エミリー・ウー
解説
R.ディーターズ(イエズス会中国センター所長)

 私はチャン神父について、エミリー・ウーがこの記事で語っていることのほかに、何も知らない。だが、チャン神父は、1949年以降、毛沢東がうちたてたマルクス主義政権への協力をことわって、監獄におくられた多くの神父、シスター、信徒の代表だ。完全なマルクス主義的社会主義国である中国において、宗教的「迷信が枯れはてるまで」キリスト教会を管理するため、いわゆる「愛国協会」が設立され、カトリックの司教や神父、信徒指導者が参加を強制された。協力をことわりながら、宗教活動を続けていた者は、投獄された-その多くは、チャン神父のように、何年もの間、独房に入れられていた。その後、1966年から毛沢東が死んだ76年までの間、文化大革命の混乱が中国全土を覆い、さらに多くの教会や寺など、あらゆる宗教を破壊し、ついには共産党そのものをも破壊しようとしていた。76年になってようやく、鄧小平のもとで復興に向かうと、チャン神父のような人々はやっと刑務所から釈放された。チャン神父はおそらく、1949年の毛沢東による「解放」以前に、フランス人宣教会の神学校で学んでいたのだろう。
 エミリー・ウーの世代の人々は、チャン神父のような人々について、かつて中国に来ていた外国人宣教師によって惑わされた、少数の迷信深いキリスト教徒がいた-としか聞かされていなかった。
 2004年のこんにち、中国ではキリスト教「ブーム」が起きている。毎年、キリスト教各派の教会で100万人もの中国人が洗礼を受けていると言われている。いまや、マルクス主義者とは名ばかりの政府は宗教を、社会を安定させる力として認めている-ただし、おとなしく政府の管理に従っているかぎりにおいて。「鳥は、鳥カゴから逃げ出さないかぎり、自由だ」
 こんにち、中国のカトリック教会の中には不幸な分裂がある。一方には、政府の規制を受け入れた司教や神父、信徒たちがいる。かれらは「公式の」教会だ。他方、「非公式」あるいは「地下の」教会がある。かつてキリスト教を一掃しようとしたマルクス主義政府を信用しない、司教や神父、信徒の教会だ。かれらは一般家庭などに集まって、ミサを行っている。司教は政府の許可なく、若い神父やシスターを養成している。
 政府は教皇に対して、「司教を任命するのは中国に対する内政干渉だ」として、認めようとしない。「公式」教会の中国人司教たちは、おそらく嫌々ながら仕方なく、新しい司教を任命するのに、「愛国協会」の許可をとらなければならない。さらに、中国政府は、バチカンが中国と台湾の政府と教会を別々に承認する方針をやめなければ、バチカンとの外交関係を開かないと言っているのだ。


 「フランス語の先生が来るんだって!」
  私は興奮してルイ・インの腕をつかむと、座り込みながらささやいた。今回は、彼女が図書館の席取りをする番だった。ルイ・インはがっしりした体格だったので、たいていの場合、夜7時30分に図書館がひらくのを待っているたくさんの学生をおしのけて、席をとるのに成功していた。暑くてジメジメしていた1979年のその晩、私たちは中国・蕪湖(ウフ)市の安徽(アンフイ)師範大学で英語を専攻する2年生だった。
 卒業のためには第二外国語を学ばなければいけなかった。私とルイ・インはフランス語を選択したが、大学は1年以上もフランス語の教員を見つけることができかったのだ。
 「本当?」ルイ・インは叫んだ。
 「しーっ、図書館から蹴りだされるよ」
まわりに座っている学生たちに白い目で見られながら、私はノートにこう書いて、ルイ・インに見せた。「私が家に夕飯を食べに帰ったら、党のリン秘書がきていて、お父さんに『フランス語の教員をテストしてほしい』と頼んでいたの。お父さんは『私は英語の教員だから』と断ったんだけど、リン秘書は、『フランス語が少しでも分かるのはあなただけですから、かまいません』と答えていた」


 次の火曜の朝、私たちは最初のフランス語の授業をそわそわしながら待っていた。真っ白な髪の毛の、背中をまるめたかぼそい老人が、ゆっくりと教室に入ってきた。先生は教壇に静かに立つと、下におりた。
 学生たちは、新しい先生の振る舞いの意味をはかりかねて、互いに顔を見あわせた。しばらくして、先生は口を開けて何か言おうとしたが、その言葉は喉にとどく前に消えてしまった。彼のしわだらけの頬を、ふたすじの涙が真珠のようにころがりおちた。
 「学生…諸君」、先生はどもりながら言った。「こんな…ふうに…話す…ことを…ゆるして…ほしい。私は…もう…30…年も…人間を…相手に…話した…ことが…なかった…のです。私の…名前…は…チャン(張)…と…いいます」。先生は袖口で涙をぬぐうと、おじぎをした。
 教室は静まりかえり、外で鳴くコオロギの声が大きく聞こえた。ある学生が、おそるおそる質問した。「チャン先生、それじゃあ誰とお話しされていたんですか?」
 「神様と」、とチャン先生は答えた。とたんに教室中が爆笑した。共産党が1949年に政権に就いてから、いかなる宗教も-特にカトリックは-追放されていたのだ。「神様」という言葉を真剣に口にする人を見たのは、それが初めてだったのだ。
 「先生はどこで神様とお話しされていたんですか?」と、他の学生が、からかい半分に尋ねた。
 「刑務所…で」、先生は力をふりしぼって、短く答えた。
 「ああ…」、私たちは不意を突かれてだまりこみ、残りの授業時間は静寂に包まれた。
 後になって、チャン先生はカトリックの司祭だったために、刑務所に入れられたのだと知った。30年間のほとんどを、チャン先生は独房で過ごしていたのだ。先生の信仰が、先生を生きながらえさせたのだ。先生は、出獄した後、私たちの大学で教職に就いた。
 チャン先生のフランス語は40年前に習ったもので、ほとんど忘れかけていた。しばしば文の途中で口ごもり、単語やフレーズを思い出そうとしていた。それでも、先生の教え方に文句を言う人はいなかった。


