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昨年11月25日の登録〆切までに、112ヶ国4,000以上の団体から、セミナーやワークショップ、上演など2,560のイベントが登録された。これらのイベントに登録した参加者は75,000人だったが、最終的には155,000人-青年キャンプだけでも35,000人にのぼった。会期中、2,800人のブラジル市民がボランティアとして働いた。また、インターネットを通して、世界中の何百万もの市民がフォーラムにアクセスした。
組織委員会によれば、100の音楽公演、41の演劇上演、85のアート・ショー、150以上のフィルム・ビデオ上映が登録されていた。フォーラムの会場は15ヘクタールと、サッカー・スタジアム18個分の広さだった。ポルト・アレグレ市が会場準備にかけた費用は130万ドル(1億4千万円)にのぼる。
<過去の世界社会フォーラム> |
2001年/117ヶ国 |
2万人 |
2002年/123ヶ国 |
5万人 |
2003年/123ヶ国 |
10万人 |
2004年/117ヶ国 |
11万1千人 |
そんなふうに、仲間が共にいることで、人間が変わっていく。自分が在日朝鮮人であるとカミングアウトした人もいます。それから、すい臓ガンで入院して、私が釜ヶ崎を去る最後の日に洗礼を授けた人もいました。彼は「仲間に見守られて死ぬことができて、本当に感謝だ」と言って亡くなりました。自分を取り戻し、変わっていく姿を見るにつけ、どんな人間も尊敬に価すると思いました。
フォーラム参加者
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市の建物の占拠
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イエズス会のラテン・アメリカ管区長協議会(CPAL)の社会部門は、「特にブラジル、パラグアイ、アルゼンチンの貧しく疎外された人びとのかわりに声をあげ、あかしするために」、フォーラムのイエズス会参加者を組織することにした。ブラジル管区長は、フォーラムに参加するイエズス会員や協働者たちに、ポルト・アレグレのすぐそばにある霊性センター(CERCI)に宿泊するよう招待した。イエズス会の代表たちが一ヶ所に滞在することで、情報交換や交流が可能となり、そうした交流が彼らの使徒職のミッションによい影響を及ぼすことを期待したのた。主としてブラジルをはじめ、ラテン・アメリカ各国から、150人以上の協働者が参加した。ブラジルとパラグアイ以外では、インド・スリランカ代表の約30人が最大で、昨年のムンバイでのフォーラム主催国の勢いを示していた。
フォーラムのワークショップ
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フォーラムが推進するネットワーキングや組織化の取り組みに沿って、カリタス・インターナショナルのイニシアティヴに乗るかたちで、フォーラムの準備期間中、カトリック諸団体や修道会が何度も会合を開き、情報や意見を交換して、調整や起用同行動の可能性をさぐった。かくして、イエズス会の調整チームも、カリタス・インターナショナルが示した主要テーマ(平和と和解、エンパワメントとアドヴォカシー、人身売買)に沿って会員の代表が参加するよう、調整を進めた。
1月26日、カリタス・インターナショナルは他のカトリック団体とともに、ポンペイの聖母教会で開会ミサを挙行した。司式はカリタス・ブラジル代表の司教で、カリタス・インドのシスターが説教をおこなった。近くのホールでは、カリタスやCIDSE(開発と連帯のための国際協力)、その他のメンバーが、今回のフォーラムに参加した理由を説明して、彼らの目標を短く紹介した。
フォーラムのワークショップ
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フォーラムは、ポルト・アレグレ市のメイン・ストリートでの平和行進で幕を開けた。午後3時には、通りは旗や横断幕で一杯になり、人びとは歌ったり踊ったりしていた。あたりはハッピーな気分に包まれていた。群衆に加わったが、行進が進んでいるのか止まっているのかも分からなかった。
開会式の平和行進1
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「ブッシュとルラ(ブラジル大統領)では、もう一つの世界は不可能だ」と書かれた横断幕がたくさんあった。人びとは明らかに、さまざまな国際条約や構造調整プログラム、いかがわしい取引に飽き飽きしていた。彼らの心をかきたてた大会テーマは、「もう一つの世界は可能だ」(Another
world is possible)というものだった。行進に参加した人びとは、それぞれの組織やプロジェクト、活動の大義-持続可能な開発、子どもの権利の擁護、不寛容やあらゆる差別に対する闘い、連帯にもとづいた新たな経済の探求、森林や水の保全、多様性の尊重など-を主張しつつ、この「もう一つの世界は可能だ」という信念、夢を共有していた。
