小野 浩美(ジャパ・ベトナム・スタッフ)



 民間支援団体、ジャパ・ベトナムは1990年に設立され、12年に渡ってベトナムの復興、自立を目指す小さなプロジェクトに支援を行ってきました。その多くは、貧しい農村地域の基盤整備的なプログラムに向けられていますが、都市部では、ホーチミン市のスラム住民の自立をサポートするバン・グループと、ストリートチルドレンのケアを行うタオダンの活動に対する支援を続けてきています。
 ベトナムでは10年程前からエイズ問題が社会問題化されていますが、都市の貧しいコミュニティに住む住民やストリートチルドレンは、麻薬常用やセックスワ-カーなどHIVに感染しやすい生活を送っていることが多く、エイズはこれらの人々に最も深刻な打撃を与えています。バン・グループは早くからエイズ問題に着目し、近年この取り組みに最も力を入れ、貧しい地域で予防のための広報活動やエイズ患者のケアなどを行っています。一方ストリートチルドレンに対しては、HIVに感染した貧しい若者が自立的に生活できるよう、職業訓練やメンタルケアを行うための「希望の家」が、2000年にタオダンへの支援者によって設立されました。
 ホーチミン市の底辺部で、HIV/AIDS問題と格闘する2つのグループの活動を通して見た、ベトナムのエイズ問題を報告します。
  患者の第一例がアメリカで報告されたのは、1981年のことです。エイズの歴史は今年で22年になります。
 第一例が報告された2年後の1983年には、原因となるウイルスがフランスとアメリカで特定され、さらに2年後の1985年には、抗体検査(HIVウイルスに感染したかどうかを調べる検査)が開発されています。医学面から見たエイズ問題は、非常に速いテンポで解明がされ、薬の開発もされてきました。
 HIV/AIDS問題を医学面から見ると、感染源や感染ルートがはっきりしていて(血液、精液、膣分泌液、母乳)、こんなに予防しやすい病気はありません。正しい知識とそれに基づいた予防行動を行えば、誰でも簡単な方法でHIVの感染から身を守ることができます。しかも、HIVウイルスの感染力は、とても弱いものです。
 急速な感染の拡がりに対して、国際的な取り組みも早くからなされ、1985年には第1回国際エイズ会議が行われています。1996年には、国連合同エイズ計画もスタートし、世界規模でこの問題への取り組みがなされています。
 2001年末時点で、世界でHIV/AIDSと共に生きる人は4,000万人、エイズによる死者は2,000万人と推定されています。誰にでもできる予防法があり、薬の開発も画期的に進歩してきたにもかかわらず、何故22年間で、こんなにも感染が拡がり、これをくい止めることができないのでしょうか。
 爆発的な拡がりを見せているのはアフリカであり、そしてアジアが続いています。感染が拡がる原因は、それぞれの国によって具体的事情は異なりますが、第一に途上国に於いて、予防のための教育活動が人々に行き渡らず、必要な知識が届いていないという問題があります。そこには、教育制度の普及や人権意識の浸透の度合いの問題が大きく影響していると思われます。
 第2の問題として、HIVは主要に性行動を通して感染しますが、性行動をめぐる従来の習慣や社会通念、価値観、感覚などを変え、行動を変えていくことが困難という問題があります。例として、アフリカのある国では、できるだけ沢山の子供を生んだ女性をよしとする社会的価値観があり、コンドームの使用を普及する上での障害になっています。日本では若者の性行動がオープンになってきていますが、それに伴う意識や行動の変容が追いつかず、若年層のHIV感染は増加してきています。
 エイズ問題を解決していくには、人々の意識や社会システムを変革していく、地道な息の長い道のりが必要とされています。
