山田 經三(イエズス会)

 2000年9月、上智大学社会正義研究所所員として難民調査のため、東ティモールに行く直前に、管区長より打診されました。「東ティモールに管区より派遣されて働く用意はできていますか」と。「はい、いつでも行く用意はできています。2002年3月には上智大学を定年退職することになっています」と即座に答えました。
 その直後、私の過去、現在を少しふり返ってみました。実は今まで宣教師として他国で働くことは考えたことがありませんでした。私の使命は日本にいて若者を海外に派遣することと考えていました。定年退職直後からは日本経営倫理学会、世界宗教者平和会議(WCRP)その他で、責任者として働くことが期待されていました。海外から多くの宣教師が日本に来て働いて下さっていることに対して、神学生の頃から常に感謝の念をもちつづけ、日本からも他国に宣教師として行って働き、お返しする必要があることは考えていました。
 顧みれば、1960年代より神学生の頃から社会司牧委員会の一員として、アジア隣国での会議などに参加する機会を与えられ、この分野の多くの会員から学ばせていただきました。アフリカ難民調査やアジア隣国での調査などで、1ヶ月以内の滞在は多かったのですが、長期滞在はありませんでした。
 それがこの歳になって今どうしてという疑いや不安は感じず、今までの日本での生活、仕事、他国での人々との交わり、連帯、経験の蓄積と継続の延長線上に、今回の管区長の派遣打診は位置づけられ、唐突ではなく自然のことと受けとめることができました。
 しかし、今これを書くのは自分の内面の世界のことで恐縮ですが、2000年9月、1ヶ月間の東ティモール滞在中に、ディリから車で20分のダレという山奥で、真夜中、満月星空のもとで祈っていると「私がここに招くのだよ」という神様の声を聞くことができました。
 管区長への従順がこのような形で祝福を得たことは、その後の東ティモール訪問(01年3月と8月)、そしてこの度02年5月から宣教師としての約10ヶ月間を通して、いつも私の心の支えとなり、現在に至っています。しかも、そのお招きは9月滞在中に訪れたアイレウ、スアイ、アイナロでも再度確認されました。不思議なことに、のちに述べる10ヶ月間の滞在がいずれも、その招きを受けた場所であり、そこで生活・仕事をしています。
 そのお招きの際、「修練以来今まで、よく捧げてきた。その捧げの心でこちらに来たらよいのだ」という促しも心の内に確認することができました。
 実は、その時はじめて、45年余り前の私の修練院以来の謎が解けました。捧げについては、因果関係なしに突然に次の三点が指摘されました。一点目は、修練が終わっていよいよ哲学・神学の勉強という時、「お前は経済を勉強し、アジア隣国の人々との連帯を大事にすること」という促しに支えられて現在に至るまで、経営倫理学と同時に、社会司牧委員会、カトリック正義と平和協議会などで、その取り組みを継続することができました。
 二点目は、学生紛争の厳しい渦中での駒場、ザビエル学生寮長としての任務で、人間の力では到底解決不可能なことの終結も、今よく了解できました。
 三点目は、フィリピン、ミンダナオ島カガヤン・デ・オロの多くの人々の要請にこたえ、23年間にわたる日本企業の公害輸出反対運動で、これも今にしてそのお招きのもとに考えれば、御手の業のおかげであったという感謝の念に満たされます。
 以上三点が霊の動きにより急に思い起こされ、神の招きに対する捧げだったのだと、ダレでのその一瞬に確認することができました。つまり、東ティモールで今後何が起ころうと、これからの宣教のすべては、日本で今まで捧げ、行ってきたことの延長線上にあるということを分からせていただきました。
 このことを別の言葉で表現しますと、イエスが復活後、弟子たちに語られた「恐れることはない。喜びなさい。平和を与える」で、私はこれを東ティモール出発の直前、上智大学講堂での聖土曜日(02年4月)にメッセージとして伝えました。
 私自身その心で10ヶ月間、東ティモールでの日々を送ってきました。簡単にその報告を致します。

