世界社会フォーラム
もう一つの世界は可能だ
安藤 勇(イエズス会社会司牧センター)

ポルト・アレグレ市

 ポルト・アレグレは、ブラジル南部にある、人口130万人の海沿いの都市だ。有名なリオのカーニバルに先立って、1月最終週にこの町で開かれた第5回「世界社会フォーラム」に参加しようと、135ヶ国から155,000人が集まった。このフォーラムは、スイスのダヴォスに先進国の経済リーダーが集まって意見を交わす「世界経済フォーラム」と、時期を合わせて2001年から毎年開催されている。話は2000年にさかのぼる。ダヴォスの世界経済フォーラムが開かれていた時パリにいた企業家オデッド・グラジューは、ダヴォス・フォーラムのやり方に腹を立て、ブラジル人の友人フランシスコ・ウィテカー(ブラジル・カトリック正義と平和協議会)に電話して、ダヴォス・フォーラムに対抗する方法を探そうと話し合った。これが世界社会フォーラムのはじまりと言われている。このフォーラムはさまざまなレベルで影響を及ぼしており、たとえば、米国の対イラク戦争に反対する国際世論も、このフォーラムからはじまった。
 ダヴォス・フォーラムが先進国主導で世界経済を強力に導こうとしているのに対して、世界社会フォーラムは多様な意見に開かれており、寛容と対話、正義、平和、平等を実現したいという世界中の人びとの願いが出会う場となっている。フォーラムには極端な政治的意見を持つグループがいくつも参加して、利害関係の衝突もしばしば起こっているが、にもかかわらずフォーラム自体が誰かに政治的に操られているわけではない。世界社会フォーラムは全般に、新自由主義やグローバリゼーションに批判的で、WTOやIMF・世銀などの公式政策に反対している。というのも、それらの政策は先進国よりの立場をとり、世界の大多数を占める貧しい人びとのニーズに反しているからだ。フォーラムでは、デリケートな問題を解決するために、暴力的な手段ではなく、自由に意見や考えを述べあえる、対話と相互理解の精神があふれていた。先進国が至るところでテロの亡霊におびえている今こそ、ポルト・アレグレに130ヶ国以上から155,000人の人が集まった1週間の間に、1件のテロ事件も起きなかった事実は注目に値する。警察の警備も目立たなかった。
フォーラム設立者の有力者(Chico Witaker)

フォーラムの規模
 昨年11月25日の登録〆切までに、112ヶ国4,000以上の団体から、セミナーやワークショップ、上演など2,560のイベントが登録された。これらのイベントに登録した参加者は75,000人だったが、最終的には155,000人-青年キャンプだけでも35,000人にのぼった。会期中、2,800人のブラジル市民がボランティアとして働いた。また、インターネットを通して、世界中の何百万もの市民がフォーラムにアクセスした。
 組織委員会によれば、100の音楽公演、41の演劇上演、85のアート・ショー、150以上のフィルム・ビデオ上映が登録されていた。フォーラムの会場は15ヘクタールと、サッカー・スタジアム18個分の広さだった。ポルト・アレグレ市が会場準備にかけた費用は130万ドル(1億4千万円)にのぼる。

<過去の世界社会フォーラム>
2001年/117ヶ国 2万人
2002年/123ヶ国 5万人
2003年/123ヶ国 10万人
2004年/117ヶ国 11万1千人

 そんなふうに、仲間が共にいることで、人間が変わっていく。自分が在日朝鮮人であるとカミングアウトした人もいます。それから、すい臓ガンで入院して、私が釜ヶ崎を去る最後の日に洗礼を授けた人もいました。彼は「仲間に見守られて死ぬことができて、本当に感謝だ」と言って亡くなりました。自分を取り戻し、変わっていく姿を見るにつけ、どんな人間も尊敬に価すると思いました。

フォーラム参加者
市の建物の占拠

イエズス会員代表団
 イエズス会のラテン・アメリカ管区長協議会(CPAL)の社会部門は、「特にブラジル、パラグアイ、アルゼンチンの貧しく疎外された人びとのかわりに声をあげ、あかしするために」、フォーラムのイエズス会参加者を組織することにした。ブラジル管区長は、フォーラムに参加するイエズス会員や協働者たちに、ポルト・アレグレのすぐそばにある霊性センター(CERCI)に宿泊するよう招待した。イエズス会の代表たちが一ヶ所に滞在することで、情報交換や交流が可能となり、そうした交流が彼らの使徒職のミッションによい影響を及ぼすことを期待したのた。主としてブラジルをはじめ、ラテン・アメリカ各国から、150人以上の協働者が参加した。ブラジルとパラグアイ以外では、インド・スリランカ代表の約30人が最大で、昨年のムンバイでのフォーラム主催国の勢いを示していた。

