柴田 幸範(イエズス会社会司牧センター・東京)

 8月に入ると、6日が広島、9日が長崎の原爆投下、15日が終戦記念日と、平和について考える機会が多くなります。そして、この時期いつも話題になるのが、第二次大戦で戦死した軍人を祀った靖国神社。戦争犯罪者(戦犯)を神として祀る、この靖国神社に日本の首相が「公式参拝」するたびに、かつて日本が植民地にしていたアジア各国から非難の声があがります。他方、「第二次大戦で亡くなった日本軍人は、アジアの解放という正義のために命を捧げた英雄だ」と主張する人々は、靖国を聖地と崇めています。私自身、一度も足を踏み入れたことのなかった靖国神社の資料館・遊就館に、カトリック麹町(聖イグナチオ)教会の「メルキゼデクの会」の学習会で訪れる機会がありましたので、ご紹介します。

 熱気で遠くが霞んで見える日曜の午後、靖国神社を訪れました。九段下駅を出て、高さ25メートルという大鳥居を抜けると、大村益次郎像がそびえ立っています。大村は明治政府の下、近代陸軍を創設した立役者ですが、明治2年、靖国神社の前身である「招魂社(しょうこんしゃ)」が建てられた際、明治天皇の命を受けた大村が奔走したそうです。軍の創設者が靖国神社の創設者でもあるという事実が、この神社の性格を現しているのです。
 靖国神社はちょうど、前日(7月16日)まで「みたままつり」(いわゆる「お盆」)だったせいもあり、境内には遺族や信徒が奉納した黄色い提灯が所狭しと吊ってありました。神社では大勢の人が参加して祭儀が営まれ、石段下には新聞紙を敷いて、伏したままじっと拝んでいる老人の姿もありました。一方で、右翼団体らしい男性の団体が、暑さにもかかわらず黒い背広で、最敬礼をしている姿もありました。
 とはいえ、圧倒的大多数は家族連れ・友だち連れ・恋人連れや、地方からの団体観光客などで、カメラ付き携帯電話で気軽に写真を撮る姿が、あちこちで見られました。

「私たちは忘れない」
 靖国神社の資料館である「遊就館」は1882年に建てられ、1932年に再建、2002年に全面改装して展示内容を一新したそうです。展示面積は1万1千平方メートル(野球場のグラウンド並)。来館者は1日平均700人だそうです。玄関ホールを入ると、いきなり戦闘機や大砲の実物が展示され、最後の大展示室にある爆撃機や人間魚雷、戦車などの実物展示とあわせて、「日本最古の軍事博物館」の名に恥じない雰囲気です。
遊就館


 自動改札機を通って2階に上がると、最初に映像ホールがあり、「私たちは忘れない-感謝と祈りと誇りを」と題した50分のドキュメンタリーを上映しています。この映画を制作したのは、保守系のシンク・タンク「日本会議・英霊にこたえる会」。政財界から多くのメンバーが参加し、憲法改正による自衛隊の強化や、冒頭に述べた「第二次大戦(彼ら自身は『大東亜戦争』と呼んでいます)はアジア解放のための聖戦であった」という歴史観に基づく歴史教育の見直し、などを目標に掲げています。
 このビデオの主張はきわめて明白です。つまり、「日本は明治維新以後、一貫してアジアを欧米の植民地支配から解放するために戦ってきた。第二次大戦はその総仕上げであったはずが、不幸にも敗れてしまった。そのために、日本人は先祖から受け継いできた誇りを忘れてしまった。日本の独立とアジアの平和のために生命を捧げてきた英霊を祀る靖国神社こそ、日本人が誇りを取り戻すための祈りの場所だ」ということです。
 確かに、「アジアの解放」という大義名分が、まったくのウソだとは言えないでしょうが、それを主張するあまり、欧米はみな侵略者に過ぎず、アジア諸民族はみな日本を尊敬し、日本に感謝しているかのような論調が見受けられます。これはいくらなんでも公平さを欠いたものと言えないでしょうか。50分のフィルムを見終わった後、ぐったりと疲れを覚えました。

何が祀られているのか
 展示室は全部で20ありますが、その最初の二つは「武人のこころ」と「日本の武の歴史」で、古代から江戸時代に至る武具の変遷をたどっています。そして第3室から第15室まで、明治維新以降、日清・日露戦争、日中戦争、太平洋戦争と、近代日本がいかに勇敢に戦ってきたかを展示しています。最後に、「靖国の神々」と題して、靖国神社に祀られている戦没者の写真と、その遺品が展示されています。
 この展示から、二つの特徴を見てとることができます。一つは、「靖国神社とは、日本国家のために、勇敢に戦って死んだ人を祀る神社である」ということです。靖国神社に祀られている人は、次の通りです(2002年10月現在)。

明治維新 7,751
日清戦争 13,619
日露戦争 88,429
第一次大戦 4,850
第二次大戦* 2,342,421
(*それ以前の小規模戦闘を含む)
その他 9,357
合計 2,466,427

 また、植民地出身の軍人・軍属も朝鮮籍2万1千人余り、台湾籍約2万8千人が祀られています。また、看護婦や勤労奉仕の女性5万7千人余りの他、従軍記者や集団疎開中になくなった子どもなども、少数ですが祀られています(現在、合祀判定は靖国神社が照会し、厚生労働省が行う)。
 その一方、空襲で亡くなった民間人や、原爆で亡くなった民間人はほとんど祀られていません。遊就館の展示にも、「軍人がいかに勇敢に戦ったか」という説明はあっても、「戦闘がいかに悲惨だったか」、「市民がいかに苦しい生活を耐えていたか」「いかに多くの市民が犠牲になったか」という説明はほとんどありません。彼らの言う「日本の礎となった人々」とは、「戦争で勇敢に戦って死んだ人々」なのです。
日本の歴史とは何か
 もう一つの特徴とは、遊就館が「日本の近代史の真実の正しい理解のために」とうたっているように、焦点がもっぱら「近代国家・日本」にあてられていることです。彼らが日本の伝統といい、誇りというとき、それは明治以降の日本の伝統であり、明治以降の日本国家のアイデンティティなのです。
 靖国創建の歴史が示すように、靖国神社とは日本政府が軍人戦没者のために建てた、国立の神社です。明治政府は、全国に11万社あった神社の中から、天皇家にゆかりの深い神社や、重要な臣下を祀る神社など220社を特に選び、「官幣社」(国営神社)と定めました。これがいわゆる「国家神道」です。このように、ヨーロッパでは「近代国家」とは「世俗国家」であったのに対して、日本の「近代国家」は「宗教国家」であったという、まさに正反対の歴史が、日本における「政教分離」をややこしいものにしているのです。


 日本会議が制作したビデオには、遺族や元軍人の方々が登場して、「靖国に祀らなければ、戦死した人は浮かばれない」と口々に訴えます。昔、文化人類学の学者が「葬儀とは、生き残った人々が死者との別れを段階的に全うするための、文化的儀式だ」と述べているのを読んだことがあります。戦死者を靖国に祀るという行為も結局、遺族や戦友が戦死者の死を受け入れるための方策なのでしょう。ですから、戦死者が「英霊(神)」となって、日本を守っている-という「物語」は、生きている私たちが必要とするかぎり、生き続けるのです。
 「父母の葬儀を済ませてから付いていきます」という若者に、「死者のことは死者に任せなさい」と言われた主キリストの真意は何だったのか。靖国神社で考えさせられたことです。