カリタス・インターナショナルの白い横断幕には、こう書かれていた。「連帯をグローバル化しよう」。そして、農民や先住民族、土地なしの人びと、労働者やスラム住民との連帯を求めるラテン・アメリカの人びとが大部分を占めるただなかで、インドからやってきた「南アジア民衆のイニシアティヴ」(SAPI)の横断幕は注目を集めた。「アジア」という言葉を見つけて、たくさんの人が写真を撮っていた。旗や横断幕を持って歩くという行為には、特別な意味がある。それは、自分の関心や主張を他人に伝える行為であり、叫び声の渦の中で、自分の叫びをあげる行為だ。正反対の主張をグループ同士でさえ、それぞれの主張を掲げながら、仲良く並んで歩いていた。奇妙な道連れだが、これこそ私たちの生きている世界なのだ。
スリランカのグループも後から続き、関心を集めていた。スリランカの人びとを見ると、インド洋津波のことが思い出された。行進のほとんど最後尾にいたカリタス・インターナショナルの白装束は、各国の社会主義者や共産主義者、ブラジルの労働党メンバーの赤装束と対照的だった。
市の建物の占拠
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行進が通り過ぎた6階建てのビルには、2日前から占拠していたスラム住民200人がいた。私と下川さん(イエズス会員)は、到着の翌日にそのビルを訪ねて、外国からの支援者グループに合流したが、10人あまりの警察官が入り口を固めていた。窓からは赤い小旗を振って行進にあいさつする人の姿が見えた。数ヶ国語で書かれた横断幕には、「家のない人に住まいを」と書かれていた。 |
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ブラジルの居住権闘争全国運動(MNLM)は、空きビルの「不法占拠」を組織的におこなっている。今回のフォーラムのおかげで、居住権問題に満足な解決をもたらすために、行政当局と交渉する土台を得た。
この大人数の、にぎやかでカラフルな行進の行く手には、新自由主義とグローバリゼーションという二つの壁がそびえ立っているようだった。ポル・ド・ソル(太陽の広場)には、すでに行進の半分が到着し、6万人を超える人がフォーラムの開会を待っていた。大きなステージの脇には巨大なモニターが据えられていた。夜9時半、全員が広場に到着すると、長い開会演説を覚悟していた私たちは肩すかしを食らった。開会式はきわめてシンプルで、1人の幼い子どもが開会を宣言すると、そのままコンサートが始まった。
フォーラムへの参加受付は、事前にフォーラムに登録された団体ごとにまとめておこなわれた、参加登録にもとづいて進められた。大会事務局にはたくさんのコンピュータと多くのボランティアがいたが、受付が済むまで長い時間待たされた。参加者は炎天下、長い列を作って参加費を払い、1週間にわたっておこなわれる2,000以上のイベントのプログラムを手に入れた。第一日目はたしかに大変だった。分厚いプログラムを手渡されると、後はご自由に、というのだ。参加者はあちこちで立ち止まっては、興味のあるイベントをチェックしていた。私たちは何百という巨大なテントをまわって、イベントの場所とスケジュール、責任者、使用言語を確認しなければならなかった。たびたび責任者が不在だったり、スケジュールや会場が変更されたが、誰も詳細を知らないのだ。最高40℃にもなる炎天下を、足を棒にして会場を探しまわる。興味のあるイベントはたくさんあったが、全部に出ようとしても、場所を見つけるだけで一苦労だ。まるで違う世界を探検しているようだったが、ブラジル人の魅力と親切なお手伝いは、組織の欠如を補って余りあった。
今回のフォーラムはいったいどんなものだったのか? その答えは公式プログラムが教えてくれるだろう。そこには現代社会の主な問題を網羅した11のテーマに沿って、何百というイベントが詳しく書かれている。だが、それは普通の参加者の理解を超えるものだ。
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確かに感じられたことは、反・新自由主義、反グローバリゼーション、反戦、反抑圧の空気だった。土地や家を奪われた先住民がいた。インドから来たダリット(被差別民)やパレスチナ人が自由に意見を述べ、ラテン・アメリカ諸国の労働運動家が同調者を求めていた。だが、ポルト・アレグレに集まった人びとの大部分にとって共通のスローガンは、「もう一つの世界は可能だ」であり、私たちはフォーラムの間、確かにそれを体験した。
広場の中程にはキャンプ用のスペースがあり、色とりどりのテントが張られて、35,000人ほどの青年たちが無料で宿泊できるようになっていた。無料シャワーと環境にやさしいプラスチック・トイレが、キャンプ場に点在していた。キャンプ場を十字に走るメイン・ストリートを歩くと、両側にずらっと露天商が並んでいるのに出会う。そのほとんどは若者で、道の両側に座り込んで、小間物やビーズ、羽根飾り、仮面、さまざまな飾り物などを並べて売っている。こうした品物は、おそらくラテン・アメリカの森林に住む少数民族が作ったのだろう。一部の若者には、社会の底辺で生きてきた苦労がにじみ出ていた。別の人びとは、快適な環境を飛び出して、「ラディカルな」生き方を目指そうとしているように見えた。 |
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