しみが自分の人生をダメにすると考え、高裁判決が出た87年から最高裁での審理がはじまるまでの間、事件のことを忘れて仕事と趣味の古代史に没頭した。


 そんな原田さんに、再び長谷川さんとの接触の機会が訪れる。長谷川さんは弁護人の青木弁護士の導きで、85年にキリスト信者になった。改めて罪の重さに気づいた長谷川さんは、原田さんに謝罪の手紙を送りはじめるが、謝罪を受ける心境になかった原田さんは、封も切らずに放置しておく。
 だが、その後の荒れた生活から立ち直り、気持ちに余裕も出てきた頃、原田さんはふと、長谷川さんからの手紙を読んでみる。そして、いつしか返事を書くようになり、二人の奇妙な文通がつづいた。
 そして事件から10年後の93年、最高裁の判決が下る直前、長谷川さんの希望で、彼の支援者が原田さんの弟の墓参りに訪れる。この墓参りをきっかけに、原田さんは、長谷川さんを支援するキリスト教関係者と交流するようになる。
 93年8月、原田さんはふと思い立って、拘置所で長谷川さんと面会する。直接会って謝罪されたからといって、赦したわけでも情が移ったわけでもない。だが、「これで私はいつでも喜んで死ねます」と笑顔で言う長谷川さんに、原田さんは思わず「そんなこと、言うなよぉ」と言っていた。長谷川さんへの憎しみを水に流せるはずもないが、彼の笑顔をこの世から抹消することが、事件にけじめをつけることにはならないように思えてきたのだ。
 原田さんは、事件によって崖の底に突き落とされたように感じていた。敵討ちは、同じ崖の底にいる長谷川さんを自分の手で、さらに深い死の淵に突き落とすこと。そして、死刑制度は、司法の手を借りて死の淵に落とすこと。だが、原田さんは、長谷川さんと面会して、彼を死の淵に落とすのでなく、自分自身が崖の上によじ登り、事件の痛手からに快復する道が見えてきたように感じたのだ。
 だが、93年9月に死刑が確定してからは、面会は認められなくなり、原田さんは面会許可と死刑の執行停止を法務大臣に求め続けた。2001年12月末に長谷川さんの死刑が執行された後も、原田さんは今日までずっと、犯罪被害者支援や死刑囚との面会の自由を訴えて活動しつづけている。


「…『大切な肉親を殺した相手を、なぜ、君付けで呼ぶのですか』ときどき質問されます。…彼を憎む気持ちと、彼を呼び捨てにすることとは違います。長谷川君のしたことを知って呼び捨てにして済む程度の気持ちを抱く人を、僕はうらやましく思います」
「どうか僕たち被害者遺族を型にはめないで、各々が実際には何を感じ、何を求めているのか、本当のところに目を向けてください。耳を傾けてください」
 机上の空論ではなく、痛みと苦しみの果ての死刑論が、ここにはある。