フォーラムのワークショップ

カトリックの協力
 フォーラムが推進するネットワーキングや組織化の取り組みに沿って、カリタス・インターナショナルのイニシアティヴに乗るかたちで、フォーラムの準備期間中、カトリック諸団体や修道会が何度も会合を開き、情報や意見を交換して、調整や起用同行動の可能性をさぐった。かくして、イエズス会の調整チームも、カリタス・インターナショナルが示した主要テーマ(平和と和解、エンパワメントとアドヴォカシー、人身売買)に沿って会員の代表が参加するよう、調整を進めた。
 1月26日、カリタス・インターナショナルは他のカトリック団体とともに、ポンペイの聖母教会で開会ミサを挙行した。司式はカリタス・ブラジル代表の司教で、カリタス・インドのシスターが説教をおこなった。近くのホールでは、カリタスやCIDSE(開発と連帯のための国際協力)、その他のメンバーが、今回のフォーラムに参加した理由を説明して、彼らの目標を短く紹介した。

フォーラムのワークショップ

フォーラムの開会:平和行進
 フォーラムは、ポルト・アレグレ市のメイン・ストリートでの平和行進で幕を開けた。午後3時には、通りは旗や横断幕で一杯になり、人びとは歌ったり踊ったりしていた。あたりはハッピーな気分に包まれていた。群衆に加わったが、行進が進んでいるのか止まっているのかも分からなかった。

開会式の平和行進1
 「ブッシュとルラ(ブラジル大統領)では、もう一つの世界は不可能だ」と書かれた横断幕がたくさんあった。人びとは明らかに、さまざまな国際条約や構造調整プログラム、いかがわしい取引に飽き飽きしていた。彼らの心をかきたてた大会テーマは、「もう一つの世界は可能だ」(Another world is possible)というものだった。行進に参加した人びとは、それぞれの組織やプロジェクト、活動の大義-持続可能な開発、子どもの権利の擁護、不寛容やあらゆる差別に対する闘い、連帯にもとづいた新たな経済の探求、森林や水の保全、多様性の尊重など-を主張しつつ、この「もう一つの世界は可能だ」という信念、夢を共有していた。
 カリタス・インターナショナルの白い横断幕には、こう書かれていた。「連帯をグローバル化しよう」。そして、農民や先住民族、土地なしの人びと、労働者やスラム住民との連帯を求めるラテン・アメリカの人びとが大部分を占めるただなかで、インドからやってきた「南アジア民衆のイニシアティヴ」(SAPI)の横断幕は注目を集めた。「アジア」という言葉を見つけて、たくさんの人が写真を撮っていた。旗や横断幕を持って歩くという行為には、特別な意味がある。それは、自分の関心や主張を他人に伝える行為であり、叫び声の渦の中で、自分の叫びをあげる行為だ。正反対の主張をグループ同士でさえ、それぞれの主張を掲げながら、仲良く並んで歩いていた。奇妙な道連れだが、これこそ私たちの生きている世界なのだ。
 スリランカのグループも後から続き、関心を集めていた。スリランカの人びとを見ると、インド洋津波のことが思い出された。行進のほとんど最後尾にいたカリタス・インターナショナルの白装束は、各国の社会主義者や共産主義者、ブラジルの労働党メンバーの赤装束と対照的だった。

市の建物の占拠

 行進が通り過ぎた6階建てのビルには、2日前から占拠していたスラム住民200人がいた。私と下川さん(イエズス会員)は、到着の翌日にそのビルを訪ねて、外国からの支援者グループに合流したが、10人あまりの警察官が入り口を固めていた。窓からは赤い小旗を振って行進にあいさつする人の姿が見えた。数ヶ国語で書かれた横断幕には、「家のない人に住まいを」と書かれていた。

ブラジルの居住権闘争全国運動(MNLM)は、空きビルの「不法占拠」を組織的におこなっている。今回のフォーラムのおかげで、居住権問題に満足な解決をもたらすために、行政当局と交渉する土台を得た。
 この大人数の、にぎやかでカラフルな行進の行く手には、新自由主義とグローバリゼーションという二つの壁がそびえ立っているようだった。ポル・ド・ソル(太陽の広場)には、すでに行進の半分が到着し、6万人を超える人がフォーラムの開会を待っていた。大きなステージの脇には巨大なモニターが据えられていた。夜9時半、全員が広場に到着すると、長い開会演説を覚悟していた私たちは肩すかしを食らった。開会式はきわめてシンプルで、1人の幼い子どもが開会を宣言すると、そのままコンサートが始まった。