 私は先生に特別な感嘆の念を覚えた。私の母は8人兄弟の末っ子だった。母は兄や姉たちに導かれて、1946年にカトリック信者になった。


 母の3番目の兄は、宗教学を専攻する有名な歴史学者だった。この伯父は1952年に逮捕・拷問され、座るだけの広さしかない独房に入れられた。
 母の2番目の姉は、26歳の前途有望な医学生だったが、1951年に信仰のために投獄された。伯母はチャン先生と同じくらいの間、独房に入っていた。孤独な投獄期間を、伯母は靴下をほどいて、結び目をつくってこしらえたロザリオで祈って過ごした。
 この伯母が逮捕されてから、祖母は昼も夜も泣き暮らして、ほとんど目が見えなくなった。祖母がガンで1964年に亡くなろうとしていたときも、逮捕されていた伯父や伯母は最期を看取ることはできなかった。
 私の母は、神への信仰を保っていた。私の父が、北京の国際関係院で体制を批判して投獄されたときも、母は役人に向かって、「私の夫を迫害するなんて、イエスを十字架にかけて殺すようなものです」と抗議していた。
 4番目の伯父はカトリックではなかった。1966年に、紅衛兵(文化大革命期に高校生・大学生が各地で結成した毛沢東支持の大衆運動)が伯父をカトリックの秘密司祭だとして、ひどく打ちたたき、無実の罪を告白させようとした。伯父は逃げ出して、黄河に飛び込んで死のうとしたが、漁師が岸に引き上げた。紅衛兵は激怒し、伯父をイスに座らせ、大きな鉄のクギをてのひらに打ち込んだ。そのため、ついに伯父は発狂した。


 チャン先生が着任してから数週間後に、私の父は英語の教授として完全に復職した。母と弟は、父について北京に引っ越した。家族が引っ越す前日、母は私を脇に連れて行って、こう言った。
 「マオマオ、これをとっておいて」と、母はロザリオを私の手の押しつけた。私たちは宗教について話したことはなかったが、母がカトリックだということは知っていた。そのロザリオは、紅衛兵たちが何度も私たちのアパートを捜索した後も、唯一残っていた宗教用具だった。母はロザリオを、こわれた竹ぼうきの柄に隠していたのだ。宗教活動は隠れてしか行えなかった。中国では、聖書や他の宗教用具を買うことは不可能だった。
 「お母さんが持っていて」
 母は私の手を無言で軽くたたき、私はロザリオを注意深くポケットにしまった。

 それから数ヶ月して、チャン先生はガンと診断された。私は級友と共に、何度も病院に先生を見舞った。ある晴れた、暖かい秋の日だった。落ち葉が風に舞い、歩道に積もって朽ちていた。
 チャン先生は青ざめていた。残っていた数少ない白髪は、力無く枕にたれおちていた。私たちは何と声をかけていいか分からず、枕元にしばし立ちつくしていた。病室を出てすぐ、私とルイ・インは泣き出した。最後の別れになるだろうと知っていたのだ。
 外に出てから、私は「先生の病室に本を忘れちゃった。走って取ってくるから、先に行ってて」と言うと、病院に戻った。
 私は病室のドアを閉めると、先生の枕元にひざまずいた。ロザリオをゆっくりとりだすと、先生の手に押しつけた。
 「チャン神父様…」涙がとめどなく流れ落ちた。
 「おお…」先生の目に驚きの色がひらめき、涙が枕にこぼれ落ちた。
 「あなたは…カトリック…ですか?」
 「母がカトリックです。どうぞ、これをお取りください」
 「神様が…あなたを…祝福なさいますように…我が子よ」。先生は握った手の甲を、私の顔へと持ち上げた。先生の手に浮き出た血管は、枯れ葉の葉脈のようだった。

 それから20年以上経った今も、先生の姿は私をとらえてはなさない。先生、そして他のすべてのカトリック信者たちに、つらい日々を堪え忍ばせたのは何だったのか、私は不思議に思った。それが神様なのか?
 そして、私は昨年、ついにその答えを見つけることにした。私は、成人向けキリスト教入門講座に通うことにしたのだ。私はそこでいろいろなことを学んだが、なかでも印象的だったのは、あの日チャン神父が自分の手を私の顔の前に持ちあげたのは、カトリックの儀式として私にキスさせるためだったということだ。なのに、あの日、私が差し上げたのは涙だけだった。

 私はこの復活祭に受洗する。
 もう一度お会いしたら、今度こそ、あなたの手にキスしますよ、チャン神父様?
エミリー・ウーは米国・カリフォルニア在住のジャーナリスト。英語と中国語でさまざまな雑誌に寄稿している。現在、自叙伝"Fathers in the Storm"を執筆中。