 医療体制からエイズ問題を見る時、国の経済レベルの違いによって感染者・患者の置かれている状況は天と地ほどにも異なっています。日本を含む先進国では、1996年にカクテル療法が開発され、薬によってエイズ発症をコントロールする可能性は画期的に進歩しました。これらの国々ではエイズはすでに死に至る病ではなく、慢性疾患という認識に変わろうとしています。先進国の感染者にとってHIV/AIDSは、まさに共に生きる問題となってきています。しかし医療的恩恵を受けることのできない途上国の感染者にとっては、発症すると為すすべもなく死に至る病なのです。
 予防啓発の面からも、医療体制の面からもエイズをめぐる先進国と途上国の格差は歴然として存在し、そのことは数字となってはっきりと現れています。医療技術の進歩という人類の財産は、HIV/AIDSに苦しむすべての人間にとって救済となるべきであるという理想から現実を見た時、今の世界がいかに不平等と理不尽に満ちているか思わざるをえません。
 ベトナムの政府発表による2001年12月での、感染者数は41,622人、患者6,251人、死者3,426人となっています。感染者数を比較すると、日本の10倍です。潜在的感染者は、一説によると発表数の10倍にものぼると言われていますが、確かな数字はわかりません。
 ベトナムでは麻薬注射の使い回しによる感染が、全体の60パーセント以上を占めています。セックスワーカーによる感染も増加傾向を示し、特に南部の省ではその傾向が強くあります。ベトナムで麻薬使用者、セックスワーカーは社会の底辺で生活する人に多く、HIV/AIDSは、貧しい層の人々を直撃しています。さらに、新兵、警察官、教師、主婦、学生など、他の層の人々へと感染は拡がりを見せています。

 抗体検査については、有料で受けられるシステムがあり、ホーチミン市に検査を受けられる病院は7つあります。病院で受診する妊婦には任意検査、軍入隊者や逮捕され収容所に入れられた麻薬使用者に対しては、強制検査があります。ホーチミン市にはHIV/AIDS科を持つ政府の病院もありますが、貧しい人にはなかなか受診することはできず、また一般の病院では、患者感染者の診察を拒否することは日常茶飯事です。
 今年の6月に国産の予防薬(発症を抑える薬)も開発されましたが、1日約350円かかります。この薬は毎日飲み続けなければなりませんから、月収が5,000円ほどのスラム住民にとっては手が届きません。
 海外からは、国連のUNAIDSがWHOを通じていくつかの国に助けを求め、オーストラリア、カナダ、ドイツ、アメリカ、日本などが、各省でワークショップ、血液検査、検査のための装置や車の支援などのプログラム行っています。しかし海外からの支援は政府の手でコントロールされて、人々のところまで届きません。
 一般の人々はエイズ問題の取り組みに余り参加していません。主に修道会のシスターやわずかな篤志家の医者などによってエイズ患者の世話などがなされていますが、全く足りていません。

 政府は、10年間のコミュニケーションプログラムを持ち、リスクの高いグループ(薬物使用者やセックスワーカー)への対応と、若者への啓蒙活動を行おうとしています。厚生省、労働・傷病・社会委員会、警察など政府システムによって、エイズ問題に取り組んでいますが、感染者の急増がやまないため、手っ取り早く取り締まりと恐怖キャンペーンによって、事態を封じ込めようとしているのが現状です。
 今年の8月にベトナムを訪れた時、去年から政府は薬物使用者、セックスワーカー、路上生活者、犯罪者の撲滅スローガンを掲げ、ホーチミン市内の12カ所の収容施設(刑務所)に17,000人を収容し、さらに施設をもっと増やす予定であるという話を聞きました。
 8月11日にジャパ・ベトナムの視察ツアーでホーチミン入りした私達に、バンさんは、「会わせたい青年がいる」と切り出しました。彼からその時聞いた話は、次のようなものでした。