参加受付とプログラム
 フォーラムへの参加受付は、事前にフォーラムに登録された団体ごとにまとめておこなわれた、参加登録にもとづいて進められた。大会事務局にはたくさんのコンピュータと多くのボランティアがいたが、受付が済むまで長い時間待たされた。参加者は炎天下、長い列を作って参加費を払い、1週間にわたっておこなわれる2,000以上のイベントのプログラムを手に入れた。第一日目はたしかに大変だった。分厚いプログラムを手渡されると、後はご自由に、というのだ。参加者はあちこちで立ち止まっては、興味のあるイベントをチェックしていた。私たちは何百という巨大なテントをまわって、イベントの場所とスケジュール、責任者、使用言語を確認しなければならなかった。たびたび責任者が不在だったり、スケジュールや会場が変更されたが、誰も詳細を知らないのだ。最高40℃にもなる炎天下を、足を棒にして会場を探しまわる。興味のあるイベントはたくさんあったが、全部に出ようとしても、場所を見つけるだけで一苦労だ。まるで違う世界を探検しているようだったが、ブラジル人の魅力と親切なお手伝いは、組織の欠如を補って余りあった。
 今回のフォーラムはいったいどんなものだったのか? その答えは公式プログラムが教えてくれるだろう。そこには現代社会の主な問題を網羅した11のテーマに沿って、何百というイベントが詳しく書かれている。だが、それは普通の参加者の理解を超えるものだ。
確かに感じられたことは、反・新自由主義、反グローバリゼーション、反戦、反抑圧の空気だった。土地や家を奪われた先住民がいた。インドから来たダリット(被差別民)やパレスチナ人が自由に意見を述べ、ラテン・アメリカ諸国の労働運動家が同調者を求めていた。だが、ポルト・アレグレに集まった人びとの大部分にとって共通のスローガンは、「もう一つの世界は可能だ」であり、私たちはフォーラムの間、確かにそれを体験した。



青年キャンプ
 広場の中程にはキャンプ用のスペースがあり、色とりどりのテントが張られて、35,000人ほどの青年たちが無料で宿泊できるようになっていた。無料シャワーと環境にやさしいプラスチック・トイレが、キャンプ場に点在していた。キャンプ場を十字に走るメイン・ストリートを歩くと、両側にずらっと露天商が並んでいるのに出会う。そのほとんどは若者で、道の両側に座り込んで、小間物やビーズ、羽根飾り、仮面、さまざまな飾り物などを並べて売っている。こうした品物は、おそらくラテン・アメリカの森林に住む少数民族が作ったのだろう。一部の若者には、社会の底辺で生きてきた苦労がにじみ出ていた。別の人びとは、快適な環境を飛び出して、「ラディカルな」生き方を目指そうとしているように見えた。
そして、その他の若者たちは、大都市でタダで寝泊まりできるのを、単純に楽しんでいるように見えた。ミーティングや分かち合いのおこなわれるテントの中には、額に入ったチェ・ゲバラの顔が至るところで見られた。有名なペルーのテロ・グループ、センデロ・ルミノソ(輝く道)の爆破事件の古ぼけた写真もあった。若者たちには率直さが感じられた。彼らには、違う生き方をしよう、世俗を離れ、ある意味で見捨てられた場所で生きようという姿勢が、暗黙のうちに感じられた。

個人的なインタビュー
 ある日、私はいろいろな人にあって話を聞こうと決め、無作為に26人にインタビューしてみた。ほとんどの人が喜んで話してくれた。12人が20~30代で、残りが40~50代だった。12人がカトリック信者で、11人が宗教を持っていなかった。10人が女性だった。大部分がいずれかの団体の代表として参加していた。
 経験を交換し、「もう一つの世界は可能だ」という希望を共有することは、参加者の多くにとって魅力的だったようだ。フォーラムに参加することで、新しいアイディアや情報を得ることができ、ネットワークが結成され、他の人の話を聞いて学び、交流することができる。そこにはダイナミックな交流と喜びがあった。興味深く、有益で意義深い討論がたくさんあった。世界の新しい風、新しい潮流が感じられた。活動家は運動を広げ、ネットワークを強めるチャンスをたくさんみつけ、教育者は新しい流れや役に立つ情報・知識をさぐって、生徒たちに持ち帰っていた。疎外された人びとや先住民族は、自分たちの願いや体験をたくさんの人に聞いてもらうことができて、喜んでいた。多くの参加者は、人びとが自分の苦しみを自由に訴えることのできる、より人間的な世界を創るために、協力して働くための枠組みを求めていた。そのための対話の場を設ける努力は、前向きで人びとを勇気づけるものだった。人びとが抱える問題は互いに似通っていて、他の人を尊重し擁護する必要が痛感された。より人間的な世界の実現のために、反グローバリゼーションと反・新自由主義が共通して支持され、また、暴力と戦争への反対が最も強く訴えられた。
 もちろん、フォーラムの組織委員会や、ワークショップへの参加しづらさ、大会運営の手際の悪さや能力不足に不満を持つ人もいた。だが、多くの人々は、このフォーラムに参加して、自分が変わったと感じた。フォーラムは歴史的なイベントであり、私たちはそこで「もう一つの世界」を生き、そこで学んだことを、帰ってからも自分の活動の場で実践しようと、チャレンジを続ける決心をしたのだ。
閉会式
 第5回世界社会フォーラムは、寛容、平和、平等を願う世界中の人びとが集い、多様な意見を語る場として幕を開けた。そして、同じ願いを将来に抱きつつ、フォーラムは閉会した。今回のフォーラムは、全く自立的に運営された。全てのイベントが、参加団体自身によって運営された。11のテーマのもとで、さまざまな討論がおこなわれ、352にのぼる提言が採択された。

