本論文の筆者は、米国フロリダ州タンパのイエズス会系高校のキャンパス・ミニストリ責任者。原文は米国のロヨラ大学が発行している"BLUEPRINT for Social Justice"の2002年12月号に掲載された。以下は当センターの抄訳で、原文は3倍の長さがある。英語全文は次のサイトで見られる。
<http://www.loyno.edu/twomey/blueprint/blueprint.htm>

  2002年11月12日、米国カトリック司教協議会は声明を発表し、対イラク武力行使に関して深刻な懸念と疑問を表明している。筆者は「テロに対する戦争」についてさまざまな角度から検討して、「紛争解決の最終手段である戦争」にかわる他の手段を追求する、信念と創造性が米国に欠如していたと述べる。

 カトリックのカテキズム
 カトリック教会の正戦に関する教えは、『カトリック教会のカテキズム』の「平和の擁護」の中の「戦争の回避」の項で述べられている(2309番)。そこには、武力行使に先だって、またその最中に満たさねばならない条件が列挙されている。要約すれば、攻撃者による損害が持続的で、重大で、明白であること(9月11日のニューヨーク・ワシントン・ペンシルバニアでの死者数千人のように)、他のあらゆる非暴力的手段によっても戦争回避が不可能なこと、成功の見通しが高いこと、武力行使による害が(近代兵器の破壊力を十分に考慮した上でも)それによって排除される害より小さいこと、などだ。
 こうした規準は、イラクに対する武力行使が正当と見なせるか否かを個人的に判断する上で、大いに役立ちうる。だが、それ以上に、これらの規準は、公共善に責任を持つ政府当局者が、戦争を行うか否かを決断するにあたって、助けとなるよう考えられたものだ。

 カトリックの社会的教えの戦争論
 最近のカトリック教会の社会的教えは、正戦論の伝統を有益に補足している。1963年、教皇ヨハネ23世は、回勅『パーチェム・イン・テリス』(地上の平和)でこう宣言している。「現代には、ますます人々の精神に波及していくひとつの信念がある。諸民族間に発生する紛争は、武力によって解決すべきではなく、交渉によって解決すべきであるという信念がこれである」(邦訳、55ページ)
 「それゆえ、原子の世紀である現代において、戦争が権利の侵害を是正する適当な手段であるということは考えられないことである」(56ページ)
 第二バチカン公会議の『現代世界憲章』は、正戦論の伝統を認める一方で、「科学兵器の進歩によって…まったく新しい考え方で、戦争について検討するようわれわれに強要している」として、
現代の人々は自分たちの戦争行為について重大な計算書を提出しなければならないことを知るべきである」と警告している(80)。こうして公会議は、戦争に対する「新しい態度」と良心的な兵役拒否を肯定した。
 教皇パウロ6世は、戦争とその原因を終わらせ、軍縮をはじめることが緊要だと述べている。回勅『ポプロールム・プログレシオ』(諸民族の進歩推進について)で教皇は、軍備に使われる費用の一部を割いて世界基金をつくり、世界中の貧しい人々を支援するようにと提案している。「これほど多くの人びとが飢餓に苦しめられ、これほど多くの家族が貧困に悩んでいます。また、これほどたくさんの人びとが無学のままに放置され、学校らしい学校や病院らしい病院、あるいは住宅らしい住宅がまだ建てられていません。それなのに、公費の浪費とか国家的、個人的虚栄からの出費とか、あるいは軍備競争に金を使い果たすということは、きわめてみにくいことであります」(53)。教皇は、防衛予算ではなく「諸民族の進歩」こそ戦争に反対する最善の道であると強調する。「進歩が平和の新しい呼び名である」(87)
 教皇ヨハネ・パウロ2世は回勅『チェンテジムス・アンヌス』(新しい課題)で、前任者たちの言葉を引用する。「まさにこの理由から、平和の新しい呼び名は発展なのです。戦争を回避する集団責任というものが存在するように、発展を促進する集団責任も存在します」(52)。ヨハネ・パウロ2世はまた、湾岸戦争に対する自身の行動を想起させる。「わたし自身も、最近のペルシャ湾岸での悲劇的な戦争に対して、『戦争を繰り返すな』と叫びました。戦争は繰り返してはなりません。戦争は無垢の人々の命を奪い、人間の殺し方を教え、殺す側の人々の生命さえも戦乱のなかに投げこみ、後には恨みと憎しみのつめあとを残し、こうして戦争を引き起こすあらゆる問題に正しい解決を見いだすことが、ますます困難になるのです」(52)
 このように、教会の社会的教えには少なくとも三つの流れがあるように思われる。近代兵器、中でも核兵器の破壊力を懸念する強い反戦の姿勢、兵器ではなく諸民族の発展が平和において果たす重要な役割を認めた軍縮の要請、良心的兵役拒否や戦争にかわる非暴力的手段の称讃と奨励だ。問題は、多くの人が指摘するように、こうした文書が、教会の戦争に関する教えの変化や発展を示したものなのかどうか、ということだ。
 今日の戦争に関する教え
 それでは、今日のカトリック教会の教えは、戦争に関してどう語っているか? 確かなことは、いわゆる「正戦論」(戦争を道徳的に正当化する議論)だけにとどまらないということだ。
 教皇ヨハネ・パウロ2世の2002年世界平和の日(1月1日)メッセージ『正義なしに平和はなく、ゆるしなしに正義はありません』を思い出そう。教皇が勧めるように、私たちはまず、私たち自身の内に、そして次に社会の中に、ゆるしの姿勢を広めるという困難な務めに取り組まねばならない。「ゆるすことのできる度量は、より公正で連帯を伴う未来の社会を築こうとするどんな計画にも、基礎として必要なものです。その逆に、ゆるすことができないとしたら、特にそのことで紛争の継続が避けられなくなってしまう場合には、人々の発展にとって多大な損失をもたらすことになります。資源は、軍備増強への路線を維持し、戦争に使われる費用、経済的報復の結果に対応するために使われます。このようにして、発展や平和、正義を促進するために必要な財源は、なくなってしまうことになります。…平和は発展への条件ですが、真の平和はゆるしを通してだけ可能になるのです」(9)。
 私たちは対話へと招かれている。平和と正義を促進するために、私たちはキリスト者として何をすべきかという議論に(そこに選択肢として戦争が含まれていても)参加するよう招かれている。好むと好まざるとに関わらず、正戦論は教会の教えであり、カトリック信者が戦争について議論するのに正戦論に触れないわけにはいかない。非暴力抵抗運動を選択する人々は、戦争の可能性を容認するような人とは話し合う余地がないと主張するかもしれないが、キリスト者は逆に、私たちには戦争を容認する人々と話し合うべき義務があると主張する。「他人の考えに耳を傾けるのを恐れるのは、一般に、自分の考えに内心では自信がないからだ」と、トーマス・マートンは述べる。「社会生活における謙遜というキリスト者の使命は、単に教えを広めるためだけでなく、他の多くの代替案に対して耳を傾けるためでもある」

