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エミリー・ウー | |||||||||||||||
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卒業のためには第二外国語を学ばなければいけなかった。私とルイ・インはフランス語を選択したが、大学は1年以上もフランス語の教員を見つけることができかったのだ。 「本当?」ルイ・インは叫んだ。 「しーっ、図書館から蹴りだされるよ」 まわりに座っている学生たちに白い目で見られながら、私はノートにこう書いて、ルイ・インに見せた。「私が家に夕飯を食べに帰ったら、党のリン秘書がきていて、お父さんに『フランス語の教員をテストしてほしい』と頼んでいたの。お父さんは『私は英語の教員だから』と断ったんだけど、リン秘書は、『フランス語が少しでも分かるのはあなただけですから、かまいません』と答えていた」 学生たちは、新しい先生の振る舞いの意味をはかりかねて、互いに顔を見あわせた。しばらくして、先生は口を開けて何か言おうとしたが、その言葉は喉にとどく前に消えてしまった。彼のしわだらけの頬を、ふたすじの涙が真珠のようにころがりおちた。 |
「学生…諸君」、先生はどもりながら言った。「こんな…ふうに…話す…ことを…ゆるして…ほしい。私は…もう…30…年も…人間を…相手に…話した…ことが…なかった…のです。私の…名前…は…チャン(張)…と…いいます」。先生は袖口で涙をぬぐうと、おじぎをした。 教室は静まりかえり、外で鳴くコオロギの声が大きく聞こえた。ある学生が、おそるおそる質問した。「チャン先生、それじゃあ誰とお話しされていたんですか?」 「神様と」、とチャン先生は答えた。とたんに教室中が爆笑した。共産党が1949年に政権に就いてから、いかなる宗教も-特にカトリックは-追放されていたのだ。「神様」という言葉を真剣に口にする人を見たのは、それが初めてだったのだ。 「先生はどこで神様とお話しされていたんですか?」と、他の学生が、からかい半分に尋ねた。 「刑務所…で」、先生は力をふりしぼって、短く答えた。 「ああ…」、私たちは不意を突かれてだまりこみ、残りの授業時間は静寂に包まれた。 後になって、チャン先生はカトリックの司祭だったために、刑務所に入れられたのだと知った。30年間のほとんどを、チャン先生は独房で過ごしていたのだ。先生の信仰が、先生を生きながらえさせたのだ。先生は、出獄した後、私たちの大学で教職に就いた。 チャン先生のフランス語は40年前に習ったもので、ほとんど忘れかけていた。しばしば文の途中で口ごもり、単語やフレーズを思い出そうとしていた。それでも、先生の教え方に文句を言う人はいなかった。 私は先生に特別な感嘆の念を覚えた。私の母は8人兄弟の末っ子だった。母は兄や姉たちに導かれて、1946年にカトリック信者になった。 |
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母の3番目の兄は、宗教学を専攻する有名な歴史学者だった。この伯父は1952年に逮捕・拷問され、座るだけの広さしかない独房に入れられた。 母の2番目の姉は、26歳の前途有望な医学生だったが、1951年に信仰のために投獄された。伯母はチャン先生と同じくらいの間、独房に入っていた。孤独な投獄期間を、伯母は靴下をほどいて、結び目をつくってこしらえたロザリオで祈って過ごした。 この伯母が逮捕されてから、祖母は昼も夜も泣き暮らして、ほとんど目が見えなくなった。祖母がガンで1964年に亡くなろうとしていたときも、逮捕されていた伯父や伯母は最期を看取ることはできなかった。 私の母は、神への信仰を保っていた。私の父が、北京の国際関係院で体制を批判して投獄されたときも、母は役人に向かって、「私の夫を迫害するなんて、イエスを十字架にかけて殺すようなものです」と抗議していた。 4番目の伯父はカトリックではなかった。1966年に、紅衛兵(文化大革命期に高校生・大学生が各地で結成した毛沢東支持の大衆運動)が伯父をカトリックの秘密司祭だとして、ひどく打ちたたき、無実の罪を告白させようとした。伯父は逃げ出して、黄河に飛び込んで死のうとしたが、漁師が岸に引き上げた。紅衛兵は激怒し、伯父をイスに座らせ、大きな鉄のクギをてのひらに打ち込んだ。そのため、ついに伯父は発狂した。 チャン先生が着任してから数週間後に、私の父は英語の教授として完全に復職した。母と弟は、父について北京に引っ越した。家族が引っ越す前日、母は私を脇に連れて行って、こう言った。 「マオマオ、これをとっておいて」と、母はロザリオを私の手の押しつけた。私たちは宗教について話したことはなかったが、母がカトリックだということは知っていた。そのロザリオは、紅衛兵たちが何度も私たちのアパートを捜索した後も、唯一残っていた宗教用具だった。母はロザリオを、こわれた竹ぼうきの柄に隠していたのだ。宗教活動は隠れてしか行えなかった。中国では、聖書や他の宗教用具を買うことは不可能だった。 「お母さんが持っていて」 母は私の手を無言で軽くたたき、私はロザリオを注意深くポケットにしまった。 |
それから数ヶ月して、チャン先生はガンと診断された。私は級友と共に、何度も病院に先生を見舞った。ある晴れた、暖かい秋の日だった。落ち葉が風に舞い、歩道に積もって朽ちていた。 チャン先生は青ざめていた。残っていた数少ない白髪は、力無く枕にたれおちていた。私たちは何と声をかけていいか分からず、枕元にしばし立ちつくしていた。病室を出てすぐ、私とルイ・インは泣き出した。最後の別れになるだろうと知っていたのだ。 外に出てから、私は「先生の病室に本を忘れちゃった。走って取ってくるから、先に行ってて」と言うと、病院に戻った。 私は病室のドアを閉めると、先生の枕元にひざまずいた。ロザリオをゆっくりとりだすと、先生の手に押しつけた。 「チャン神父様…」涙がとめどなく流れ落ちた。 「おお…」先生の目に驚きの色がひらめき、涙が枕にこぼれ落ちた。 「あなたは…カトリック…ですか?」 「母がカトリックです。どうぞ、これをお取りください」 「神様が…あなたを…祝福なさいますように…我が子よ」。先生は握った手の甲を、私の顔へと持ち上げた。先生の手に浮き出た血管は、枯れ葉の葉脈のようだった。 それから20年以上経った今も、先生の姿は私をとらえてはなさない。先生、そして他のすべてのカトリック信者たちに、つらい日々を堪え忍ばせたのは何だったのか、私は不思議に思った。それが神様なのか? そして、私は昨年、ついにその答えを見つけることにした。私は、成人向けキリスト教入門講座に通うことにしたのだ。私はそこでいろいろなことを学んだが、なかでも印象的だったのは、あの日チャン神父が自分の手を私の顔の前に持ちあげたのは、カトリックの儀式として私にキスさせるためだったということだ。なのに、あの日、私が差し上げたのは涙だけだった。
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