 「ストリートチルドレンでバン・グループの協力者でもあったトゥオン君(仮名、18歳)が、今年の初め頃警察の取り締まり中にトラブルがあり、捕まってしまった。行方を捜していたが、ずっとわからなかった。実はビントゥアン省にある刑務所に入れられていることが後でわかったのだが、精神的に問題のある母親は自分達が尋ねてもそこを教えてくれず、また自身も半年もの間息子に面会に行かないでほっておいた。トゥオン君は刑務所で栄養失調になり、歩くこともできなくなって、ビントゥアン省にある病院に移された。彼はかって麻薬を使用していて、HIVにも感染していた。バンさんの電話番号を覚えていた彼は、移された病院から医者に頼んでバンさんのところに電話をかけてきて、バンさん達はやっと彼の消息を知ることができ、面会に行った。ホーチミンの病院に移すよう手続きをして、10日位前にこちらの病院に連れてきた。はじめ入院した病院では彼を受け入れられないと拒否されたので、2日前に別の病院に移し、彼は今そこに入院している」
 「一緒に彼に会いに行きますか」と誘われ、その場に居合わせた安藤神父と加藤さんと私の3人が、バンさんといっしょに病院に向かいました。差し入れの食べ物を売店で買いながら、「彼と再会した時は、(あまりの変わり様に)本当に驚いた」とバンさんは話しました。スラムで多くのエイズ患者の最期を看取り、めったに感情の動揺を表に現すことのないバンさんの唇が、ふるえていました。
 病室にはいると、ゴザ1枚敷かれたベッドに、トゥオン君は横たわっていました。ベッドの柵に、手錠がぶら下げてあるのが目に入りました。彼はまだ釈放されていないから、ということでした。バン・グループの協力者が付き添って、世話をしていました。新聞紙が床に散乱し、トゥオン君のお尻の下にも紙が敷かれていました。バンさんがトゥオン君と話を交わし、その後私達は代わる代わる枕元に寄って、彼と対面しました。廊下の窓から何人かの人達が、私達の様子を珍しげに眺めていました。病院にいる他の患者さん達は、はじめトゥオン君に対して差別的な目で見ていましたが、バンさん達が彼らと話をする中で、だんだん友好的になっていったと言います。少し落ち着いてから、トゥオン君は差し入れのスープを美味しそうに飲み、バナナを食べました。
 明日は日本に帰るという8月19日、もう1度トゥオン君に会いたいとバンさんに頼みました。彼はこの前入院していた病院も追い出され、家に戻っていました。バンさんの事務所に彼を連れてきて、会うことになりました。「トゥオンにとっても、家の外に出かけた方が気分転換になっていいから」とバンさんは言いました。
 骨と皮ばかりになった手足をちじこめ、うつろな眼を大きく見開いて、トゥオン君は床に横たわっていました。じっと動かない彼を見て、もう何の反応もできないほど悪くなっているのではないかと私は心配になりましたが、やがて体を起こされ、友達やスタッフの言葉に首を振るのを見て、少しほっとしました。トゥオン君はもう友達のことを覚えていないようでした。事務所にあった、彼が元気だった頃の写真を何枚か見せてもらいましたが、写真と目の前にいるトゥオンが同じ人物だと、とうてい思えませんでした。スタッフのユンさんが、「沢山食べて元気にならなくちゃ」と彼に声をかけました。トゥオン君は「食べているけど、ちっとも良くならない」と言って、歩けなくなった足を指しました。
 別れ際に安藤さんは「今度会う時は、元気になって会いましょう」と彼に言いました。私は彼と握手をして別れましたが、思いがけなく強い力で握り返された手の感触をはっきり覚えています。トゥオンの深い絶望と生への願望を痛いほど感じました。
 日本に戻ってから、ずっとトゥオンのことが気にかかり、安藤さんと話し合って彼の治療費を支援することにしました。彼にはこのまま死んで欲しくない、なんとしても元気になって欲しいと、私はただ願うばかりでした。
 10月3日にバンさんからメールが届きました。「とても悲しいことですが、トゥオンは昨日亡くなりました。私達は2ヶ月間彼の世話をし、彼と共に過ごしました。」捕まり、行方不明になってしまった彼と何とか連絡が取れ、せめて2ヶ月の間でも彼と共に過ごせた時間に、バンさんは救いを見いだそうとしているように思われました。
