ビセンテ・ボネット(上智大学/イエズス会)



  今回のツアーは、出発日の10日前1月29日に、実現が出来ないのではと心配する出来事がありました。それは、プノンペンにおいてタイ国に対する暴動が起きたため、バンコクからプノンペンへのタイ国系航空会社の飛行機すべてが無期限に不通となったからです。バンコク経由、バンコク・エアウエイズの飛行機でプノンペンに飛ぶ予定だった私たちは、毎日その再運航を祈るばかりでした。皆の強い望みの結果か、幸運にも出発日の5日前、バンコク・エアウエイズの飛行機だけが飛ぶようになり、予定どおり出発して無事にプノンペンに行くことができました。
 2月8日夜に到着して、翌日からプノンペンでは、まる二日間朝早くから暗くなるまで動いていました。ツアーは、Tuol Slengへの訪問から始まりました。学校だったTuol Slengの建物と校庭は、ポルポト政権時代に収容所として3年間以上使用されました。そこで、人間が同じ人間に対してどれほど残酷なことが出来るかを目の当たりにしました。殺された人々(女性と子どもも含めておよそ2万人)の写真、収容された人々が入れられた独房(学校の教室は、レンガや材木などで床に寝られないほどに小さく区切られた)、拷問に使用された器具など、自分の目を疑い、また背けたくなる場面の多いところでした。
 同じ日に「ゴミの山」まで行って、そこに住んでいる人たち、特に子どもたちに出会いました。教皇パウロ6世は、本当の意味の進歩が「人間にとってよりふさわしくない条件から、よりふさわしい条件に移り行く」ことであると言っています(「諸民族の進歩発展について」、20番)。写真には、燃えているゴミの煙、臭い、そして食べ物や子どもの体、いたるところに止まっているハエの数は現れませんが、それを見たり嗅いだりしたなら、このゴミの山は人にとってマッタクふさわしくない生活条件であることを誰でも実感できるに違いありません。他に住む所のない多くの人々、特に子どもたちがこの生活条件を強いられているのは、戦争の時とは違うかたちの残酷なことであり、日常的な一種の拷問とも思えるのです。実際にもし私がそのような生活環境を強いられたなら、必ずそう感じるでしょう。

ゴミの山
  戦争と貧困の跡は、次に訪れた「子どもの家」でもまた身近に見えました。自分の村にいれば病院にも学校にも通えない障害を背負っている子どもたちは、イエズス会サービスが担当している家で、お互いに助け合いながら共同生活を営み、病院と学校に通っています。そこで、地雷や病気などによって耳や目の不自由になった子ども、足や腕を奪われた子どもたちと、夕飯が準備されている間に、折り紙、紙風船やシャボン玉で遊ぶことができました。子どもたちの喜ぶ顔、他の子に対する心配り、そして家全体の和やかな雰囲気によって将来への希望も見えたのです。
 明くる日の10日はまず、神の愛の宣教者会(インドでマザーテレサが設立した会)の修道女たちがHIVと結核患者をケアしている施設を訪れました。末期患者の痛ましい状態と修道女たちの明るくて心のこもった振る舞いは非常に印象深いものでした。
 そこからイエズス会サービス・カンボジアの「鳩センター」に行きました。このセンターで、地雷等によって障害を背負っている100人の若い男女は、農業、そして自転車やオートバイ修理、裁縫、機織り、電気工、木工などの技術訓練を受けています。彼らは訓練を受けている間、敷地内のコテージ風の寮に住み、自分たちの手で共同生活を営んでいます。寮も訓練の場も車椅子で自由に動けるように整備されています。経済的にカンボジアより遥かに豊かである日本が、どうして障害者にとってこれほどの不自由な環境になっているかを新たに考えさせられたところでした。センター長のイエズス会士ホアキ師は、今までこの訓練生の食事のために必要な米が「国連食糧計画」からの援助として送られていたが、その機関の方針が変わり、センターへの援助が停止される可能性が大きいと話していました。これから訓練生のための米費用(年に6千ドル以上)をどのように手に入れるか、が新たな悩みの種になっていました。
 「鳩センター」の訪問後、イエズス会サービス・カンボジアの総合事務所に行き、それぞれの活動部門の責任者から話を聞き、ツアー参加者の多くの質問に答えていただきまた。少ないスタッフでこれほどの活動を成し遂げていることに驚きましたが、その後に訪れたバタンバン、シソポンとシエムレアプでその活動を直視できたので、次ぎに紹介します。

