J.マシア、S.J.(スペイン・コミリャス大学生命倫理研究所長)

 去る3月11日、スペイン・マドリードでおこった列車同時多発テロは、200人もの犠牲者を出す悲劇となりました。その4日後にスペインのマシア師から、現地の様子を生々しく伝える電子メールが寄せられました。そこで今回、『社会司牧通信』用に緊急報告を書き下ろしていただきました。
 今の私の心情は説明しにくい。机の上には諸情報が山積し、心の中には消化しきれないたくさんの痛みや実感がある。授業でも事件のことしか話せない。ラジオでは一日中、事件の被害者や現場に居合わせた人の証言が、生の声で語られる。痛みと感謝。落ち込みと希望。なんとも言えない複雑な心境だ。

2004年3月11日のマドリード列車テロの翌日、メールが山積していた。「あなたは無事ですか」。「3.11は9.11のスペイン版ですか」と聞かれて、「そうでもない」と返事するしかなかった。

 10歳のこどもが記者から聞かれていた。「あの電車の中に学校の友だちがいましたか」。答えは、「殺された200人は僕の兄弟です」。なるほど、彼は被害者とともに痛みを感じ、自分も被害者だと感じていた。

 霊安室で遺体を運んでいた職員は、心の痛みでたまらなくなって、「殺人者を殺せ」と叫び出した。彼を慰めたのは被害者遺族であった。一部分しか残らなかった殺された子どもの遺体を前に、立っていたお父さんは、その職員を抱きながら言った。「おちついて下さい。私たちは復讐を求めない。戦争と憎しみはもうたくさんだ。平和、平和を…殺された息子の死が無駄にならないように…私も怒っているけれど、暴力を止めましょう。黙って祈ったほうがよい…」。放送されたこの言葉には、録音していた放送局員の泣き声が混じっていた。
 アルカラ市からマドリードを通る列車はコミリャス大学駅までいくので、私自身も頻繁に使う。しかし、私は生き残ったから無事であるとは言いたくない。亡くなった方々とともに、私たちの一部が死んだ、と言った方が適切だ。

以下は私の日記からの箇条書き。

救急車、消防車、警察などの対応は早かったし、市民の反応もすばらしかった。マドリードには4万人の看護士がいるが、かれらが手一杯だったところへ、ボランティアの7万人が加わった。被害者やその家族の心のケアに、心理学を学ぶ学生を含めて、1200人のボランティアが参加した。献血を希望する人も、必要量をオーバーするほどだった。

近所の人々は毛布や水などを運んで、手伝っていた。タクシーの運転手たちも、自発的に「無料サービス」というステッカーを貼って、被害者の家族やボランティアなどをそ、れぞれの病院などへ送った。

犠牲者の大部分は移民労働者と学生だった。ルーマニア人だけでも60人。在留許可を持たない人もいると推測されたが、政府は被害者とその家族に在留許可を与え、国籍がほしければそれも与えると発表して、かれらを安心させた。「たとえ不法入国者だとしても、安心して病院にいらしてください」と述べた法務大臣の対応の仕方が、注目された。

事件の起こった駅の周辺には、たくさんのロウソクが献げられた。こんなプラカードもあった。「移民の血とマドリードの血がいっしょになり、平和を訴える」

事件の翌日は授業をする雰囲気ではなかったが、学生たちは、痛みを分かち合うため集まっていた。「一年前に私たちは一生懸命イラク戦争に反対したのに、政府は聞いてくれなかった」と、1年生のマリは言った。「ぼくは毎朝、その電車で通っているけど、学生と移民労働者でいっぱいだ」と、2年生のホセは言った。
爆発が起こった駅のそばにあるイエズス会の教会で、マドリードの枢機卿がミサを行い、和解と平和を訴えた。多くの教会でも死者の冥福を祈り、平和を求める集いが行われた。テロリストにも、犠牲者の中にも、モロッコ人がいたが、モロッコで行われた犠牲者の葬儀では、カトリックの司教とイスラムのイマム(導師)とユダヤ教のラビ(聖職者)が共に祈り、平和を訴えた。

「テロとの戦い」という言葉を避けて、「テロから市民を守り、暴力から解放する」と、注意深く語っていた政治家には脱帽した。総選挙直前にもかかわらず、選挙運動を一切中止することで、各政党が一致した。

3月13日の平和行進には、雨の中、205万人が参加した。若者、お年寄り、乳母車に赤ちゃんを乗せた若い夫婦。プラカードには「平和」の言葉が目立ち、国旗は少なかった。ひと昔前の独裁時代の、国家主義的な愛国心を思い出させる国旗よりも、喪章の黒いリボンのほうが、圧倒的に多かった。行進の先頭には諸政党、皇太子、海外からの外交官がならび、軍人の制服は見られなかった。テロ反対の行進は、戦争反対と平和を求めるものでもあった。やはり、9.11の時とはさまざまな面で違いが見られる。数人のイスラムの女性たちが、ヴェールをかぶって行進に参加していたが、彼女たちのプラカードには「私たちも痛みを感じている」と書いていた。人々は道を開けて、彼女たちを拍手で迎えた。

当初から国際テロではないかという推測があったが、それを隠して、バスク独立派による犯行で、スペイン内部の問題だと見せかけようとした政府の対応は、報道機関をはじめ、市民の反感をかった。総選挙当日の3月14日、投票率は80%を超え、新記録だった。ラジオと新聞はイラク戦争の動機と成果を問い、戦争を支持した現政権への批判が高まった。選挙の結果は野党が勝ち、政権交代が実現した。テロの恐怖の中で選挙が行われれば、与党・保守党が勝ち、テロへの対応が米国追従になるかもしれないと予測した人々もいたが、結果は一般市民による平和への叫びが勝った。

マリア修道会が主催する祈りの集いに、犠牲者遺族から、次のような手紙が届いた。「私は3.11で息子を殺されました。痛みで胸が一杯ですが、私たちと共に泣いてくれた人々を通して、神の慈しみを感じさせられました。みなさんにもお祈りをお願いしますが、それは息子のためではなく(なぜなら、息子は天国にいるからです)、テロを実行した人々と、それを計画した人々のために祈ってください。
かれらがもらたした傷をいやすため、また、かれらを支配している悪を、かれら自身が乗り越えるために必要な愛を見出すことができるように、祈ってください。私たちは息子の遺体を前にして、暴力が世の中からなくなるよう全力を尽くすことを誓いました。世界に暴力より愛を選ぶ人々が増えれば、いくらテロが起きても、愛が打ち勝つと確信しています」

 以上、この数日の間に感じたことの一部にすぎないが、日本で参考になればと思い、箇条書きだが、急いで書き下ろした。テロがあれば恐怖が高まり、戦争への動きが強まると考えがちであるが、今回は幸い、そうではなかった。テロがあったからこそ、暴力を根絶し、平和を求める運動が高まったのだ。9.11以降、アフガンとイラクでの不正な戦争の傷跡を引きずっていた私たちは、3.11での市民の態度に希望を与えられた。
(3月18日記)