 「やはりだめだったか」と私は思いました。普通、HIVに感染してから何も治療をしなければ、5年から10年経ってからAIDSになる(発症する)と言われています。刑務所にいる7ヶ月間の劣悪な状況の中で、HIVに感染した彼の免疫力は急速に失われ、体が衰弱していったに違いありません。捕まることさえなければ、あと何年かは元気に過ごすことができたはずなのに、……バンさんのところで見た、トゥオンのうつろな表情が、今でも私の眼の奥に焼き付いて離れません。
 今年の8月、ホーチミン市にあるコンドームカフェに、バン・グループがサポートしている4つの貧しいコミュニティから、10代の若者から60代の年輩者まで、30人余りの人々が集まりました。離れたコミュニティに住む人同士が、一堂に会すことはめったにありません。ジャパ・ベトナムのツアーメンバーもその場に参加し、それぞれの活動を紹介しあい、交流を深めました。
 「私は7区でコンドームを配ったり、病気の女性を医療センターに連れて行きます。」「私はバン・グループの研修に参加し、識字率の向上やエイズ予防の教育をしています。」「私は12人の子どもに勉強を教えています。」等々。
 彼らは皆、貧しいコミュニティで生活しているごく普通の人達で、バン・グループの活動に賛同し、協力して働いています。彼らの多くは、以前、麻薬を使っていたり、また家族に麻薬使用者やエイズ患者を抱えていたり、身内をエイズで亡くしたりしています。「スラムに住む人々の方が、一般社会の人々よりもエイズ差別はかえって少ない」とバンさんは話しています。コミュニティの中で、エイズ問題も含め直面する課題に、お互いに助け合い、支え合いながら彼らは共に生きているのです。セックスワーカーにはコンドームを使うよう促し、麻薬常用者には針を共用しないように呼びかけています。

コンドームカフェのミーティングに参加する
ジャパ・ベトナム・スタッフ
 バン・グループの活動を記録したビデオも上映されました。近隣の省にある中学校で行ったエイズ問題のワークショップ、スラムの子ども達の娯楽活動、エイズで身内を亡くした家族の慰安旅行などが映し出され、みんなで笑い合いながら見ました。最近エイズで亡くなった人の生前の姿も、ビデオに収められていました。長い間麻薬を使用し、その果てにHIVに感染し、ついにエイズに罹り死んでいった人達を、一人の人間として記憶にとどめていこうという、バン・グループの姿勢を感じます。薬を使って延命することは、ここではまだ不可能ですが、エイズ患者を人間として受け入れ、共に生きていこうとする関係性が存在しています。
 翌日、私たちは希望の家を訪れました。希望の家には今11人の感染した若者がいて、職業訓練の学校に通ったりしています。5人はすでに学校を卒業しましたが、不況の中就職先が見つかっていません。学校を続けられなくなった子もいます。パソコンを習って新たな仕事を開拓するなど、模索が続いています。
 路上で生活してきて、自己主張が強くけんかを起こしやすい、一方自分に自信が持てないなどの悩みを抱える子ども達と向き合う、スタッフの献身的な努力が続けられています。8月にハノイで行われたHIV/AIDSの子ども全国会議に参加し、意見発表したことは、子ども達の自信につながったようです。回想記を書かせたり、楽器を習わせてみようかなど教育面での取り組みも、色々模索をしています。私達が会った希望の家の子ども達は、礼儀正しく表情にも明るさが感じられました。


 バン・グループがサポートするスラムや、希望の家にいる感染者・患者は、幸せと言えるかもしれません。彼らがサポートできる人数は物理的に限界があり、ごく一部ですから、実際には何の手当もなく放置されている感染者・患者が、どれだけ沢山いるかわかりません。そこでは想像を絶する悲惨な出来事が、日々起こっているに違いありません。
 政府の取り組みに期待が持てない以上、沢山の「バン・グループ」や「希望の家」の活動を作っていくことが求められているのだと考えます。