 2002年5~8月の4ヶ月間は、ディリのイエズス会レジデンスで地元の言葉テトゥン語の修得に集中しました。水、電気がなく通信手段も皆無という不便さ、外的にはどのような困難、欠乏があっても、日々のすべての経験は根本的に幸せでした。その根拠は、前述の神の招きが生活の基盤にあり、心の支えになっているからで、東ティモール人のイエズス会員が「いつもニコニコしていて、不満がないようだね」というのに対して、私の答えは、「私にとっては、これは第五修練だからだよ」ということです。すなわち、イエズス会での第一~三修練を長束で終えたあと、前述のザビエル学生寮と公害反対の約30年間が私にとっての第四修練でした。人間不思議なもので、すべてをそのように「修練」として受けとめれば、何があっても苦ではなくなるようです。
 9月から11月末までは「第六修練」として、アイレウ教会での司牧にあたりました。その主任司祭ジョビト師が政府委員会「難民受容・真実・和解」副委員長としてディリで多忙のため、月~金曜日、毎日ミサ・説教など司牧に専念しました。現地の言葉テトゥン語ですべてを行うのですが、エピソードを二つ紹介します。10月早々、アイレウの全小・中・高生と先生1,000余名が全員、学期始めに教会でのミサに集合、ジョビト師司式のはずですが、来ないので急きょ私がミサと説教をすることになりました。聖霊に真剣に祈って説教開始。不思議に20分間なめらかに出来ました。ミサ後、テトゥン語が上手なメリノール会のシスターたちが「誰が助けたのか?」と質問。「聖霊のおかげでバベルの塔が乗りこえられた」と返事しました。
高校生たちも駆け寄り「よく分かったよ」と言ってくれました。
  12月からはディリから車で7時間のスアイにあるイエズス会ソーシャル・ミッションで、堀江節郎師(イエズス会)と共に働き、現在に至っています。その間、マニラで第三修練中の小山英之師(イエズス会)が実習として3週間、オーストラリアのプロクラトールも3日間滞在し、5人の共同体でした。
 スアイの作業内容を私の専門「参加的組織」の視点から若干報告します。①広い地域にわたる動物飼育(ブタやヤギなど)も、②一部落90世帯の44の便所建設も、5~10家族が1グループを形成し、グループ毎の共同作業は共同体作りにも役立ちます。いわゆるCommunity based feeding and housing(共同体作りを基礎とした動物飼育と便所建設)です。男性たちの作業中に、私たちが配給する米を女性たちが料理し、作業後皆でいっしょに食事をします。
 三番目の大がかりなプロジェクトにとりかかります。それは650haの田畑に水をひくための灌漑工事で、農民全員参加による長期間の作業です。これも①②同様に、作業中、私たちが米や資材を調達し、農民の自立・自助努力を支援する活動です。
 その他、私たちの大切な仕事は、スアイ教会の2人の教区司祭を手伝う日曜毎のミサ・説教奉仕です。アイレウ同様、スアイも巡回教会は広範囲に及ぶので、私たちが車で遠くの教会にミサを捧げるために行き、共同体作りを手伝います。毎日曜(土曜も)一日がかりの仕事です。
スアイ、イエズス会ソーシャル・ミッションの家で、
堀江氏と著者(右)
 私は東ティモールに来て以来、日本のPKF(平和維持部隊)とは距離をおいていました。その理由は、日本国平和憲法に基づき、日本の自衛隊の海外派兵は反対という日本司教団の署名に、私も名を連ねているからです。とくに東ティモールへの派兵を既得権として、海外派兵の具として利用することには反対だからです。
 こうした構造的な仕組みとしての問題とは別に、海外に行く以上は、真に地元の住民の福祉に奉仕する、いわゆる「平和部隊」としての貢献の可能性はあるのか、という問題意識も他方では持っていました。
 2003年1月5日、ディリから車で1時間20分のライラコ教会で司牧している2人のフィリピン人イエズス会員が、6人の信徒も同乗して山奥の巡回教会にミサに行く途中、大型車が道から7m下に落下してしまいました。ディリの東ティモール人イエズス会員たちから、この救出には日本のPKFに頼むしかないと強い要請を受け、一人で日本のPKF本部に頼みに行きました。かれらはそれを快く引き受け、早速クレーン車など大型車両3台を動員し、13名の隊員で一日の作業で完了し、レジデンスに運搬してくれました。
 スアイにおいても、前述の灌漑工事の件で、農民たちの強い要請を受け、願いに行ったところ、快く応じてくれました。これは一例ですが、確かに日本のPKFは小学校、病院、道路その他の修復工事のために、住民たちによく貢献しています。 今ではスアイから引き上げる時期になり、ブルドーザーなど重機の操作訓練を終日東ティモール人たちに行い、かれらに託す用意をしています。豊富な食糧を、最も必要としている東ティモール人たちに配布してほしいと私たちに依頼し、今では私たちの小さな家も食糧物資で満杯という状況です。
 スアイで私たちイエズス会ソーシャル・ミッションが住民のため有効に働きうるのは、3年間JRS(イエズス会難民サービス)と共に働いた地元の3名の協力者と、親切な大家さん一家のおかげです。
今後も、住民の必要をよく知り、住民から信頼を得ている3名の協力者と共にさらなる発展が期待できます。前述の経験豊かな2名の神父も、以上3つのプロジェクトを高く評価してくれました。
  ところで、東ティモールでの慰めは、召命増加のことです。99年9月以降、ディリのレジデンスを志願者養成の場とし、毎日8時から5時まで志願者は通ってき、勉強をします。
 現在シンガポールの修練院で12名(1年・2年各6名)、来年のため準備中なのが11名。かれらのうち何人かも、近い将来スアイで私たちと共に働き、種々の可能性が広がるのが楽しみです。
 スアイの私たちの共同体には、常時客室を備えていますので、どうぞいつでもいらして下さい。心より歓迎致します。(2003年3月6日記)


