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安藤 勇(イエズス会社会司牧センター・東京) | |||||||||||||
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1996年の初会合以来、アジア・ヨーロッパ間の新たなパートナーシップの創造が提案され、両地域間の関係強化を目指して、政治対話の促進、経済協力の強化、その他の分野(社会・文化・学術)での協力促進が進められている。 ASEM首脳会合はその後、ロンドン(1998年)、ソウル(2000年)、コペンハーゲン(2002年)と開かれ、今年2004年10月にはハノイで開かれた。こうした首脳会合と並行して、一連の閣僚級会合や実務会合、その他のさまざまな活動によって、ASEMプロセスは着々と進んでいる。 こうしたオフィシャルなプロセスの他にも、アジアとヨーロッパの市民運動の代表が集まって、ASEM首脳会合に先立って、「もう一つのASEM」ともいうべき市民フォーラムを開催している。 |
この非公式な対話と協力のプロセスにおいて、ASEMの活動は三つの領域に分けられる。政治、経済、文化/学問だ。 この三つの領域において、さまざまな活動が優先的に取り上げられてきた。たとえば、
フォーラムは、ハノイで2004年10月7~9日に開催されたASEM会議の1ヶ月前に行われた。 そのテーマは「アジア・ヨーロッパにおける人間の安全保障のための市民行動」だった。以下に、その主なテーマを紹介する。 |
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発展するベトナム<HCM CITY>
PTVさんによれば、今回のフォーラムは、共産主義国家であり、人権や民主主義に関わるニュースが何かと多いベトナムという国に、外国人が触れる貴重な機会だった。 |
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多くの参加者が、この国で何が起こっているのか、熱心に見ようとしていた。ベトナム政府もこの機会に、自らの善隣友好政策を宣伝しようと望んでいた。そこで、政府関係者は、細心の注意ときわめてすぐれたコントロール能力とを持って、フォーラムに参加した。 ベトナムからの参加者の大部分は、中央や地方のPACCOM(人民援助調整委員会)や友愛連合など政府の市民団体統轄機関や、宗教界の代表であった(ベトナム政府は、自らが宗教の自由を保障しているとアピールしたかったのだ)。ごくわずかだったが、ホーチミン市の市民社会団体のメンバーも参加した(PTVさんもその1人)。ハノイにもたくさんの地元NGOがあったが、それらの団体からの参加者はほとんどいなかった。 フォーラムで取り上げられたテーマは広汎で、膨大だった。その中でも、ベトナム側は今回、ダイオキシン汚染の問題を議題に盛り込もうと、真剣に努力していた。というのも、ちょうどその頃、ベトナム戦争におけるダイオキシン汚染をめぐって、ベトナム政府がアメリカの化学会社を裁判で訴えるというニュースがあったからだ。 とはいえ、PTVさんにとって一番興味深かったのは、「民主化と市民の権利」というテーマだった。フォーラムの間中、ベトナムの現状について、たとえば「一党独裁」問題とか、ベトナムがWTO(世界貿易機関)に参加したがる理由、といった問題について、多くの質問や発言があった。だが、どの発言も深追いすることはなく、老練な女性議員、トン・ヌー・ティ・ニンがそれらの質問に賢明に答えて終わった。 多くの外国人参加者は、ベトナムがかつて、米国に戦争で勝ったことを賞賛して、ベトナムという国に対して大きな尊敬を払っていた。 |
フォーラムの基調は、グローバリゼーションとWTO体制に対する異議申し立てだった。 全般に、ベトナム人参加者は、幾人かの基調講演者をのぞいて、言葉の壁、あるいは新しい問題に対する認識不足から、ほとんど意見を言うことができなかった。 今回のフォーラムは、参加者-特にベトナム政府関係者にとって、海外の市民団体や、会議で取り上げられたさまざまな問題について、見識を深める貴重な機会だった。 ベトナム人ジャーナリストは、フォーラムの最後に開かれた公式の記者会見に参加を許されなかった。フォーラムは閉会に当たって、ベトナム政府外務大臣宛に公式サマリーを提出し、10月にハノイで開かれるASEM首脳会議に提示するよう求めた。 バイク・ラッシュ<HCM CITY>
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