<報告> 「死刑を止めよう」宗教者ネットワーク 第4回セミナー
米国少年死刑囚を撮り続ける写真家の講演
柴田幸範(イエズス会社会司牧センター)

 昨年5月に発足以来、活動を続けてきた「死刑を止めよう」宗教者ネットワークの第5回セミナーが、去る11月27日土曜日の夜、東京の日本聖公会神田キリスト教会で開かれました。
 今回の講師は米国・ニューヨーク在住の写真家、トシ・カザマさん。彼は8年間にわたって20人の少年死刑囚を写真に撮り続けています。カザマさんは今年の5月に来日して、全国9ヶ所で講演しました。今回は11月15-29日に再来日して、全国10ヶ所で、主に若者を対象に講演をおこなってきました。その最終講演が27日。そのあと29日から、香港と台湾でも講演して、ニューヨークに帰るという、精力的なスケジュールをこなしました。
 会場には、彼が撮影した写真が展示され、パソコンのスライドショーで写真を見せながらの講演でした。カザマさんのお話は、抽象的な死刑論議を超えて、死刑をとりまく人々を、「顔と名前を持った」人間として見せてくれました。

死刑をとりまく人々

 最初に撮影に訪れたアラバマの刑務所長は、はじめのうちはカザマさんに怒鳴りつけるばかりで、非協力的でした。しかし、彼がほしがった電気イスの写真を、2ヶ月後にカザマさんがニューヨークから届けに行くと、「いろいろな人がここにきたが、約束を守ってくれたのはお前が初めてだ」と感激して、以後、自由に撮影を許してくれたのです。
 強盗に殺害されたベトナム人のレストラン経営者一家で、唯一生き残った娘さんは、憎しみを克服して前向きに生きる姿勢を教えてくれました。
 少年死刑囚もさまざまです。知能指数が低く、罪を仲間に押しつけられた16歳の少年は、刑務所で他の囚人に犯され続け、自分は「ビッチ(娼婦)」だと言っていたそうです。
 また、ある少女死刑囚は、つきあっていた少年の浮気相手を殺して、体の一部を切り取って持ち歩いていました。彼女にとって愛とは独占だったのでしょう。被害者の体の一部は裁判所に証拠として提出され、遺族にさえ返されていません。
 カザマさんは、「どの少年死刑囚も、思っていたようなモンスターではない。ただ、愛される体験に乏しかったようだ」と言います。死刑囚の家族のなかには、写真を撮っている間はしおらしくしているが、撮り終わると平然と笑い転げ、仲間と麻薬売買の話をはじめる親もいるといいます。そんな環境でも、自分なら人を殺さないと言いきれるでしょうか。
 なかには、冤罪が証明されて、独房から生還した人もいます。弁護士を雇うだけのカネもない人や、偏見を受けやすい有色人種、法廷でのたたかい方を知らない教育程度の低い人に死刑囚が多いことは、米国の弁護士グループも認めています。にもかかわらず、米国では少年にまで死刑を適用する州があるのです。死刑には社会の矛盾がすべてあらわれている、とカザマさんは言います。

想像力の問題

 死刑問題というと、普通の人は「もし、自分が被害者の遺族だったら」と考えて、「犯人は死刑にすべきだ」と言うでしょう。実際、そんな意見が何通も、当センターに寄せられます。ところが、カザマさんは、「もし、ぼくが少年死刑囚だったら」「もし、ぼくが刑務所長だったら」「もし、ぼくが殺人事件の唯一の生存者だったら」と考えてきました。だから、昨年、自分が通り魔にあって大けがをしたときも、「ぼくは犯人を恨んでいない。ただ、自分のやったことの意味を理解して、心から謝ってほしいだけだ」と言ったそうです。
 「被害者遺族の癒しのために、死刑にすべきだ」と第三者は言う。でも、それは無責任な第三者の意見。被害者遺族が本当に求めているのは、精神的・経済的支援だ-と、カザマさんは自分の被害体験から言います。第三者は被害者の名を借りて、正義の名の下に、自分では手を汚さずに、死刑を執行する。人を殺してしか得られない平安。法の名の下に人を殺す死刑。正義の名の下に人を殺す戦争。宗教の名の下に人を殺す紛争やテロ。それはいったい、何なのだろうと、カザマさんは問い続けます。「宗教とは、愛を語るものではなかったのか」と。
 カザマさんは来年も日本にきて、死刑について語り続けたいと言っていました。