阿部 慶太(フランシスコ会)
 
  約7年の大阪生野の生活を終えて、この夏から川崎で生活することになりました。今回から番外編で、この紙面で書ききれなかったことをまとめてみたいと思います。

● 意外なアドバイス
 まず、生野のコリア・タウンの近くに住んで地域活動に関わりたい、という希望を出した際に、週末は修道院に戻り典礼等を共にするのを条件に許可が下りました。その他に、周りを変えようとか、何かを行おう、というのではなく、行政や日本社会の中で翻弄される側の人々の想いや辛さを共有する事をむしろ大切にしたらいい、というアドバイスをある会員から受けました。
 このアドバイスは少し意外でした。何故なら、自分の中にあった地域活動に関わるイメージの中には、1980年代に山谷や釜ケ崎等にあった各修道会の小共同体の働きがあったからです。その時代は、解放の神学の講演会等が盛んで、預言的共同体といって小規模で、地域の中で社会問題などの現場に奉仕し、人々の中で預言的な役割を果たす小共同体作りが提唱され、各地に様々な共同体が置かれました。こうした共同体は現在少なくなってきました。宣教方法や時代のニーズ、召命の減少など様々な理由によります。
 また、アドバイスを意外に感じたその他の理由は、地域活動に関わる以上は何かを行い成果を上げないといけない、小教区で働く司祭が少ないのに何故そんなことをするのか、小教区で信者を教育してグループを作って奉仕活動した方が効率がいいじゃないか、アパート住まいをして地域活動しても受洗する人がいないなら何の意味があるんだ、といった意見やプレッシャーが教会関係の人々からあったにもかかわらず、逆説的な意見だったからです。
● 効率主義の社会の中で
 地域活動に関わる中で改めて感じたのは、日本社会の価値観にまだ残る効率主義が教会の中にも影響を与えている点や、私にそれとは反対の助言をくれた会員の言いたかったことの意味です。
 例えば、地域活動などに参加して、何かを行い成果が上がるような場合とそうでない場合、地域の反応と教会関係の反応を比較すると、成果があるないを問わない地域の反応と成果を問う教会関係の反応の違いは確かにありました。この反応は、ある程度仕方がないと思います。日本の社会では、何かのことで成果を上げる、役に立つ、何かができるという方の価値が高いですから、日本の社会の価値観に教会が影響を受けている面があってもおかしくないからです。

● 地域で生きる
 また、地域の人々が成果を問わない理由には次のようなことが考えられます。生野の場合、キリスト教関係者が始めた地域活動がいくつもありますが、それらは、地域の必要性からスタートし、結果的に施設や毎年行われるイベントなど、大きな規模のものに変化してしていったことや、人権関係の活動などは、行政や国に対して何かを訴えても却下されたりするケースも多く、大きな成果や勝利につながらなくても、地域の抑圧された人々にとって、共に活動し闘うことが力になっていることを周囲の人々が理解しているからといえます。
 こうしたことから、何かを行うとか成果を上げる、といったことが大事なのではなく、共にいることや地域から受けたり学んだりすることも大切なのだ、ということが地域活動に参加する中で実感したことの一つで、生野で生活する前に受けたアドバイスが改めてありがたく感じました。