 この問題について、私自身の立場も述べておいた方が公平だろう。私は、思い出せるかぎりずっと戦争に反対してきた(たぶん、それは私が60年代生まれであることと関係あるだろう)。実際、私にとって戦争反対は良心の問題であり、今日に至るまで、私にこの立場を捨てさせるようなものは、まだない。それでも私は確信するのだが、正戦論が教会の教えであり、今後もそうであるにちがいないという理由だけでも、正戦論を真剣に受け取る必要がある。だが同時に、戦争の起こりやすさや危険を物語る歴史的事実や現状のしるしも無視してはならない。
 そこで、正戦論を真剣に受け取る人々に、私なりの結論を伝えたい。多くの人は「今回こそ正戦論に該当するケースだ」と主張するが、今回の一連の紛争を見れば見るほど、いったいどれほどの人が本当に、武力行使よりも交渉を重視してきたのかと疑問に思う。つまり、戦争に進むに先立って、紛争解決のための他の手段がすべて尽くされていなければならない-という正戦の条件がほとんど無視され、試みられていないように思われるのだ。最近の戦闘行為の大部分は、たとえどんなにメリットがあったにせよ、正戦論のこの条件を満たしていないというその一点だけで、不正であると考えざるをえない。それは、創造性とイニシアティブの欠如に起因すると思う。社会回勅をゆっくりと読めば、この二つが社会変革の大切な要件であることが分かるだろう。米国の政府当局者には、限られた交渉の末に最後通牒を突きつけるという外交スタイル以外に、他の可能性を探そうという姿勢がほとんど見られない。たとえば、米国がアフガニスタン攻撃前に、いかなる交渉も拒否した事実は、それが正戦であったという主張を全面的に否定するものではないとしても、少なくとも大いに疑問視させるものである。
 政府当局者は戦争にかわる新しい(時には過激な)選択肢も受け入れ、その選択肢を最後まで見守る忍耐力を持たねばならない。そうした態度は政権の人気を落とすかもしれないが、人気取りに走って再選を果たして次の4年間を戦争まみれで過ごすよりも、いま平和のために働く方が、人類にはよりよい未来が保証されるだろう。

 <文献紹介>
 書店にはイラクに関する本が山積みだ。『アメリカはなぜイラク攻撃を急ぐのか』(朝日文庫)は、外交専門誌『フォ-リン・アフェアーズ』掲載の11の論文からなり、軍事・外交の専門家が冷静で掘り下げた議論を展開している。『イラク戦争-ブッシュ政権が隠したい事実』(合同出版)は、元国連イラク大量破壊兵器査察官スコット・リッター氏にインタビューして、現場から見たブッシュ路線の危うさを浮き彫りにしている。『戦争プロパガンダ10の法則』(草思社)では、歴史学者アンヌ・モレリ氏が、近代戦争における情報操作のワナの具体例を挙げる。月刊誌『福音宣教』で今年1月から連載中のシリーズ「暴力と宗教」は、ホアン・マシア氏が、宗教が暴力や戦争とどのように関わり、いかに対処しようとしてきたかを、丁寧に考察している。

 ▲この問題に容易な解答はないだろうが、忘れてならないのは「戦争によってもっとも傷つくのは誰か」というシンプルな問いだろう。