 バタンバンにおいて車で移動しているとき、司教のエンリケ・フィガレド(キケ)師と色々と話ができました。司教としての彼は、新しい教会(建物)を建てるようにと多くの信徒に望まれているようです。しかしキケさんはまず、いのち、生きている人を支える(生きている教会をたてる)ことが先であると強調していました。私にとって彼の活力は驚きの連続でした。そしてその活力の源はどこからかと聞いたら、彼は一瞬の迷いもなく、司教館敷地内にある、アルペセンターの子どもたちであると答えたのです。

アルペセンターの子どもたち

 この子どもたちは皆地雷や小児麻痺などによって障害を負わされ、車椅子であるいは足を引きずるように歩いて、センターから学校や病院に通っています。私たちは彼らが学校から帰ってくる昼過ぎに会って、クメール語での挨拶、英語やスペイン語の一言二言だけでも彼らの明るさ、力強さが伝わってきました。そしてまた夜遅く、私たちがタプーンという村の訪問から司教館に戻ったとき、彼らはもうパジャマ姿で私たちを迎え、小さいグループであるいは一人で色々な歌を披露してくれました。タプーン村で子どもたちと遊んだり、いろんな家族の状況をずっと聞き歩いたりして疲れていたはずの私たちも、キケさんと同じように、あの子どもたちから新たな力が与えられるように感じました。
パジャマ姿で歌ってくれた子どもたち



 バタンバンからシエムレアプに車で移動する途中、カンボジアの北、タイとの国境近くにあるシソポンという町に寄って、イエズス会サービス支部のスタッフからその周辺の活動の説明を聞くことができました。また村々の具体的な状況と必要性、それぞれの支援の計画と進み具合のきめ細かい記録を見せてもらい、感嘆しました。ちょうどそのとき、いろいろな村の識字学校の先生のために年に四回行われる研修会が実施されていたので、その光景(作られている資料、絵など)を見ることができたし、そのほとんどが障害者である先生たちとも会えたのです。

 次に、シエムレアプからの活動範囲は非常に広くて、短い間ですべての所を訪問するのは不可能だったため、私たちは三つのグループに分かれて、オートバイや車でそれぞれ違うプロジェクトを中心に訪問することにしました。そのプロジェクト一つ一つについて細かい説明はできないので、いくつかを並べることにします。

*地雷などによって障害を負っている貧しい人々のための車椅子の提供と修理(これは200村にも及んでいる)、保健指導、補聴器の提供など。

*外国人旅行者にとって「邪魔」であるという理由で、アンコールワットの周辺から追い出された障害者のために始められた村の人々の支援。

*学校のない村で識字学校(というのも、青空教室のようなもので、屋根しかないものが多い)をつくり、先生を探しそして定期的にその進展(生徒とその家族の状況、登校する人数、不登校する理由など)の調査。

*村づくりの支援。これは、それぞれの村の状況、必要性によって違います。たとえば全く何もないところ、ゼロから始めようとする村であれば、家、井戸づくりの材料と農業のための種などの提供が必要ですが、その必要性の優先順位を決めるのは村人であり、家を建て、井戸を掘り、土を耕すのも彼らです。私のグループがまず訪れたのは、そういうところで、イエズス会サービスのスタッフは支援を開始する村(実際にまだ村のないところ)でした。

 そのときに、スタッフは第一回の村人との集まりを開いて、最初に代表者を選ぶようにしました。読み書きができない人々もいて、また選挙の経験もなくその方法がわからない彼らの場合、どのようにそれを実施するかということに非常に興味が湧き、ここで細かく説明するのは難しいのですが、色紙を使って投票させる実に感激した実施方法でした。

村の代表を選ぶ選挙の様子  

 その後、二年前に始まったときからイエズス会サービスが支援している村を訪れて、具体的に目に見えるかたちでその発展を確かめることができました。住む家、井戸、豊富な果物の木などは真の支援の意義を明確に語っています。
 また、シエムレアプでタイとの国境あたりの地雷原の所や地雷博物館なども訪れて、新たに戦争の愚かさを感じずにはいられませんでした。

 ツアーの訪問先、出会った人々、体験したことなどがあまりにも多くて、紙面と言葉の限界によって触れることのできない、伝えられないことがたくさん残っています。最後にひとつだけ加えるとすればそれは「自由」という言葉で表現したいと思います。私たちは自由であると思っていますが、カンボジアでは「時間」に縛られるより人々を大切にするという「自由」を感じました。また、人々を助け、支援することを妨げ、不可能にもする「常識」、世間の目、行政とその他の決まりなどからの「自由」も感じました。もしかすると、戦争の傷跡、障害、貧困より、物質的な豊かさの方が人間を不自由にしているのではないかと、新たに考えさせられるツアーでした。