 
<写真説明>
99年9月、スアイの教会に保護を求めてきた約300名の信徒を守るため、真っ先に出て行ったデワント師(インドネシアのイエズス会員、司祭叙階後1ヶ月)はじめ3名の司祭、約300名の信徒が全員虐殺された。2000年9月、殉教者たちを記念する全国式典ののち、インドネシアのプレミオーノ管区長(前列右から2人目)と共に。

 東ティモールは長くポルトガルの植民地だった(第二次大戦中は日本が支配)。1974年、ポルトガルでクーデターが起こり、植民地解放が宣言され、東ティモールも75年11月、独立を宣言したが、翌12月にインドネシアが軍事侵攻し、以後24年間、インドネシアの支配が続いた。
 その間、インドネシア軍や東ティモール人民兵による虐殺、飢餓で、人口60万人のうち20万人が死に、住民(特に女性)への暴行も絶えなかった。99年に行われた独立を問う住民投票前後には独立反対派による暴力事件が多発し、ついには多国籍軍が介入して、昨年まで国連が暫定統治した。
 国連は国民和解のため過去の暴力を追求するにあたって、①1999年に限定すること、②インドネシアにチャンスを与えることを求め、裁判は現在、インドネシアと東ティモールで並行して行われている。だが、インドネシアの法廷では3名(うち2名が東ティモール人、1名がインドネシア人)が軽い刑を言い渡されたに過ぎない。東ティモールでは、インドネシア軍高官も含めて200人近くが起訴されているが、インドネシアは「勧告に過ぎない」と無視する一方、東ティモール政府に外交圧力をかけ、国連は「東ティモール政府の責任で行うべきこと」と関与を控えている。
 このように重大犯罪の追求が進まない一方、2002年1月に発足した「受容・真実・和解委員会は着実に活動している。その目的は①1974~99年のすべての人権侵害の調査、②軽い犯罪の追求(重大犯罪は検察に報告)と地域の和解促進、③人権侵害の防止と被害者支援だ(「受容」とは、いまだに西ティモールの難民キャンプにいる独立反対派の人々を、東ティモール社会に再統合する意図をあらわす)。7名の全国委員の下6つの地方事務所を持ち、13県で240名が活動している。活動は2004年4月までだが、半年間の延長が可能だ。
 今回、一時帰国した山田神父と共に来日したジョビト・レゴ神父は全国委員会の副委員長で、3月前半の2週間、日本各地で活動の現状について話した。ジョビト師によれば、「正義なくして和解はなく、被害者の立場に立った真相と責任の追及が不可欠だ」。だが、政治力も経済力も乏しい東ティモールにとって、国連や国際社会の支持なしにインドネシアの責任を追及することは、自殺行為に等しい。また、日本を始め諸外国から委員会への支援(日本だけで100万ドル)も使途を限定され、被害者支援に充てることはできない。何より、東ティモール社会全体が依然、貧困に苦しんでいる。国際社会の注目がアフガニスタンや北朝鮮、イラクに向けられ、東ティモールが「半ば忘れられようとしている」現状では、東ティモールの置かれた状況はますます困難だ。
 とはいえ、ジョビト神父は「委員会の活動は最初の一歩に過ぎない。東ティモールで大きな力を持つカトリック教会も生まれ変わって、和解と再生に貢献しなければならない」と希望を語った。

さらに詳しく知るために
『季刊・東ティモール』大阪東ティモール協会〒531-0064大阪市北区国分寺1-7-14国分寺ビル6F
ホームページ http://www.asahi-net.or.jp/~ak4a-mtn/ 東ティモールに自由を!全国協議会