閉会式のイベント

 私たちは、このフォーラムを通して、真に開かれた、民主的な空間のなかで、共同生活と共同責任を満喫した。このフォーラムは、私たちの生活を変えるための、実験的なイベントだった。このフォーラムには、さまざまなイニシアティヴが収れんしていた。このフォーラムはまた、フォーラムのコミュニティとポルト・アレグレのコミュニティが出会う場でもあった。ポルト・アレグレ市の紋章は、グァイバ川に沈む太陽であり、その太陽は誰の持ち物でもなく、誰がつくったものでもなく、すべての人に、一人ひとり違った仕方で光を及ぼしているのだ。この太陽が、毎日、世界の変革を実践する場であるフォーラムという土地を照らしていたのだ。

閉会式のイベント

 このフォーラムという場で、私たちは多くの変革の業を実践に移した。自然にやさしい建築は、自然の秩序を乱さずに家を建てる可能性を証明し、連帯にもとづく経済は、価格において公正であり、消費において倫理的であることを証明した。技術的な面でも、たとえばマイクロ・ソフトの支配に対抗して、オーブンなシステムであるリナックスを全面的に採用したり、通訳ボランティアを組織化したり、新技術によるコミュニケーションを採用したりといったチャレンジが、日々進められた。そのためには、絶えざる努力と学習が必要だ。だが、物事を変えようという人にとって、それこそが唯一の道であり、トライし続けなければならない。

フォーラムの今後
 フォーラムの国際組織委員会は1月25日の会合で、2006年のフォーラムを、世界各地で段階的に開催することを決めた。組織委員会はこうした開催方式でも、フォーラムの基本原則は遵守されると保証しており、オルターナティヴ(代替案)を探求し、確立していく努力は、現在計画中のイベントに限らず続けられるとしている。2006年のフォーラムに関する最終決定は、来る4月の国際組織委員会でおこなわれる。国際組織委員会は、2007年のフォーラムはアフリカで開催されると、改めて言明している。開催責任者はアフリカの諸団体であるが、国際委員会もアフリカでの開催に向け協力するとしている。

フォーラムの評価
 閉会式では、主要テーマごとに採択された352の提言が、巨大なパネルに掲示された。チコ・ウィテカーが閉会式前に報道関係者に語ったところによれば、参加者の間でしばしば口に出されたテーマは、一つは人権について、もう一つは社会闘争についてだった。フォーラムの目的は討論か、それとも行動か-という議論について訪ねられたチコは、フォーラムの使命は「どんな行動をとるべきか、どんな計画を採用すべきかを決めることではない」という点を、改めて強調した。
そうした役割は、フォーラムに参加する諸団体によって、効果的に果たされている。たとえば、武器貿易に反対するキャンペーンは、フォーラムではなく正義と平和関係の諸団体によって組織されている、とチコは指摘する。フォーラムが果たした大きな役割とは、さまざまなグループがそれぞれに訴えた諸テーマを調整して、11の主要テーマにまとめたことだ。チコはフォーラムの明るい面を3つ挙げている。運営能力が向上していること(今年は、国際組織委員会の手を借りず、参加団体がすべてのイベントを運営している)。内容よりもプロセスが重要だという理解が浸透していること。フォーラムに対する見方が、反グローバリゼーションのグループから、もう一つのグローバリゼーションを推進するグループへと変わってきていることだ。だがその一方で、「ルラやチャベス(ベネズエラ大統領)」といった「大物」がフォーラムの最重要人物ではない、ということをマスコミに分からせるのはうまくいっていないことも、チコは認めている。
 このフォーラムというエネルギッシュな動きは、これからも続く。今回のフォーラムから生まれたさまざまな動きは、フォーラムをより強く、より組織だったものとしていくだろう。顔を合わせて対話することは、見方を変え、新たな地平を開く。今こそ進もう。行動しよう。歩き続けよう。変革しよう。生きよう。もう一つの世界を可能とするのは私たち自身なのだ!

<資料>下記のサイトに詳しい資料がある
世界社会フォーラム公式サイト
www.forumsocialmundial.org.br/
Jesuit HEADLINES
www.sjweb.info/sjs/